2022-12-31

読んだ本,「アイルランド紀行」(栩木伸明)・「アイルランド絵画の100年」展図録

 この12月いろいろあって,すっかり更新を怠ってしまった。健全な思考は健全な肉体に宿るということを改めて痛感した日々。

 読書も進まなかった。「アイルランド紀行」(栩木伸明 中公新書 2012)をようやく読了。著者はしがきによれば,「自分の記憶と他人の記憶を寄せ集めて,新しいディンシャナハスのアンソロジーをこしらえてみたい」ということ。ディンシャナハスとはアイルランドの
地名が秘める起源や由来の物語のことだという。(はしがきⅲより)

 目次を繰るだけでわくわくしてくる。「ケルズの書」、ジョイス「死者たち」・「ユリシーズ」、ベケット、イェイツ、オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」などなど30の短編はどれも独立していて,まさにアイルランドを旅する気分を満喫できる。

 そして今まではつい読み飛ばしてしまっていたかもしれないのが「語り出す数々の顔」の章で紹介されているルイ・ブロッキー。しばらく前にベケット「いざ最悪の方へ」を読み返し,口絵のベケットの肖像がその手によるものだと再認識した画家である。この章ではダブリン市立ヒュー・レーン近代美術館所蔵の「クロンファートへの賛辞」他について語られる。

 いつかどこかの古書市で手に入れた「アイルランド絵画の100年」展図録(1997)にまさにその1枚の図版が掲載されていた。クロンファート修道院という古い修道院遺跡の壁には人頭の浮彫がずらりと並び,古代ケルト人の人頭崇拝がキリスト教と結びついたものだという。

 図録の解説によれば,ルイ・ブロッキーは「人間のイメージをその頭部にのみ託し,個々の精神のみならず,私たちが共有する過去のイメージもまた喚起させようとした。これらの頭部は(略),それらは相互に孤立しており,精神が存在する魔法の箱としての頭部という,古代ケルトの信仰を視覚的に具現化した」のだという(図録p.93)。

 まさに「語り出す」顔をじっと眺める。そしていつかダブリンへ、ヒュー・レーン近代美術館へ、そしてまたいつか彼がインスピレーションを得たというパリの人類学博物館(現ケ・ブランリのことだと思う)を訪れることができる日を夢見て2022年を終えることにしよう。
 来年はもう少しちゃんと(?)更新します。読んで下さった皆様,ありがとうございます。どうぞ良いお年をお迎えください。

2022-12-04

2022年11月,東京上野毛他,「西行」展他

 いくつか気になる展覧会があって,久しぶりにぐるっとパスを購入しました。とてもお得なのだけれど,生来の貧乏性ゆえ,元を取らなきゃと必死(?)になってしまいます。じっくり見たり考えたりというプロセスがおろそかになってしまっているのですが、とりあえず忘備録として。

 まずは五島美術館で「西行 語り継がれる漂泊の歌詠み」展(12月4日まで)。古筆を中心に絵画・書物・工芸などなど。東博や京博からも国宝がずらりと並んでいて,西行という歌人が語りかけてきたものを辿ることができる展覧会です。

  私にとって西行は辻邦生の「西行花伝」に描かれた世界がすべて。自筆の手紙など見ていると,辻邦生の作り上げた小説世界と現実が交錯してきて,夢中で読んだ日々を思い起こさせる体験となりました。

 六本木の泉屋博古館では「板谷波山の陶芸」展を。これだけまとめて見たのは初めて。とにかく「麗しい」という形容しか思いつかない。廣津美術館蔵の「彩磁蕗葉文大花瓶」は「完璧な美」というものを目の当たりにして圧倒されます。 

 大倉集古館ではコレクション展の「信仰の美」展を。大倉喜八郎が蒐集した中世から近世にいたる仏教美術の優品がずらりと並びます。「審美眼」という言葉の意味が具現化されているような展覧会。
 もう1つ、汐留のパナソニック汐留美術館では「つながる琳派スピリット 神坂雪佳」展を。琳派の優品と,その精神を受け継ぐ神坂雪佳の図案・絵画を楽しんで大満足。

