2014-02-24

2014年2月,東京六本木,ウィン・バロック作品展

 東京ミッドタウンの入口近く,富士フィルム 写真歴史博物館で「ウィン・バロック作品展 光に魅せられた写真家」展が開催されています。

  ウィン・バロックWynn Bullock。聞き慣れない名前だな,と思いながらも美しいモノクロームのヴィンテージプリントを順に眺めていると,1枚の写真の前で思わず足を止めます。深い森の中に裸の少女が横たわる1枚。森に抱かれている少女の身体からは白い光が発せられているよう。子宮の中で微睡んでいる胎児のようにも見えてきます。それにしても,このあまりに印象的な写真をどこかで間違いなく見たことがあるのですが,それがどこでだったかどうしても思い出せない。
 時間がたつと,この写真を見たのは展覧会ではなくて,写真集や図録の中だったような気がしてきて,とにかく書棚の写真集を片っ端からめくるめくる。そしてようやく,「横浜美術館叢書1 ヌード写真の展開」(二階堂充,天野太郎,倉石信乃著,有隣堂 1995)の第2章「写真芸術の成立とヌード」(倉石信乃)の中に発見。(p.52より。図版右上)
 
 エドワード・ウェストンの継承者として,ハリー・キャラハン,ウィン・バロック,マイナー・ホワイトの3人とそれぞれの代表的な写真が紹介され,ウィン・バロックの作品に見出されるのは「ウェストンの写真ではしばしば抑制されていた,自然が自ら描きだす光景の人為を越えた荒々しさや不可思議さを,より演劇的により神秘的に描くことだろう」(P.51)と指摘しています。
 
 さらにこの1枚「森の中の子供Child in Forest」に関しては,「自然と人間との同一化を深淵な森に子供が横臥するという情景に託し」ていると指摘。なるほど!勉強になりました!という感じで本を閉じます。予備知識もなくふらりと入った写真展で,大きな収穫を得た気分になりました。これぞ「われらの獲物は一滴の光」。

2014-02-22

2014年2月,東京六本木,ラファエル前派展

 六本木の森アーツセンターギャラリーで「テート美術館の至宝 ラファエル前派展」が開催されています。2012年にロンドンのTate Museumで見てきたPre-Raphaelites:Victorian Avant-Gardeの巡回展ですが,Tate所蔵の作品のみによるダイジェスト版です。コンパクトにラファエル前派の全容と魅力を楽しめる展覧会です。
(特別鑑賞会に際して許可を得て撮影)
  展示の章立てや分類も異なっていて,例えばロセッティの「見よ,我は主のはしためなり(受胎告知)」はTate展では「5.Salvation(救世)」に展示されていましたが,日本展では「救世」という章はなく,「2.宗教」の章に展示されています。なるほど,こうすれば日本では理解しやすいかも,という感じで全体が再構成されています。

 今回楽しみにしていたのが,ミレイの「オフィーリア」との再会。何度見てもこの美しい悲劇の情景は変わらずそこにあるのですが,見ている私は当然年をとっていくわけで。この絵に関する知識も少しずつ増えて,モデルとなったエリザベス・シダルへ思いを馳せます。

 のちにロセッティの妻となった彼女は自身でも絵筆をとっていて,今回は水彩画が2点展示されています。先入観もあるせいか,暗い画面を覆う線がどこか神経質なものに見えてきます。アヘンの過剰摂取で自殺同然に亡くなったという彼女の死を想ってロセッティが後年描いたのが,「美」の章に展示されている「ベアタ・ベアトリクス」(1864-70頃)。死の使いの鳩がくわえたケシの花が哀しい。

 会場には作家たちとモデルの女性たちとの人間関係を読み解く男女相関図(!)や解説パネルも用意されていて,ラファエル前派を構成した人間ドラマ(かなりドロドロ)も楽しめます。

 ラファエル前派に関する著書は数多くありますが,「ラファエル前派 美しき〈宿命の女〉たち」(岡田隆彦著,美術公論社 1984)はその全容と日本での受容までを網羅していてとても参考になる一冊。漱石の「薤露行」の分析は,そうだったのか!の連続でした。

