2013-05-30

Books & Thingsで買った本,Blumenfeld: Mein 100 Besten Fotos

 祇園の古美術街の路地にあるBooks & Thingsという古書店でアーウィン・ブルーメンフェルドの写真集Meine 100 Besten Fotosを手に入れました。1981年刊の英語版ではなくて,1979年刊のドイツ語版(Benteli Verlag, Bern)。一瞬,ドイツ語版なので(テキストが読めない…)逡巡したものの,ネットで検索した限り入手が難しそうなので,購入することに。大切に抱えて帰ります。
 
 この古書店Books & Thingsは古い町屋をほとんど改修せずにそのまま店舗として使っていて,畳の部屋の壁沿いにぐるりと本棚が配置されています。靴を脱いで上がり,シンプルなスツールに腰かけてじっくりと棚を眺めるのは至福の時。ふと気づけばぺたんと畳にしゃがみ込んで夢中でページをめくります。フォーコンのサイン入りの写真集,ウォーカー・エヴァンスが撮影したアフリカフォークアートの本などなど,懐に余裕があれば,という感じだけれど,また京都を訪ねるときの楽しみにとっておくことにしよう。
 小上がりの二畳間には日本の文学・評論関係も並んでいて,外から覗くとショーウィンドウのように美しい。「浅川巧 日記と書簡」(高崎宗司編,草風館)も購入。

2013-05-28

2013年5月,大阪中之島,国立国際美術館と東洋陶磁美術館

 
 国立国際美術館へは,  地下鉄肥後橋駅から土佐堀川にかかる筑前橋を渡るルートでアクセスしました。初めての地名や川・橋の名前がいちいち面白い。橋の上から大阪市立科学館の建物と,国立国際美術館の地上部分をジオラマモードで撮ってみる。この美術館はシーザー・ペリによる設計で,美術館の機能はすべて地下に収められているという珍しい建物です。
 地下2階のコレクション展を見る。特集展示は「ピカソの陶芸と版画」,「塩見允枝子とフルクサス」の2本です。塩見展が圧倒的な展示。世界中のフルクサスメンバーに宛てた9つの質問と返信された回答で構成された「Spatial Poem」をじっくり眺める。2013年の今,美術館の展示として再構成されるということ自体が,連綿と動きを止めないフルクサスの運動なのだろう。「Spatial Poem」は1冊の本にまとめられて,関連資料のコーナーで実際に手にとって見ることもできます。
 
 ジョージ・マチューナスの「フルクサス(歴史的展開とアヴァンギャルド運動との関係)」など,有名な作品もたくさん並んでいて,運動のエッセンスを楽しみました。
 
 次は同じ中之島にある東洋陶磁美術館を訪ねました。「森と美術の国 フィンランド・デザイン」展はおもにガラスと陶磁器に焦点をあててフィンランドの「timeless design product」を紹介するというもの。アルヴァル・アールトやカイ・フランク,タピオ・ヴィルッカラなどなど,うっとりするガラス製品の数々を堪能します。ポスターのイメージになっているのはアルマ・ヤントゥネンの「Bonsai 盆栽」というタイトルの作品。
 
 東洋陶磁美術館の平常展には,鼻煙壺の沖コレクションの常設展示コーナーもあります。ため息が出るほど美しい逸品ばかり。すっかり満足して美術館を出ると,堂島川沿いの舗道に面して薔薇が咲き乱れています。これもまたため息が出そう。
 大阪は何となく騒々しい街をイメージしていたけれど,静かな川沿いの美しい美術館と咲き乱れる薔薇の花。まるでパリのセーヌ川沿いみたい(よく知らないけど)。
 