2022-11-23

2022年11月,埼玉大宮,大宮盆栽美術館・埼玉県立歴史と民俗の博物館

  さて,大宮から土呂へ向かって大宮盆栽美術館へ。特別展の「Life with Bonsai」(11月9日で終了しています)はいつもと趣が違うおしゃれな展覧会。9人のアーティストらがゲストキュレーターとなって「盆栽とともにある魅力的な暮らしのスタイルや,新たな飾りの楽しみ方を紹介する」(チラシより)というもの。

 ロビーフロアはインテリアブランドのTIME&STYLEと加藤蔓青園のコラボでこんなおしゃれな展示。須田悦弘の展示には圧倒されました。小さな木彫の放つ力が盆栽の魅力を倍増している感じ。大和田良の写真とのコラボもよかったなあ。盆栽家の山田香織の展示は期待度が大きすぎたのか,ちょっと盛り込みすぎな感じがして残念だったかも。

 盆栽美術館を後にして,ぶらぶらとアーバンパークラインの大宮公園駅へ向かい,次は埼玉県立歴史と民俗の博物館へ。「銘仙」展が開催中。技法や歴史の説明も充実していますが,とにかくそのおしゃれな柄が楽しい。古典的な菊や紅葉もとてもモダンだし,薔薇や幾何学文様などは今の眼から見てもかっこいい。秩父銘仙は御茶ノ水女子高等師範学校の制服にも採用されていたのだそう!

 埼玉県立歴史と民俗の博物館は初めて訪れました。常設展示の規模が大きくてびっくり。第6室では板碑の展示をじっくり拝見。本尊を表す梵字(種子)の解説図がありがたい。キリーク,サ,サク,バン,ア…と声に出してみました。呪文のような響きが神秘的。 

2022年11月,埼玉行田・北浦和,さきたま史跡の博物館,「桃源郷通行許可証」(埼玉県立近代美術館)

 ある日の職場でのこと。何がきっかけでそういう話題になったのか覚えてないのだけれど,忍城はいいよ,併設の郷土博物館もとてもいいよ,行田にはおいしい店もあるよ,と聞いて,よし!と行田へ向かいました。秋晴れの休日。

 乗換案内やバスの時刻表を駆使して順調にまずは忍城址へ。姫路城みたいに〇、△、□の狭間があるんだ。紅葉も美しく,さて博物館へと向かったら、なんと!休館日でした。あんなにアクセスを確認したのに,休館日を確認し忘れたという。。

 がっくりきたけど,ならば古墳公園へ向かおうじゃないか。時間があれば行きたいと思っていたのでこれは好都合ということにして自転車を借りていざ。で,途中におすすめのレストランに寄ろうとしたらすでに閉店しているらしく,一体私は何をしにきたのか。。

 しかし,とにかくもたどり着いた遺跡公園には大感動。さきたま史跡の博物館で稲荷山古墳出土の国宝金錯銘鉄剣の展示に大興奮です。こんな風に表面も裏面もはっきりと金象嵌の文字を見ることができます。この部屋には一括指定された国宝がずらりと並び,足が震えそう。神獣鏡や帯金具のあまりに美しい文様にも時を忘れて見入ります。

  古墳公園の中は自転車があって本当によかった,と思うくらい広い。稲荷山古墳に登ったり,将軍山古墳は内部の展示館を見たりテンション上がりっぱなしです。陽が傾いてきて市街へ戻る途中,美しい水城公園でしばし休憩。


 この日は大宮に1泊することにしていて,夕刻,閉館の時間までを北浦和の埼玉県立近代美術館で「桃源郷通行許可証」展を見ることに。文谷有佳里×菅木志雄の展示では,この奇妙な一日がそこにある菅作品の木と鉄に収束されていくような不思議な感覚を味わう。稲垣美侑×駒井哲郎もとてもよかった。この展覧会はじっくり時間をかけて見たい。会期中にもう一度出かけるつもりなので,また項を改めて。

読んだ本,「愛と幻想のハノイ」(ズオン・トゥー・フォン)

 「愛と幻想のハノイ」 (ズオン・トゥー・フォン 石原美奈子訳 集英社文庫 2004)読了。パラパラとめくった書評本で気になった1冊。手に取ってみると,表紙のアオザイ姿の女性のイラストがおしゃれで,すらすら読めるのかと思いきや,登場人物たちの欲望や葛藤が息苦しいほど。原作は1987年刊,英語版からの翻訳。

