2021-05-29

読んだ本,「アルゼンチン短編集」(コルタサル他)

  国書刊行会のバベルの図書館シリーズの1冊,「アルゼンチン短編集」(内田吉彦訳 1990 )を読了。バベルの図書館シリーズは造本が好きで,古書市などで見かけるとうれしくなる。この短編集は未読だった。

  コルタサルの「占拠された家」は光文社古典新訳文庫の寺尾隆吉訳「奪われた家」で既読。思ったほど2つの訳文で読後の違いは感じない。コルタサルのエッセンスが凝縮された短編だからだろうか。兄妹が暮らす世界に,幻想の世界が緩慢に侵入してくる。結末に至るまで緩やかな恐怖に襲われる。

 コルタサルの他はルゴーネス,ビオイ=カサレス,カンセーラ/ルサレータ,ムヒカ=ライネス,オカンポ,ペルツァー,ペイロウ,バスケスの全9篇から構成される。どの短編も現実と虚構の境界など存在しない。読みながら,私が今現実を生きていると確認する方法は本を実体のあるものとして握りしめることだけだ。

 しかし,それもまた徐々に不確実なものへと変貌してしまう。オカンポの「物」の主人公カミラ・エルスキーは,自分の人生を彩ってきた「いろいろな物」を「なにかの目録でも見ているように」思い出す。そしてそれらを自分の手に取り戻していった。
 
 「同時に,最初のうち味わっていた幸福な気分が,ある種の不安,恐怖,心配へと変わっていくのがわかりました。/失くした物を見つけるのが怖くて,ろくに物をみることさえできませんでした。」(p.128)

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスによる序文が9つの短編の世界への旅を誘ってくれるので,実に心強い。おかげで無事に帰ってくることができた。

2021-05-16

読み返した本,「金閣寺」(三島由紀夫)

 初読はいつのことだったか,もしかしたら数十年前の高校生の頃だったかもしれない。内海健氏の「金閣を焼かなければならぬ」に導かれて再読してみた。(新潮文庫 1956(2008・123刷))

 細部はほとんど覚えていなかったが,「私」=溝口の告白に三島自身の声を重ねてじっと耳を傾けながら頁を繰り進める。「100分で名著」でも触れられていたが私たちは三島由紀夫の最期を知っている。知っている者として読んでいる。しかし,文庫本巻末には昭和35年の日付の中村光夫氏の解説が載っていて,思わず身震いしてしまった。

 青年僧と三島由紀夫の精神分析についての知見は「焼かなければならぬ」で十二分に学ぶことができたので,ここでは「美」についての描写を拾って読書の忘備とする。

 「私の関心,私に与えられた難問は美だけである筈だった。しかし戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思うまい。美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずぶつかるのである。」(p.62)

 「私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美と官能とを同時に見出すところよりも、はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との連関を取戻し、…肉を乗り超え、…不感のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。」(p.191)

 「…その細部の美を点検すれば、美は細部で終わり細部で完結することは決してなく、どの一部にも次の美の予兆が含まれていたからだ。細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢見ながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。」(p.321)

2021年5月,デンドロビウムの開花


  今年もきれいに咲いたデンドロビウム。薄曇りの朝に撮影したせいなのかどこか物憂げな顔をしている。
 

2021-05-09

2020年10月~2021年4月,横浜・東京,お能の公演


  昨秋からの観能の記録を忘備として。コロナで観客数が減らされてる分,一列前が空いてると舞台が見やすいです。まずは2020年10月に横浜能楽堂で企画公演「馬場あき子と行く歌枕の旅 第1回陸奥国・外の浜」で「善知鳥」を見ました。解説の馬場あき子氏がとても若々しく,手書きのテキストを用いて善知鳥の世界を「歌枕」の視点で鮮やかに語ってくれました。続く舞台もすばらしく,感激。シテは野村四郎師,ワキは工藤和哉師。

 2020年12月に国立能楽堂で久習会公演「和布刈」,「塗附」,「春栄」を。「和布刈」と「春栄」はどちらも珍しいワキ方の仕舞シーンがあるというので(ワキは福王和幸さん),それを楽しみに出かけたというミーハー魂爆発の観能。ところが,久習会で大活躍だったシテ方宮内美樹さんが急逝されたということで,この日は追悼公演となりました。官僚から転身したという彼女の生き方に心打たれ,神妙に舞台を拝見。ご冥福をお祈りするばかりです。

 2021年1月は国立能楽堂で普及公演「昆布売」,「雲林院」を。この日も歌人の梅内美華子さん(美しいお名前。。)の解説「秘密の恋を舞う業平」がありました。シテ(在原業平)は竹田宗和師,ワキ(芦屋公光)は福王和幸師。