2013-05-27

2013年5月,大阪千里,国立民族学博物館

 伊丹空港から大阪モノレールに20分ほど乗って万博記念公園に着くと,太陽の塔が目に飛び込んできました。こんなに大きなものだったか,と今さらながらびっくり。岡本太郎というアーティストの力技を見せつけられる思いがします。政治的な意味でも。
  公園の中を少し歩いていくと国立民族学博物館,通称「みんぱく」に到着です。以前から一度来たかった博物館。世界中の民族資料がぎっしりと詰まっていて,とにかく楽しい。企画展は「マダガスカル 霧の森のくらし」が開催中です。
  本館2階の展示場は考古資料が眠る場所ではなく,民族のエネルギーに満ち溢れた場所です。オセアニア,アメリカ,ヨーロッパ,アフリカ,アジアと巡って最後は日本に帰ってきます。途方に暮れる広さではなくて,ゆっくり歩きながら数時間かけて世界をぐるりと旅する感覚でした。あまりにたくさん写真を撮って,迷いに迷ってこの1枚。ベトナムの水上人形劇の人形たちです。
  展示場を出たところから中庭を見下ろす。「未来の遺跡」と名付けられています。いつかこの建物そのものが遺跡となるかもしれない,という説明を読んで,遠い未来に思いを馳せます。
 「池澤夏樹の旅地図」(池澤夏樹著,世界文化社 2007)の「博物館から旅は始まる」という章は民博の松園万亀雄館長(当時)との対談。民博の成り立ちや,池澤夏樹の「旅」の原点である博物館への想いが伝わってきます。

2013-05-26

古いもの,天神市で買ったもの(1),ローマングラスの香油瓶と李朝の糸巻

 
 ちょっと気分転換がしたくなり,ちょうど期限の切れるマイルがたまっていたので大阪と京都に行ってきました。行きたかった博物館・美術館と古書店はほぼ廻ることができました。

 毎月25日に北野天満宮で開かれている天神市にも,初めて参戦(?)。朝からぐんぐん気温が上がり,すっかり真夏のような日でしたが,ゆっくり一軒ずつ見て回り素敵なものに出会いました。

  銀化した古代ガラスの香油瓶はアフガニスタン出土のものだそう。形の違うものをいくつか並べると素敵だろうなと思いましたが,少しずつ増やしていこう。今回はこの一つをじっくり選ぶ。

 李朝ものがたくさん並んた露台では,こんな木工品を見つけました。糸巻だそう。ちょうど天神市の後に高麗美術館の「朝鮮のやきものと木工芸」展を見に行こうとしていたので,これは呼ばれたのでしょう。即決で購入。

 今回の旅で廻ったのは国立民族学博物館,国立国際美術館,東洋陶磁美術館,阪急古書のまち(大阪),ユキ・パリスコレクション,Books and Things,高麗美術館(京都)。どこも楽しかった!ゆっくりアップしていきます。特に京都の素敵な古書店Books and Thingsではアーウィン・ブルーメンフェルドの写真集を手に入れました。後日あらためて。

2013-05-19

2013年5月,デンドロビウムの花,澁澤龍彦の本

 いくつか蘭の鉢を育てているのだけれど,温度管理と施肥が下手みたいで(それ以外に何が…),なかなか上手に花が咲きません。今年は,毎年花をつけていた君子蘭までもが花芽をつけず,大ショック。

  そんな中,デンドロビウムの鉢には可憐な花が咲きました。うつむき加減の花に見守られるようにして,今年の冬に買ったパフィオペデラムの植え替えなどをして過ごす一日。
 24の美しい花をテーマにした澁澤龍彦「フローラ逍遥」(平凡社,1987)の最終章は「蘭」。ユイスマンスやプルーストなど,蘭の花の出てくる文学作品を取り上げています。次のような記述もあって,だから好きというわけではないのだけれど,と誰に対してでもなく,もごもごと言い訳をしてしまう。
 
 「ホーフマンスタールによれば,オスカー・ワイルドの指は『蘭の花をむしりとり,足は古代絹のクッションの中に伸びていた』という。世紀末の詩や絵画のなかにも,おそらく妖しい蘭の花は頻出するであろう」(p207より引用) 