 1980年代のベトナムが舞台。信念を曲げた記事を書いたジャーナリストの夫を罵り,運命的に出会った音楽家への愛に目覚めた文学教師のリンが生きていく姿を描く。普遍的な物語ではあるのだろうけれど,国家権力と結びつくジャーナリズムや芸術家の葛藤など,ベトナムという国の社会的歴史的背景の一端を垣間見れて読後感はずっしり重い。

 この作家は日本での出版当時,執筆停止の状態だったという(訳者あとがきより)。雨のハノイに滞在した短い旅の日々を思い出す。美味しい食事と美しい手仕事の国という表面しか見ていなかった。命がけで文学に向き合う人の存在も知らずに。またあのホアンキエム湖を訪れてみたい

 勤務先の校長や生徒たちの心配する声をリンは聞く。「〈他人からの同情ほどいやなものはないわ、自尊心のある人間にとって。物乞いにほどこされるスープみたいなものだもの〉そうした思いに,暗い灼熱の地獄へたたき落とされた。同情は傷口を広げた。まだ血を流している,癒えることのない傷を。なぜなら人間のやさしさというのは,もの言わぬ動物か愛くるしい子どものようなもので,それにはリンも背を向けられなかったから。」(p.181)

2022-11-20

2022年11月,東京池袋,「ヒンドゥーの神々の物語」展・これから読む本,「インドの神々」

 
 古代オリエント博物館にでかけて「ヒンドゥーの神々の物語」展を見てきました。ちょうど担当学芸員さんのギャラリーツァー開催日でラッキー。1時間強の詳しい解説を聞きながら楽しく拝見。

 福岡アジア美術館、平山郁夫シルクロード美術館(行ってみたい)との共同企画ということらしく,この博物館では珍しい近現代の展示です。とはいえ序章ではオリエント博物館所蔵の土偶や石器・金属類の展示もあって,インドの混沌のその一端を垣間見ることができるような展覧会。いやあ,楽しかった!

 中心になるのはインド大衆宗教図像を蒐集してきた黒田豊コレクションで,17世紀以降のガラス絵や民俗画,ヴァルマー・プリントと呼ばれる印刷物などなど。媒体も絵画や立体や布製品や写真などさまざまで,ヒンドゥーの神々が今にも展示室に躍り出てきそうな迫力です。
 雲母の薄い層に絵が描かれた細密なガラス絵が面白い。一つ一つ見ていくとどれだけ時間があっても足りません。ヒンドゥーの神々の相関関係もややこしく,会場内の相関図の前と行ったり来たり。猿神のハヌマーンの像には理屈を超えて惹かれるのです。インドの遺跡や街角で見たお猿さんたちが懐かしい。
 
 9番目の化身がブッダというヴィシュヌ神の化身については以前から興味があって,ちゃんと読みたいと思いつつ積読になっている「インドの神々」(リチャード・ウォーターストーン著 創元社 1997)を引っ張り出してきて,今度こそと決意(?)する。カラー図版が中心で第1章「古代インド」,第2章「出家」,第3章「ヴィシュヌ神の諸形相」,第4章「シヴァ神と女神」…(第8章まで続く)と,実に面白そう。

2022年11月,東京初台,「川内倫子 M/E」展・「連作版画の魅力」展

 東京オペラシティアートギャラリーで開催中の川内倫子展を見てきました。東京都写真美術館でまとめて見たことがあるな,と思って調べてみたら2012年のことでした(「川内倫子 照度 あめつち 影を見る」展)。え,10年も前?とびっくり。今展はこの10年の活動に焦点を当てているとのことで,作品はもちろんのこと「10年」という時間を目の当たりにしたような気がしてくるから不思議です。

 柔らかい光の中を浮遊するような感覚は変わらない。「生命」を撮ることは「自然」を撮ることへと繋がっていくのだ,ということが伝わってきます。タイトルの〈M/E〉はMotherとEarthの頭文字とのこと。「母なる大地」は「私自身」でもある,という説明になるほど,となりました。

 心惹かれるものが多いなか,「4%」連作の中のクラゲのモチーフに思わず見入ります。私たちの生命とこの不思議な生命の繋がり。こうして1枚の確かなイメージを紡ぎ出す写真家の力に羨望を抱きます。水族館で無邪気にパシャパシャとシャッターを押したイメージとはまったく異質のものだなあ,と。