 そして2021年4月に宝生能楽堂で銕仙会定期公演「魚説法」,「賀茂」を。大好きな上賀茂神社・下鴨神社の由緒が語られる「賀茂」は迫力満点。「別雷神=わけいかづちのかみ」という響きが何ともいえず心地よいです。ああ,今年は下鴨神社の古書市にでかけたい。となりました。シテは清水寛二師,ワキ(室明神ノ神職)は福王和幸師。要するに私は福王師の追っかけみたいなものですな。

読んだ本,「金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫」(内海健)

  昨年末に大佛次郎賞を受賞したという「金閣を焼かなければならぬ」(内海健 河出書房新社 2020)を読了。図書館に予約して半年近く待った。ちょうどのタイミングでEテレの「100分で名著」で平野啓一郎が「金閣寺」を取り上げている。この連休は三島由紀夫に支配されてしまった気がする。

 著者の内海健氏は精神科医で,金閣寺に火を放った青年僧の林養賢と,この放火を小説「金閣寺」に描いた三島由紀夫の二人を精神病理学の視点で分析している。哲学や文学の深い知見で彼らの精神世界を探訪し,そして交錯させた深い洞察に満ちた本で,実にスリリングな読書の時間を過ごした。

 青年僧の幼少期からその死までを辿り,それと並行するように三島由紀夫の人生と「ナルシシズムの球体」を描き出し,やがて「離隔」というキーワードのもとで二人の精神世界が交錯する。素人がいだく三島の自決の「なぜ」への精神科医としての解答も鮮やかだが,読後感は決して軽いものではない。

  どこまで理解できたのか自信はないが,少なくとも「金閣寺」を読む上で大きな指標を与えてくれた。「金閣寺」の主体は林養賢をモデルにした「溝口」の一人称の「私」だが,そこに三島由紀夫が重ねられていく。

 「離隔を突破するためには,さまよい出てきた金閣を滅ぼさなければならない。それは影を持たない,亡霊のごときものである。冥界へと送り返し,墓標を立てやらねばならぬ。そうすれば,私の世界は外へと開かれるだろう。だが,それを滅ぼす時,自分自身もまた冥界に連れ去られるのかもしれない。なぜなら金閣は,私の存在を包み込むものだからである。/それでもやはり,このナルシシズムの球体は破砕しなければならない。たとえそれが自分自身の世界そのものであっても,生きるためには一旦は消滅させなければならないのだ。炎上するとき,それはこの上もない美をまとうだろう。そしてしばしその影を水面に映し出すだろう。だが,金閣が焼け落ちたあと,はたして私は生き残るのだろうか。」(p.179)

2021-05-05

読んだ本,「破壊しにと彼女は言う」・「ユダヤ人の家」(マルグリット・デュラス)


  休日に書棚を整理して,河出海外小説選に入っているデュラスのこの2冊が気になる。どちらも古書で手に入れたもの。「破壊しにと彼女は言う」(田中倫郎訳 1978)は随分前に1992年刊の河出文庫版で既読だが,ページを繰ってすぐにあれ,と気付く。登場人物の1人の「ステーン」は文庫版では「シュタイン」だ。ドイツ語読みに人名表記を修正したらしい。ということは「ロル・V・ステーンの歓喜」(1967)はどうなんだろうと調べてみると,やはり1997年刊の河出書房新社版は「ロル・V・シュタインの歓喜」だった。

 小説の本筋とは関係なく,こんなことが気になってしまう。Steinはユダヤ人に多い姓。日本語表記はシュタインとするのが通例で旧表記を修正したのだろうか。感覚的なものでしかないけれど,なんとなくデュラスの小説の登場人物は「ステーン」の方がしっくりくるな。「シュタイン」の音は明るい。「ステーン」は閉じている。「デュラスの小説の登場人物」という先入観があるからだろうか,そんなことを考えてしまった。

 「ユダヤ人の家」の解説がユダヤ人のヨーロッパ放浪について詳しい。前作にあたる「破壊しに…」との舞台設定の違いなども。2冊合わせて読み返してみてデュラスが描く人間たちの緊張関係を楽しんだ気になったが,欧米人にとっては常識的でも日本人には容易に理解できないユダヤ的なニュアンスや知識が厳然と存在する。

 不安が日常を覆う休日に,深くは考えずあくまで「テクスト テアトル フィルム」という自由で可塑的な小説世界を楽しむことにした。時がたつのを忘れた。

 「『ぼくたちは,理性の上にたった,いつ実現されるかもわからぬ期待を信じてきたんです。今では,そんなものは役に立たないと思っています』とアバンが言う。/ダヴィッドは考え込む。まわりの者たちの表情をさぐる。/『なにがあったんです』とダヴィッドは訊く。/『忍耐が目的になったのです』/ダヴィッドは,唐突に顔をそむけ,自分の武器にさわったが,火にさわったようにそれをはなす―そう言ったのはユダヤ人だったのだ。彼の声はおだやかだった。」(「ユダヤ人の家」p.136)