2013-05-18

2013年5月,横浜みなとみらい,東南アジアの現代美術展

 横浜美術館で開催中の「Welcome to the Jungle 熱々!東南アジアの現代美術」展を見てきました。美術館入口へのアプローチにはストレリチアの植え込みが並べてあって,おお,東南アジアの気分が盛り上がるぞ!と思いきや,近付いて見ると造花でした。造花を飾るくらいなら,別に無くてもよいではないか,と思わずへそ曲がり根性が沸き起こる。
 館内に足を踏み入れると,シンプルでスタイリッシュ(気恥ずかしい言葉だけど)な展示です。これはイー・イランの写真「スールー諸島の物語」。既視感を覚える海景も,近付いてみると不穏な空気が漂う。海の遊牧民を追ったザイ・クーニンの映像「リアウ諸島」は,視覚だけでなく聴覚にも訴えかけてくる。海の音,風の音。海に生きる人々の歌声。「何をしたいんだ?」とカメラに向かって問いかける声。
 出展作家はシンガポール,マレーシア,フィリピン,インドネシア,タイ,ベトナム,ミャンマー,カンボジアの8か国25組です。アンケートに答える参加型の作品や,絵巻物のようなストーリーが描かれたレンゲなど意表をつくものもあり,確かに「多様な文化や価値観が共存し」(展覧会HPより)ているけれど,横浜美術館の洗練された展示空間に置かれてみると,「欧米の現代美術」の展覧会を見るのと見る側の意識としてはあまり変わらない印象です。

 結局,「ジャングル」とか「熱々!」をこの展覧会に期待するのは,「東南アジアの現代美術」に対する単なる先入観なのではないか,とそんな風に感じてしまったのでした。

2013-05-15

2013年5月,東京六本木,アメリカ先住民の肖像展

  夏を思わせる陽ざしがまぶしい午後,東京ミッドタウンの写真歴史博物館で開催中の「エドワード・S・カーティス作品展 アメリカ先住民の肖像」を見てきました。この博物館はFUJIFILM SQUAREの中にあります。クラシックカメラや,富士フィルムの写るんですシリーズなどが展示されているコーナーの壁を一面使っての展示。作品の数は多くはありませんが,印象に残る展示でした。E・S・カーティス(1868-1952)はウィスコンシー州に生まれ,自らを「消えゆく文化の目撃者」ととらえていた写真家です。

  被写体のアメリカ先住民族への興味と,美しいプリントへの興味が重なります。例えば「ズニ族の酋長」(1905)は,男性の凛々しい眼差しが銅版画のようなフォトグランビュールの画面に刻まれています。オロトーン技法という金色に輝くプリントは,アーツ&クラフト運動の隆盛期にインテリアとして好まれたということで,素朴なフレームとともに展示されていました。

 そしてプラチナプリント。「精緻で微妙なトーンときめの細やかさを持つ」(展覧会パンフレットより)というこの技法の,「キャニオン・デ・シェイ ナヴァホ族」(1903)などは,まさにグレーの諧調の美しさを堪能できます。以前,ある美術館のワークショップ・アトリエでプラチナプリントの実習講義を受けたことがあって,「表現としての技法」の面白さは体感済み(えへん)。しかし,素人の付け焼刃とは次元の違う美しさに瞠目しきりです。

 崩壊しつつあったインディアン社会に入り込み,その豊穣な文化と民族の誇りを美しいプリントとして後世に残した写真家の矜持がここにあるのだ!と思いながら展覧会パンフを眺めていたら,図版とタイトルの相違を発見。黙っているのは写真家に失礼な気がしてきて,会場の係の人に伝えることに。こういう行為はあまり好きではなくて(クレーマーみたいで),丁寧な対応に逆に恐縮してしまい,そそくさと会場を後にしました。

2013-05-12

読んだ本,「本の音」/「余りの風」(堀江敏幸)

 堀江敏幸は「河岸忘日抄」という美しい作品を読んで以来のファンで,主な小説は大体読んできたのだけれど,ここしばらくは小説よりも書評やいわゆる文芸評論に惹かれることの方が多い。

 さまざまな媒体に発表された短い書評を集めた「本の音」は親本が2002年出版で,文庫化されたのが2011年。さらに所収されている一番古い初出は1994年。したがって,出版当時は著者が注目した作家の新刊を紹介する性格のレビュー集だったものが,今読んでみると,ああ,やはり堀江敏幸はこの作家の書評を書いていたのだな,という視点でおもしろい。

 ミラン・クンデラ「ほんとうの私」はこの本がきっかけで読んだ1冊。カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」,リチャード・パワーズ「舞踏会へ向かう三人の農夫」などは目次で見つけただけで,「そうでしょう,そうでしょう!」と思わずにんまりする。「本を読む」という行為は孤独な作業ではあるけれど,孤独は荒野ではないのです。(須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」のあとがきからの受け売り。)
 