 同時開催の寺田コレクション展「連作版画の魅力」展も心躍る内容の展覧会。李禹煥の版画をこんなにたくさん見れるとは! リトグラフ,ドライポイント,シルクスクリーンなどなど技法もいろいろ。「点より 線より」(8点組)は見る側にとって,油彩の大作とはまた違う親密さがあって時が経つのを忘れて見入ってしまう。

 他に中西夏之,加納光於,郭仁植などなど見ごたえたっぷり。ところで郭仁植といえば,このギャラリーで開催された単色画の展覧会で魅了された鄭相和の版画を最近手に入れました!この顛末はまた項を改めて。

2022-11-13

読んだ本,「李王家の縁談」(林真理子)


 「李王家の縁談」(林真理子 文藝春秋 2021)読了。初めてのソウル旅行(2015)で宗廟を訪れたとき,李朝最後の王世子(皇太子)の李垠とその妻の方子の霊も祀られていると知り,日本の皇族から嫁いだというその女性の人生に興味を持ったのだった。

 帰国してからちょっと調べただけですっかり忘れていたが,昨年この小説の出版を知って,やり残した宿題を思い出した気分に。今頃になってようやく頁を開いた。読み始めるとその日のうちに読了。林真理子氏の文章はとても読みやすい。

 方子の母の梨本宮伊都子の日記が元になっている。明治・大正・昭和の皇族の姿がドラマか映画を見ているようだ。政治とは切り離せない縁組の行方や哀しい事件に同情を覚えそうになるが,およそ下々の世界からは想像もできないやんごとなき世界の出来事。

 読み終えてふと考える。林真理子という小説家が構成した世界と,私という読者の生きる世界を繋いだのは,宗廟でチマチョゴリ姿がかわいいガイドさんの言葉だ。ここには最後の王世子様と奥様の方子様の霊もお祀りしているのです。フィクションと現実がメビウスの輪のようにぐるぐると回る。

 小説では韓国に帰国してからの王世子夫妻と息子の人生は描かれない。巻末には多数の参考文献が記載されているので,次は歴史書で読んでみようと思う。文庫本も多い。「梨本宮伊都子妃の日記」(小田部雄次),「日韓皇室秘話ー李方子妃」(渡辺みどり)などが入手も容易そうだ。

2022-11-08

読んだ本,「夜のみだらな鳥」(ホセ・ドノソ)

 「夜のみだらな鳥」(ホセ・ドノソ 集英社「ラテンアメリカの文学 11」,1984)を読了。なんて長い時間かかってしまったことか。途中何度も頓挫したり,他の本を読んだり。それでもようやく読み終えた。私は一体どこへ行っていたのだろう。

 木村榮一著「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書)の中の1冊なので,以前から読んでみたいと思いつつなかなか手が出せなかった。そして手を出してすぐに後悔した。これはとてつもない小説だ。

 同著によれば,コルタサルは悪夢を見ると「悪魔祓いの儀式」として短編を書くのに対して,ドノソは「強迫観念から生まれる狂気や妄想」を作品の中で描き出したのだという(「ラテンアメリカ十大小説」p.140)。まさにその「狂気と妄想」の世界に読者は引きずり込まれて,マジックにかかったように読み進めることになるのだ。

 語り手のウンベルトと彼を取り巻くドン・ヘロニモ,ドーニャ・イリス,そして彼らの子「ボーイ」。登場人物とあらすじをまとめてみることはもちろん可能だ。しかし,そこにどんな「意味」を見出すことができるのか。読み終えて数日,読書のカタルシスを感じるどころか,狂気と妄想の世界に置き去りにされて未だ呆然としている。

 一体どの部分をここに引用しようか。どこを切り取っても狂気の一部であり,すべてが妄想なのだ。特殊な存在(詳細は伏せておく)である「ボーイ」が育てられるリンコナーダの屋敷での場面から。「…《ボーイ》は知ってはならぬことばのなかでも,とくに大事なのが,始めや終りを名指すすべてのことばだった。理由,時,内,外,過去,未来,開始,結末,体系,帰納に類することばはいっさい,ご法度。ある時刻に空をよぎる一羽の鳥も,どこかよそへ飛んでいくのではない。よその場所など存在しないのだから。また,ほかの時刻に飛ぶということもない。ほかの時刻など存在しないのだから。《ボーイ》が生きているのは,呪縛された現在である。偶然や特殊な状況の辺土のなかである。物からの孤立のなかである。」(p.196)