2014-02-18

2014年2月,東京渋谷,ハイレッド・センター 直接行動の軌跡展

 松濤美術館にでかけて「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡展」を見てきました。リニューアルオープンということですが,外観も展示室も見た目にはほとんど変化はわかりません。空調設備などが一新されたそう。外部吹き抜けの噴水はそのままで,なんとなくほっとします。この建物の美しさは「水」の動きがあって完成していると思うので。
 展示室に足を踏み入れると,そこは「50年前の前衛」を記録写真や資料によって追体験する場となっています。観客は過去の出来事を,未来である2014年の現在から傍観するのみです。
 
 中西夏之のコンパクト・オブジェや赤瀬川原平の偽千円札の本物(!)などは当時の姿のまま展示されているのですが,平穏な市民の日常を撹拌する彼らの行動は時代とともに成立したものであって,この展示を見た今の私の日常が「撹拌」されるとはちょっと考えられない。
 
 その点は,近年見た展覧会でもたとえば「具体」展「フルクサス」展など,芸術の運動に焦点をあてたものであれば,現代からの眼差しであったり,共感であったり,直接的な関係を体感できますが,この展覧会はかなり異質な印象を受けます。
 
 なぜだろう,と考えながら、やはりイベント(今ならパフォーマンス)の持つ身体性,一回性ということにたどり着く気がしてきます。いみじくも私が出かけた日には映像作家の飯村隆彦氏による講演とフィルムパフォーマンスの開催日で,氏はハイレッド・センターのイベントも再現してほしい,と言っていました。たとえば音楽は楽譜があれば誰でも再現(再演)することが可能だ,「パフォーマンスは肉体から解放されるべきだ」と。
 
 うーん,となる。この過激な運動と,楽譜という言語を持つ音楽を並べて語ってよいものだろうか?それに肉体・身体をキーワードにパフォーマンスを考えるなら,畢竟,舞踊や演劇へと話は展開していくはず。
 
 これはちょっと手に負えないなとか,展示されていた後年の高松次郎の影の作品や,中西夏之のフラクタルな印象の抽象画はやはり好きだな,とかとりとめなく考えたところで,はっとします。
 
 この展覧会は,少なくとも一人の凡庸な観客の思考を撹拌している!ハイレッド・センターが50年後の未来に仕掛けた罠にまんまとはまった気分で家路につきました。晟一

2014-02-15

2014年2月,東京丸の内,「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義」展

  三菱一号館美術館で開催中の「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義 1860-1900」展を見てきました。展覧会イメージのアルバート・ムーア「真夏」(1887)がとにかくきれい。
  19世紀半ばの英国,産業革命後の物質至上主義に異議を唱えた前衛芸術家たちの信念とは,芸術は「唯,美しくあるために存在すべき」だというもの。展示されているのは絵画,版画,家具,工芸,宝飾品などなど。相互の関係や当時の社会・風俗との関わりといった横への広がりや,社会に登場した経緯から世紀末藝術へと収斂していく時間軸を追った構成など,exciting!な展覧会でした。
 
 絵画はロセッティやバーン・ジョーンズなどのラファエル前派の作家からビアズリーなどの世紀末芸術の作家が並んでいて,アルバート・ムーアやフレデリック・レイトンなどあまり聞き慣れない作家の名前もあります。ムーアの「真夏」は実物を前にすると,その着衣の橙色のあまりの美しさにぽかんと口が開いてしまう。
 
 面白かったのがバーン・ジョーンズの鳥のブローチ。あれ,こういうののデザインもしてたんだという驚きと,小粒のトルコ石と珊瑚の繊細で上品な組み合わせにノックアウト状態です。よし,いつの日かまたロンドンのアンティークフェアに行けたら,こういう感じのブローチを探そう!と心に決める。
 
 他に強く印象に残ったのは,ロセッティらが愛した染付(V&Aミュージアムから)。ホイッスラーのエッチング「アムステルダムのバルコニー」。冬枯れの薔薇の花は美術館の庭園にて。
 

