2015-12-31

2015年12月,読み返した本,「供述によるとペレイラは」ほか(アントニオ・タブッキ)

 年内にアップしておきたい読書の記録として,アントニオ・タブッキの何冊かの本について。

 10月に「イザベルに」を読み終えてから,まずは「レクイエム」,そして「インド夜想曲」「遠い水平線」と読み返して「供述によるとペレイラは…」まで読み進めた。タブッキってこんなに面白かったのか,とあらためて思う。始めて読んだのは須賀敦子の著作に惹かれて彼女の訳した「レクイエム」を手にしたのがきっかけだから,15年くらい前のことかな,と思い出す。

 最初に読んだときは,どの物語もまるで推理小説のように展開を追うことに悦びを感じたのだけれど,再読してみてその細部に書きこまれた作家の仕掛けの一つ一つが深く心にささる。

 「遠い水平線」の死体の名前カルロ・ノボルディ。ノーボディ=nobody。「誰でもない」死体の素性を探索する番人スピーノの独白はこんな風だ。

 『彼は思った。ものにはそれ自体の秩序があって,偶然に起こることなど,なにもない。では,偶然とは,いったいなにか。ほかでもない,それは,存在するものたちを,目に見えないところで繋げている真の関係を,われわれが,見つけ得ないでいることなのだ。』(「遠い水平線」(白水Uブックス) p.131より引用)

 そして「インド夜想曲」では行方不明の友人を探してインドを旅するイタリア人の「僕」は神智学協会の会長と不思議な会話をかわす。『あなたのお友だちが具体的にどんな生活をしておられたか,私は知らないのです。(略)いろいろな偶然がうまく嚙合わなかったのか,それともご自分の選択でそうされたのか。他人の仮の姿にあまり干渉するのはよくありません。』(「インド夜想曲」(白水Uブックス)p.79より)

 その会長が「僕」を見送るとき呟いたのはフェルナンド・ペソアの詩の一節だった。アントニオ・タブッキを探す私の旅は「フェルナンド・ペソア 最後の三日間」へと導かれていく。まるでタブッキの小説をなぞるように。

 さて,なんとか年内に,と旅の記録と読書録をやっとアップできました。これで年が越せる(?)。。皆さま,どうぞよいお年をお迎えください。

2015年12月,ソウル(4),宗廟

 お昼の飛行機に乗る前に,宗廟へと向かいます。ホテルから歩いて10分弱。土曜日以外は定時の日本語ガイドツァーに参加する必要があり,初回は9時です。平日の朝一番でも10人くらいの日本人観光客が集まっていました。ここでもガイドさんは若くてきれいなお嬢さん。チマチョゴリ姿が寒そうでちょっと気の毒でした。

 ぴんと冷えた冬の日の朝,静けさに支配された廟への道を歩いていると,民俗博物館の祭祀のコーナーに,民族の魂を知るには宗廟を訪ねるとよい,と書かれていた意味がおぼろげながらわかったような気がしてきます。
 入り口から廟まで続く道の真ん中は歩くことができません。ここは王様の魂が通るのです,とガイドさんは何度も繰り返す。毎年5月と秋に宗廟大祭という王朝儀礼が執り行われるとのこと。観光客も入れるのだろうか。  
  ああ,来てよかった。またぜひこよう。今回は行けなかったリウム美術館や, 韓国現代美術館も見てみたい。荘厳な王朝儀式や伝統舞踊も,と考えながら40分ほどの見学を終え,出口へと向かいます。敷地内の池は氷が張っていました。冬枯れの庭園は清々しい,という形容詞がぴったりです。


2015-12-30

2015年12月,ソウル(3),北村・嘉会民画博物館・韓尚洙刺繍博物館

 民俗博物館から仁寺洞へ向かい,ガイドブック片手にアンティークショップや刺繍の店をいくつかのぞき,きれいな刺繍グッズや古いポシャギなどを購入。韓紙のレターセットなども。
 午後も遅い時間になり,北村へは大急ぎで。思っていたよりもこのエリアの街のスケールが大きくないので余裕で嘉会民画博物館の開館時間中に間に合い,ゆっくりたくさんの民画を楽しみました。博物館でもたくさん見ることができましたが,こういうこじんまりとした専門美術館は展示品ととても親密に向き合えます。何より大好きな虎のモチーフの民画の一つに,さっき見た鳥!が描きこまれているのを見つけて,なんだかうれしい。
 
 次は歩いて1分くらいの韓尚洙刺繍博物館へ。美しいコレクションにも目を奪われますが,チマチョゴリを着て写真撮影ができるということで,かわいいファミリーが楽しそうな声をあげてポーズを繰り返していて,思わずこちらもうれしくなります。
 韓国刺繍は,京都の高麗美術館の収蔵品にもとても好きなものがあるのですが,古宮博物館で解説を聞くまで,それが武官の胸につけるものだとはまったく知りませんでした。これは民俗博物館に展示されていたものと,武官像(ピンボケです。照明が暗かった。。)。虎の数で位を示しているのだそう。いやあ,知らなかった。