2022-11-03

2022年10月,千葉佐倉,「加耶」展・読み返した本,「パレオマニア」(池澤夏樹)

 国立歴史民俗博物館へは京成佐倉駅からバスでアクセスしました。国際企画展示の「加耶」展がとても楽しみ。百済や新羅、そして海をはさんだ倭国と交流を重ねながら繁栄し,やがて勢力が弱まり,562年に新羅に降伏したというその国の歴史は,2015年2018年の韓国旅行の際に読んだ司馬遼太郎著「韓のくに紀行」で知ったのでした。

 韓国国立中央博物館の通史展示のコーナーがとても楽しかったのを思い出します。今回の展示も同館と九博と歴博の共催ということ。ポスターのイメージの大加耶の王陵群の写真が息を呑むほど美しい。まるで水墨画のよう。誘われるように訪れた企画展示室は思ったよりもコンパクトな展示でしたが,さすがに充実の内容。

 墳墓文化を取り上げた第二章には様々な副葬品が展示されていて,金製の耳飾りや冠の前で思わず足が止まります。新羅の耳飾りについては池澤夏樹著「パレオマニア」でも1章を割いて紹介されていて,その起源は西アジアやエジプト,ギリシャあたりだと指摘されています。

 ユーラシアの風。新羅経由で入手されたという西域のガラス器の展示もあり,時間も空間も遠い遠い場所へと思いを馳せます。
 「パレオマニア」から引用します。「博物館のショーケースに収められた耳飾りを見ているうちに,いきなり広大な草原に連れ出される。この目もくらむ思いが博物館の喜びなのだと男は改めて思った。」(集英社 2004「黄金の耳飾りの遠い起源」p.285)

2022-11-01

2022年10月,千葉佐倉,「マン・レイのオブジェ」,「コレクションHighlight ジョゼフ・コーネル」

  秋晴れの休日、佐倉にでかけてきました。DIC川村記念美術館と国立歴史民俗博物館がお目当て。交通の便とどちらも広大(!)なことを考えて,近場で一泊することにしました。(旅割も使えるし。)
 そういうわけでゆっくり家を出てJRを利用して佐倉駅に着いたらちょうど歴博停車バスが出たところ。次のバスまで結構時間があるので,30分ごとに送迎バスの出る川村美術館に向かいます(行き当たりばったり)。

 川村美術館はサイ・トゥオンブリーの写真展以来,2回目。のどかで気持ちがよい美術館です。今回は企画展「マン・レイのオブジェ」展とコレクションのハイライトとして館蔵の作品がすべて展示される「ジョゼフ・コーネル」展を楽しみました。

 どちらの名前もすぐに瀧口修造の展覧会や著作を連想するのだけれど,それぞれの独立した大規模な展示を見るのは新鮮な悦びです。マン・レイのオブジェに特化した展覧会は国内初なのだとか。バリエーションの展示が面白くて,4点並んだメトロノームに「目が釘付け」(!)に。

 コーネルもずらっと並ぶと壮観です。コーネルの箱ってこんなに大きかったかな,という驚きも。何となく,掌中のサイズと脳内で思いこんでいました。マン・レイの写真を使った作品もあり,面白い。箱も平面も,ガラスを通して「さあ,この異世界を覗いてごらん」と誘いかけてくるようです。

 ロビーの照明がきれい。こんなだったっけ?となる。ゆっくり過ごしてあっという間に時間がたち,館を出るときにはほとんど陽も傾いていました。翌日は歴博へ。

2022-10-29

2022年10月,東京新宿・上野毛ほか,「柳宗悦の心と眼」「禅宗の嵐」ほか

  9月と10月にでかけた展覧会の忘備録。楽しかった時間はちゃんと記録に残しておかないと。まずは9月から10月初の2週間だけ駐日韓国大使館韓国文化院ギャラリーMIで開催されていた「柳宗悦の心と眼」展。