  そして2012年12月にみすず書房から出版された「余りの風」は一篇ずつがもう少し長い「批評的な散文」(著者あとがきより)を集めたもの。古井由吉,田村隆一,フィリップ・ソレルスなどなど少しハードルが高めな印象を受ける中,須賀敦子に関する二篇「夕暮れの陸橋で」と「空飛ぶスコットランド男」は,一人の女性を描いた二つの短編小説のような趣がある。

 一人の作家についての「批評」を書くという行為はかくも深い敬意という土台の上に立つものか,といういささかの驚きを覚えつつ読み進む。p.201からp.202にかけて,カルヴィーノが「ボルヘスがダンテの『神曲』を論じた一節」を引用した部分を,須賀敦子の訳によるイタロ・カルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」から引用する,となるともはや離れ業とでも呼びたくなる。

 「だが『いろいろ異質な要素を,となり町の山車のようにそのなかに招きいれ』ることができるのは,彼女にとって「文学」以外になかった。迷いを迷いのまま許容してもっと大きな思索へ自身を引きあげてくれる場は「文学」にしかなかったのだ」(pp.202-203)
 「そう,ためらえばいい。待てばいいのだ。次の「島」が見えてくるまで,じっと待てばいい。待つことは「現在」にしか許されていない豊かで過酷な選択を強いる精神の営為であり,矛盾を抱えたまま生きていける舞台なのだから。須賀敦子は,積極果敢な迷いの意義を消すことなく,いつまでも待ち続けるだろう,水上バスの発着所でも陸橋のうえでもなく,彼女自身が遺した文章のなかで,そしてついに書かれることなく終わった括弧付きの「小説」のなかで。」(pp.203-204)

2013-05-08

アートブックバザールで買った本,SWITCH 100号

 連休初日に五反田アートブックバザールで買ったSWITCHの1997年12月号はなかなか収穫の1冊でした。ロバート・フランク+操上和美「北へ」は20ページの「PHOTO STORY」。文と写真は操上和美で,北海道を旅する被写体としてのロバート・フランクに凄みがあって息を呑みます。昨年11月,東京都写真美術館「操上和美 時のポートレイト」展で見た写真も掲載されています。
 
 空港で「さあー,ホリデイだ」と言ったロバート・フランクの気取らないポーズや目を閉じて休む姿を捉えた操上和美の眼は,紛れもなく1枚の写真の存在を完成させようと狙うハンターの眼だ,と思えます。写真家がカメラを構えるその1日は決してホリデイにはなりえないのだろう。 
 そして次の特集記事の沢木耕太郎の文・写真による「天涯」には,1ページを割いてロバート・キャパを語る文章が掲載されています。リチャード・ウィーランによる伝記を訳した関係で,という前置きで,日本に滞在中のキャパのスナップや,キャパが撮影した日本の子供の写真のことなどが,思い入れたっぷりの文章で綴られています。沢木耕太郎の写真は,文章を書く人らしく読者を裏切らない写真だなあ,と。
  
 それにしてもあっという間でもあり,長いようでもあった連休が終わり,日常の生活が戻ってきました。「みどりの日」は何日なのか,「振替休日」は「祝日」なのか,カレンダーで確認しないとよくわからない。今朝,身支度をしているとラジオから「さあ,次は夏休みだ」と威勢のよい声が聞こえてきて,こうして動く歩道の上を走ったり,止まったりしているところに抒情が生まれるわけだ,と半ば諦めるように呟いてみる。

2013-05-05

2013年5月,東京恵比寿,「夜明け前 知られざる日本写真開拓史」展

 東京都写真美術館で「夜明け前 知られざる日本写真開拓史 北海道・東北編」展を見てきました。ポスターもチラシも土方歳三の写真を全面に用いていて,なんとなく「幕末の志士たちの写真展」を期待して見に来ている人も多かったのではないか,という印象。入口の土方写真の前で記念撮影している若い女性も見かけました。
 