2014-02-13

2014年2月,東京銀座,帰還 山本直彰展

 銀座のコバヤシ画廊で「帰還 山本直彰展」を見てきました。毎年,新作の展示を楽しみにしています。真冬の銀座の冷たい喧騒から一本通りを離れ,地下の画廊への階段を降りていきます。
  黒いドアのノブを回し,一歩足を踏み入れるとそこはもはや画家の内面世界のよう。近年の帰還シリーズは,かつてのDOORやIKAROS,PIETAなどのシリーズより一層深い抽象へと向かっているようで,画面はドリッピングのようでもデカルコマニーのようでもあり,観る者はただただその世界へと惹きこまれていきます。

 これまでは和紙に絵具が滲みこんでいく様が強く印象に残ったけれど,今回はもっと表面がツルツルした紙を用いているようで(合成紙と書いてありました),表面上の絵具への繊細な筆の動きなども見てとれます。居合わせた人と画廊主の対話を耳に挟んだところ,銀箔を紙の裏面に貼ってある箇所もあるらしい。

 それにしても,と思う。「帰還」とは「何処へ/何処から」を意味するのだろうか。以前も引用したことがありますが,2009年の平塚市美術館「帰還する風景」展の図録に寄せられた画家の言葉がその答えでもあるように思えるのですが,それはあくまでも観る者にとってヒントでしかないでしょう。

 冷たい冬の日の午後,地下の四角い部屋の木の床をみしみしと音を立てて,いつまでもいつまでも答えを求めて絵の前を彷徨います。答えは自分の言葉でしか紡げない。私もまた,何処へ帰ろうとしているのだろうか。

2014-02-09

古いもの,ブルージュで買ったもの,カード数枚

 昨年のオランダ旅行で一日隣国ベルギーのブルージュを観光した際に,アンティークの紙類を扱うお店で買ったカードです。モノクロームの花はおおでまりとニオイスミレの組み合わせのようです。思いがけない大雪が降って,春が待ち遠しい気分にぴったり。日々の装いや,カーテンなどファブリック類の花柄は苦手で,およそ色気のないシンプルなものが好きなのですが,こと古いものとなると,花のモチーフに心惹かれます。
  真ん中の花束を持っておしゃまなポーズをとる少女は手彩色かもしれません。表にはフランス語(たぶん)で,名付け親から少女への誕生日祝いのメッセージと読める文が認められています(たぶん)。鮮やかなフューシャピンクの花と,少女の背景にほんのりと色づけられたピンクがとても優しい。

 きっと心優しい大人たちに囲まれて幸せな毎日を過ごしていた少女なのでしょう。いつまでも年を取らないまま,私に微笑みかけてくれるこの少女は,どんな人生を送ったのでしょう。黒インクの筆跡はいまも瑞々しく,思わず私もお誕生日おめでとう,と親戚のおばさん(!)のような心境になってしまいます。
 
 

2014-02-08

読んだ本,「孤独な娘」(ナサニエル・ウェスト)

 新聞の書評欄だったか,誰かの読書案内本だったか,タイトルに惹かれて購入。2013年5月に岩波文庫から刊行されたナサニエル・ウェストの「孤独な娘」(丸谷才一訳)を読了。
  1930年代アメリカを舞台に,新聞の身の上相談欄を担当する「孤独な娘」Miss LonelyHeartsが主人公。身の上相談欄への投稿者の手紙はすべて悩み事だ。日々それらを「読み」,回答を「考える」孤独な娘の煩悶が,あるときは深刻にあるときはブラックユーモアたっぷりに描かれるのだが,「《孤独な娘》の宗教的体験」と題された最終章は,あまりにも滑稽な,しかしこの上なく悲惨な結末を迎える。

 解説には「一体どの国の,いつの時代の作家なの」か(p.175),現代の読者にはなじみの薄いNathanael Westについての詳しい解説がある。わずか4作品を残して37歳で世を去ったという作家の本質=burlesque(バーレスク:茶化し)への指向が分析されていて,なるほどと納得する。解説は富山太佳夫先生。

 翻訳の底本が出版されてからも50年以上,2013年の日本で文庫本を手にした私がこの孤高の作家から受け取ったものは何だろう。「孤独な娘」のつく憂鬱なため息が,いつまでも耳の底に残るようだ。そのため息は私自身の憂鬱でもある。

2014-02-04

読んだ本,「十二の遍歴の物語」(G. ガルシア=マルケス)