  北村エリアは注目のスポットということで,若い人たちでいっぱい。おしゃれなカフェで買い込んだ図録や雑貨を整理しながら一息ついていると,日も暮れてきました。大充実の一日。いやあ楽しかった。ソウルの夕暮。

2015年12月,ソウル(2),国立古宮博物館・景福宮・国立民俗博物館

 ソウル2日目,まずは国立古宮博物館へ。地下鉄駅出口からすぐに建物が見えてきます。正面にまわると端正で美しい。2005年の開館ということですが,ガイドブックを読んでその歴史を知ると,本当に自分の無知が恥ずかしくなります。青磁や白磁や李朝家具,ほかにもたくさんの心惹かれる隣国の美を通して,今更ながら知っておくべきたくさんの事柄に心を寄せていきたい,と思います。
  さて,この博物館では日本語ガイドが定時に催行されていますが,この日の参加者は私一人。ドラマに出てくるようなかわいいガイドさんにマンツーマンで解説してもらい,質問にも丁寧に対応してもらえてとても楽しかった!

 強く印象に残った一つは,朝鮮王朝実録などの記録物が展示されたコーナー(確か「国家儀礼」だったと思うのですが)に復元展示されていた,王室の図書館(奎章閣)。思わず目を凝らす。印章を収めた函なども見えます。

 あっというまに時間がたってしまい,次は景福宮へ。博物館の前から興礼門を望む。澄んだ冬の空。
 
  国王と官僚の政務施設や,王室の生活空間などの多数の殿閣が集まっています。1990年代に本格的な復元作業が始まったということ。快晴の日曜日,たくさんの人で賑わっています。ゆっくりと見学しながら,後方の庭園を抜けて国立民俗博物館へ。
  景福宮の入場券で博物館にも入館できます。必然的にエントランス付近とカフェはかなりの混雑ですが,展示室の空間が広大なのでゆっくり見ることができます。「韓国人の一生」は朝鮮時代の貴族階級(両班家)の人々の通過儀礼を中心に展示されています。祭祀のコーナーを興味深く見ました。予定していなかった宗廟の見学も決意。2泊3日でどれだけ詰め込むんだ,と一人突っ込み。 
 
 左はエントランス付近に展示してあったソバン(小盤)のオブジェ(?)。欧州で紹介された展示の再現らしい。何もこんなに重ねなくてもいいんじゃないか。。右は仮面舞踏のお面です。ユーモラスだけど,異界へのパスポートのよう。安東で毎年フェスティバルが開催されているとのこと,いつか行ってみたい。
 すでに午後も遅い時間になっていましたが,このあと,北村と仁寺洞を目指します。博物館前でこんな鳥を至近距離でパチリ。とてもきれい。

2015-12-28

2015年12月,韓国ソウル(1),韓国国立中央博物館

 初めてのソウル。羽田を離陸して,慌ただしく機内食をいただいたと思ったらもう到着です。感覚的には国内線とかわりません。金浦空港から市内へは地下鉄で楽ちん。交通カードを買ってチャージしておけば,市内の移動はこれで安心です。
 
 まず向かったのは踏十里の古美術商街ですが,詳細はまた項を改めて。次は地下鉄4号線に乗り換えて,今回の旅行の目的である韓国国立中央博物館へ。地下鉄二村駅から博物館へは「博物館の道」という通路で一直線です。あまりにきれいでテンションがあがります。
  そして地上出口から博物館エントランスへ向かうのですが,これがまたテンション上がりまくりです。事前にかなりの寒さを覚悟していたものの,私が訪れた12月初旬はそれほどでもなく,冬枯れの広場が澄んだ空気にあふれていて,とても気持ちがいい。
  建物はあんぐりするほど巨大です。5時間くらいかけて1階の歴史展示と2階の書画,3階の彫刻・工芸展示をじっくり見て体力と時間切れ。通り過ぎただけのアジア館と2階の寄贈館は次回の訪問用にとっておくことにします。

 1階の歴史展示はとにかく面白く,またわかりやすい。今回の旅行に合わせて司馬遼太郎著「韓のくに紀行」(街道をゆく2・朝日文庫, 2008新装版)を読んでおいたのが役に立ったというか,おお,本に書いてあったとおり!みたいな展開の展示に大興奮。

 感激したものをあげていたらきりがないのですが,新羅の金製品の展示でこの指輪を見つけたときは思わず声をあげそうになりました。昨年,出光美術館で開催された宗像大社展に出陳されていた指輪によく似てる!同展の解説では「新羅の王墓から類品の出土例がある」ということだったけど,まさにこれがその類品というわけでしょう。古代,半島との活発な外交を想像して,歴史のロマンというありきたりの言葉じゃ足りない感激を味わいました。ああ,来てよかった!