 実際は日本における初期写真の所蔵を日本全国で地道に調査した結果の展示で,関東編(2007年),中部・近畿・中国地方編(2009年),四国・九州・沖縄編(2011年)に続くこれが4回目の展覧会。毎回地味な展示だけれど,銀板写真やアンブロタイプなどの古い写真はそれ自体の存在が魅力的で,一つ一つのものが持つストーリーに思いを馳せる楽しみがあります。

 今回は明治初年のアンブロタイプの写真の一つに「消された人物と男性坐像」というのがあって,写っている人物が後から削り取られています。これは欧米では「写真に写っていると,その人物が亡くなったときに天国に行けない」という言い伝えがあるのと関係があるのでは,と解説に書かれています。成仏してほしくて写真の画像を消したのはその人物の家族なのだろうか,そして隣に座っている男性との関係は?「消された」という事実と痕跡だけが今,眼の前にあります。

 蛇足ながら,土方写真は意外と目立たない展示。さらなる蛇足ながら,私は新撰組は斎藤一のファン。

2013-05-04

2013年5月,東京銀座,伊藤剛俊・器展

 遠くには出かけず,ゆっくりと休日を過ごすことに決め込んでいます。春と秋の連休のたびに,益子の陶器市が気になるのだけれど,アクセスマップを見て路線検索をするだけでまた次の休みにしよう,と断念してしまう。

 そんな折り,銀座三越アートスペース∞で「伊藤剛俊・器展」が開催されていると知って小躍り。益子に行きたい動機の一つがこの作家の作品なので,いそいそと銀座へ向かいます。

 「掻き落とし」と「鐵(白・黒)」のシリーズの展示。繊細で独特なフォルムが美しい。開催3日目で,すでに数が少なくなっていたようです。鐵シリーズの香炉や花生けに惹かれたのだけれど,まずは掻き落としのシリーズを一つ手に入れたいと思っていたので,購入は見送り。その足で恵比寿三越に向かい,食器売り場で以前から目をつけていた茶碗を購入しました。

 鉄観音を丁寧にいれて注いでみると,お茶の黄金色が器にぴったり。いつか工房を訪ねてみたいなあと考えながら,繊細な手触りの茶器を両の手で包み込むようにして,甘い香りのお茶を楽しみました。

2013-05-02

読んだ本,「ほんとうの私」(ミラン・クンデラ)

 ミラン・クンデラの1997年の小説「ほんとうの私」(西永良成訳,集英社 1997)を読む。訳者あとがきによれば「チェコの不幸な歴史にまつわる深刻な主題もなく,作者が小説の登場人物になったり,物語のなかでエッセー的な考察を披瀝したりといった,従来のクンデラ作品の「実験的な」試みもまったく見られない。ひたすら熟年のカップルの宿命的な愛の葛藤を微細かつ繊細に語っているばかりだ」(p205より引用)という小説。

 そうは言うけれど,これは紛れもないクンデラの世界だと思う。「ほんとうの私」の原題はL’identité「アイデンティティ」。出版社に勤める「生理的な路程の終わり」にさしかかった女性がある日「私はスパイのようにあなたの後をつけています。あなたは美しい,とっても美しい」と書かれた手紙を受け取ったことから,同居する男とともにアイデンティティの迷宮に迷い込んでいく。結末への過程は半ば衝撃的でもあり,半ば滑稽でもある。

 生と性の世界を包む滑稽というのはまさにクンデラの独壇場ではあるまいか。200ページあまりの短い短編で,読み手の私が主人公の境遇に深く共感できるという点を差し引いても,「冗談」や「生の彼方に」のような長編の重厚さとは趣を異にする「面白い」小説。いみじくも堀江敏幸は「本の音」(中公文庫)でこの小説を「あたらしい更年期小説」(!)と評している。

 「彼女は冒険の完全な不在を堪能していた。冒険とは世界にキスをするひとつのやり方だが,彼女はもう世界にキスなどしたくなくなっていた。世界など欲しくなくなっていた。彼女は冒険がなく,冒険への願望がない状態の幸福を堪能していた」(p52より)
 「私たちの唯一の自由とは,苦渋と快楽とのあいだの選択なのだ。すべてが無意味だというのが私たちの定めなのだから,それを欠陥として担うのではなく,楽しむ術を学ばねばならない。」(p176より)