 積読本の山を少しずつ崩していこうと,まずはガルシア・マルケスの初期短編集「十二の遍歴の物語」(旦敬介訳,新潮社)を手に取る。12編すべてヨーロッパが舞台になっているが,それぞれ独立した短編で連作ではない。しかし,読み通すと「ヨーロッパのラテンアメリカ人」とは何者なのか,というテーマが立ち上がってくる。
  ただ,そうしたテーマはガルシア=マルケスの紡ぐ物語の通奏低音とでもいったものであり,12の個々の物語はどの一つをとっても現実と幻想のはざまを漂う不穏な物語だ。
 
 とりわけ,「『電話をかけに来ただけなの』」という一篇に惹かれる。バルセローナに向かって一人で運転していたレンタカーが故障したマリア・デ・ラ・ルース・セルバンテスは一台のバスに乗って精神を病んだ人々の入る病院へと導かれる。マリアは夫に「電話をかけに来ただけ」なのだ。
 
 その後の出来事は,一体何が正気で何が狂っているのか,マリアにも夫のサトゥルノにもそして読者にもわからない。しかし,読み進みながら,これはまるで子供の頃に怖れた妄想そのものではないか,とも思う。
 
 そのことに気づいたとき,「ああ,やっぱり,こういう話は現実にあるんだ」とふと考えてしまったことにまた戦慄する。小説という虚構の世界の出来事に,自らの妄想を重ね合わせた結果,それは奇妙なリアリズムを伴って身体に迫ってくる。
 
 瓦礫と化した精神病院を(おそらくは)満ち足りた表情で立ち去ったマリアが辿りついだ場所は,私が本を閉じて一歩を踏み出したまさに今,ここなのではないか。
 
 ほかに「毒を盛られた17人のイギリス人」,「雪の上に落ちたお前の血の跡」など。ガルシア=マルケスの描く生と死の境界は,東京に降る雪のようにあいまいで茫洋としている。

2014-02-01

2013年11月~2014年1月,いくつかの展覧会,「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」展など

 少しく時間ができて,見に行った展覧会などいくつかの事柄を書き留めておかなかったものが気になってきました。忘備録的に。

 2013年11月,東京国立博物館東洋館で「特別展 上海博物館 中国絵画の至宝」展。五大・北宋から明清にいたる中国絵画の流れをたどる「中国美術の教科書」(展覧会チラシより)さながらの展示でした。とりわけ心に響いたのが清代の八大山人(朱耷:しゅとう)の花鳥図。筆の運びの線と余白の美しさがいつまでも残像として残ります。随分と前のことになるけれど,金沢のアンティーク・フェルメールで店主の塩井さんに八大山人の美しい画集を見せてもらったことなど思い出す。
 
 2013年11月,東京都写真美術館で「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」展。2014年1月にも再訪。その名の通り,日本とフランスの二人の写真家のそれぞれの仕事が時代を追って網羅的に紹介された展覧会です。なぜこの二人の組み合わせ?と思ったけれど,図録やHPに詳述されている解説を待たずとも,「写真であそぶ」という副タイトルを念頭に会場を一巡して思わず喝采を送りたくなる。「写真であそぶ」は「写真を生きる」ということでもあるのだなあ,と感じた次第。
 2013年11月,東京国立博物館で「京都 洛中洛外図と障壁画の美」。あまりの混雑ぶりで,龍安寺の4K映像がきれいだった,というのは展覧会を見に行ってどういう感想だ?と一人つっこみ。
 
 2013年12月,同じ東京都写真美術館で「須田一政 凪の片」展。「風姿花伝」で有名な写真家の,最新作「凪の片」シリーズにはっとします。タイトルの意味は,彼岸と此岸の間の,風の止まる一瞬の集積ということらしい。この写真家にとって,シャッターを切る瞬間は時間の「凪」なのか。ずっと「凪の片」という言葉を考えながら会場を廻りました。
 
 ほかに2013年12月,東京オペラシティアートギャラリーの収蔵品展「聖と俗」展では久しぶりに難波田龍起の油彩を観る。抽象絵画だからこその「聖性」としてそこにある青い画面を前に,思わず時間を忘れます。ケーテ・コルヴィッツの小品,船越保武のブロンズ。