 肉筆原稿,スケッチブック,ノートなどの展示を通して「朝鮮とその藝術」刊行100周年を記念するというもの。資料に関連する筆筒や染付壺なども出品されていましたが,やはり柳宗悦の思考をたどる直筆資料には圧倒されました。立派なブックレットもいただけて大充実の展覧会。初めてでかけた韓国文化院は楽しかった!また韓国に行きたいなあ。

 上野毛の五島美術館では「禅宗の嵐」展。タイトルからしてありがたい。高僧の墨蹟や語録,禅画,古写経などの展示は迫力満点。蘭渓道隆墨蹟「風蘭」偈はチラシやポスターになっている二文字。前に立つと,ぐうの音も出ません。まさに嵐のごとく鎌倉時代の高僧の姿が目に浮かぶよう。
 渋谷の実践女子大学香雪記念資料館では「知られざる佐藤春夫の軌跡」展を。佐藤春夫の名前は,自分の若い日を思い出させます。というのは,理系だった父の書棚に佐藤春夫の詩集が1冊差し込まれていて(それが「田園の憂鬱」だったような記憶があるのだけれど,今回の展示で「殉情詩集」の装幀を見て,これだったかもしれない),不思議な違和感とともに眺めていたのです。父はこの詩人の何に惹かれていたのだろう。

 直筆の原稿だけでなく,知識としては知っていた谷崎潤一郎との妻をめぐるやり取りを生々しく伝える書簡類,そして芥川賞をください,と切々と訴える太宰治の書簡などの展示が大充実の展覧会。実践女子大の学祭に合わせてでかけ,図書館やカフェでも楽しい時間を過ごしました。
 同日,渋谷から銀座線で上野へ向かい,「東京ビエンナーレ2023 始まり展」のイベントの寛永寺ツァーに参加しました。実は寛永寺は初めて。石川亮岳執事の案内で寛永寺をめぐり,展示されている鈴木理策や日比野克彦らの作品を中村政人が解説してくれるというなかなか楽しい1時間でした。アートもよかったけど,普段は公開されていない徳川慶喜の謹慎の部屋を見せてもらえたのが面白かった!写真は西村雄輔の作品。

読んだ本,「チベットわが祖国」(ダライ・ラマ)「高原好日」(加藤周一)

 身辺事情(?)にいろいろあって,ほとんど更新をしていなかった。読書はほとんど進まなかったが,記録に残さないと何もかも(読んだことも)忘れてしまうので,簡単な忘備録として。

 「チベットわが祖国」(ダライ・ラマ著 木村肥佐生訳 中公文庫 1998)はダライ・ラマの自叙伝。転生者探しからダライ・ラマとして生きることになる序盤から,中国の侵略とインド巡礼の旅を経てラサを脱出し,インドへ亡命するその激動の日々がときに淡々と,そしてときに激情豊かに描かれる。決死の脱出のくだりには,これが現実の出来事なのかと改めて驚異の感情を抱く。

 加藤周一の「高原好日」(ちくま文庫 2009)には「20世紀の思い出から」という壮大な副タイトルがついている。夏の高原で紡がれたいわば交友録なのだけれど,62人の友人(中には一茶や佐久間象山,巴御前など「幽霊」との会話も含まれる。それぞれ相手の人格を分析しながら自分との関係を見つめることで,「加藤周一の思索」そのものが描かれているようだ。特に興味深かったのは辻邦生,辻佐保子,池田満寿夫,武満徹などなど。
 この2冊の文庫本は同じ古書店主から求めたもの。本を買うという行為とともに美しい時間を手渡されたようで,本を愛する人への感謝の気持ちでいっぱい。

2022-09-30

2022年9月,東京六本木,「植田正治 ベス単写真帖 白い風」

 6月から開催されていたのに,気付かないまま終わってしまうところでした。ぎりぎりで間に合った! 間に合ってほんとによかった,と思える写真展。フジフィルムスクエア写真歴史博物館の展示はたった一つの壁面だけなのに,いつもぎゅっと凝縮された写真の魅力を楽しめます。今回は40点くらいの展示。

 「ベス単」は初めて聞きました。大正時代にアマチュア写真家の間で流行した「ベスト・ポケット・コダック」という単玉レンズ付きカメラのことだそう。そのレンズフィルターのフードを外して撮影すると独特のソフトフォーカス効果を得られるとのこと。

 半世紀を経て,植田正治がその撮影手法をカラーフィルムで蘇らせたのがこの「白い風」シリーズ。懐かしい,とか郷愁を誘う,とかいろいろな形容の仕方がありそうな風景写真だけれど,「砂丘」のシリーズを思い出す構図の子どもたちの写真など,やはり植田正治の写真。

 現代のカメラでソフトフォーカス機能を使ってもこういう写真は撮れないだろうなと思うのは,テクニカルな次元のことばかりではないと思えます。その一瞬の風景を切り取る写真家の眼がそこにある。赤いランドセルの少女。校庭の一本の木。民家の軒先。

 会場にあった1981年刊「白い風」を手に入れたくなりました。あちこち検索してみたけど,そもそもほとんど流通なし。どこかの古書店か市で出会えることを祈りつつ。

2022-09-23

2022年9月,東京小石川,小石川植物園


 茗荷谷駅から播磨坂をくだって小石川植物園へ。東京大学総合研究博物館の小石川分館に行ったことはあるのだけれど,植物園は実は初めて。学生の頃,近くに住んでいたのに当時は興味を持たずに足を運ぶことが一度もありませんでした。実は祖父がこの植物園のことが好きでよく話していたことをここしばらく思い出していて,職場の同僚からのお誘いに大喜びで出かけた次第。

 彼岸花の群生が美しい。蕾はこんな姿をしているんだ。白い花もありました。不思議な形の竹の仲間。名前はもはや覚えられない(汗)。歩き回って,突然現れるレトロな売店でソフトクリームを食べて温室へ。

 これがすばらしい! 大島や奄美の熱帯植物や,東南アジアの珍しい植物たち。思わずこれぞビザール!と大興奮。ランの温室ではまさに狂喜乱舞(?)

 あまりに興奮して写真は失敗したけど,ボウランLuisia teresの展示もたくさん。昨年インターメディアテクで見た「蘭花百姿」展で牧野富太郎原画による図版「ボウラン」(大日本植物志第1巻第3集)を思い出します。東大と牧野博士との複雑な関係は,来年のNHKの朝ドラで見ることができるのかも。

 ボウランは一度枯らしてしまった悲しい記憶があって,また育ててみたいのだけれど二の足を踏んでしまう。祖父がいたら相談したのにな,などと30年も前に100歳近くで亡くなった人のことを思い出してしまうこの頃。

2022-09-11

2022年9月,東京六本木,「李禹煥」展

 過日,国立新美術館で開催中の李禹煥展を見てきました。11月までの長い会期ですが,世田谷美術館館長の酒井忠康氏との対談が開催されたのに合わせて出かけた次第。

 横浜美術館での個展(2005年)が今も記憶に鮮やかなせいか,東京で初の個展と言われてもぴんとこなかったのですが,過去の立体作品のタイトルの多くが「関係項」と改題されるなど,歩みを止めない作家の凄みみたいなものが伝わってきて新鮮な感動でした。

 前半が立体,後半が絵画という厳然とした会場構成もとてもよかった。中庭の「関係項ーアーチ」を見て会場に戻った時,軽い眩暈を感じました。まさに三次元と二次元の関係項を体感した気分。 
 酒井館長との対談はとても面白かったのですが,司会の逢坂氏の進行が今一つで,時間ばかり気にして折角のお二人の対談が盛り上がったところでぷつっと終わってしまった感じ。それでも印象に残る深い言葉をたくさん聞くことができました。

 その中の一つだけ,何も描かれていないキャンパスを3枚並べた「物と言葉」(1969)について,「何も描いていないということが大事なのであって,表現とは『きれいな何かを作る』ではなく『何が起こるかわからない』行為をいう」(大意です,間違ってたらお恥ずかしい限り)。

 私の書棚にあって大切にしている李氏の著作は「時の震え」(小沢書店)と「立ちどまって」(書肆山田)。「立ちどまって」はとてもとても大切な詩集の1冊。「傘」という詩を引用します。「雨の日に/傘を差して歩く人は/みな孤独だ//それは雨に/濡らしたくない小さな空間を/持ち運ぶからだ//自分もその空間に入って/雨のなかを/ここそこ向こうへと場所を移す//人が/透明なガラスケースのように/自分を閉じて歩きたがるのは//傘の下で/冷たい孤独の/雨に濡れたいからだ」(pp/180-181)