 ぐっと時代を超えて朝鮮時代19世紀の外交文書はその美しく端正な文字に感激する。これほど美しい文字・印の配置はどこにもないのではないかと思ってしまう。博物館・美術館ではあまり写真は撮らないようにしたい(撮りはじめるときりがないので…)のですが,こうやって記録に残せるのはとても楽しい。
  白鳳文化の形成に大きな影響を与えた仏像群を始め,数々の仏教美術の展示,信じられないほどの数の高麗青磁と李朝白磁の展示,端正で美しい工芸品。もっと早く来ればよかったと思うことしきりです。訪れた土曜日は夜9時まで開館,しかも常設展は無料という博物館好きにはたまらない場所でした。すっかり夜の帳が降りたころ,翌日の国立古宮博物館と国立民俗博物館も楽しみに,地下鉄駅へと向かいました。

2015-12-04

番外編・お知らせ

 また新しい案件にかかりきりで,すっかりこちらを放置してしまっています。遊びにいらしてくださる皆様に申し訳ないです。ごめんなさい。

 忙しいと言いながらも,無理やり2泊3日の日程をやりくりして,明日から初めての韓国旅行へ行ってきます。韓国の美術は焼き物も絵画も家具も大好きなのですが,キムチが大の苦手(泣)でなかなか足が向かなかったのです。期限が切れるマイルがあるのに気付いて,思い切ってでかけることにしました。

 韓国国立中央博物館,古宮博物館,民俗博物館,そのほか民画専門の小さな美術館なども時間があれば訪ねてこようと思います。今度こそ,旅の記録は早めに整理するつもり(あくまで予定。。)。またぜひ遊びにいらしてください。

 写真は去年の冬に訪れたときの高麗美術館(京都)。今年の夏に訪れたときの写真と比べると,やはり冬の空気と夏の空気は違いますね。ソウルの冬は随分と寒いらしいです。では,行ってきます!
 

2015-11-23

2015年11月,東京上野,「始皇帝と大兵馬俑」展


  東京国立博物館で開催中の「始皇帝と大兵馬俑」展にでかけてきました。5月に西安を訪れた記憶も生々しいまま,ああ,やっぱり好きだわ。と広い会場をゆっくりとまわります。NHKで特集番組があり,始皇帝陵の城壁復元CGなどをわくわくしながら楽しみました。
そして数日を経て,日曜美術館のアートシーンでも紹介されていました。解説者と司会者が兵馬俑の魅力について,「芸術や美の領域を超えて,製作した人たちの永遠を願う想いがここにある」と話していて,かなり違和感を覚えてしまう。

 ギリシャ彫刻を持ち出してその「美」とは違う,という指摘はどうなんだろう。兵馬俑の一体一体が放つ,強く深い力や,数千もの彼らが整然と並ぶ様を,「美」とは別のものと言われたら,じゃあそれは何だろう。

 地下に埋められて二千年以上の時を経てここにある兵馬俑も銅車馬も,比類なき美しさです。始皇帝の「永遠への願い(=執着)」を具現化した膨大な数の人の手の仕事をこそ,至高の芸術の一つと言ってよいのではないかなあ。

 東洋館でも俑の特集展示があります。東洋館はいつ行っても空いていて,アジア旅行気分を楽しめるので大好き。
 

2015-11-16

2015年11月,東京丸の内,プラド美術館展

 三菱一号館美術館で開催中の「プラド美術館展 スペイン宮廷 美への情熱」展を見てきました。プラド美術館の膨大なコレクションからエル・グレコ,ベラスケス,ゴヤのスペイン巨匠を始め,フランドルの巨匠ボスやルーベンスの作品が来日している評判の展覧会。

 名前を見るだけでは,あの美術館にそんなに大作が並べられるだろうか(物理的に)と思ってましたが,意外なことに「小さい絵」がほとんどなのです。プラド美術館で2013年に「小さい絵」という基準で選ばれた作品で構成された展覧会「Captive Beauty-Treasures from the Prado Museum」の世界巡回展なのだそう。

 ほう,そういうことかと思いながら展示室を進むと,これがとても楽しい。「小さい」ので,一つ一つを覗きこむように眺め,細密画を見ているように細部にまで意識が届きます(会場がそれほど混んでなかったおかげもあるのですが)。

 ぜひ見てみたかったボスの「愚者の石の除去」は縦48.5センチ,横34.5センチというサイズ。人物の奇妙な描写や遠景を,板絵の繊細で緻密な表現で楽しむことができて面白かった。写真はヤン・ファン・ケッセルの「Asia」というタイトルの銅版に油彩の11枚組絵。(主催者の許可を得て撮影したものです)
  歳を重ねてこのところ,「記憶」ということについてよく考えます。何かを「覚えている」「思い出す」とは人の生においてどんな意味があるのだろう。

 私の場合,何かを「見る」ことでまざまざとある事柄だったりものそのものを「思い出す」ことがとても多いのです。この日,ボスを見ていてミュンヘンのアルテ・ピナコテークの一室でデューラーを見たあと,ボスの展示の前で日本人の女の子と短い言葉を交わしたことを思い出しました。フランス・ハルスやメムリンクもしかり。人は最後に「ああ,楽しかった」と思うために生きているのかもしれない,などとつらつら考えてしまった一夜でした。 

2015-11-09

2015年11月,横浜赤レンガ,中村恩恵・首藤康之ほか Silent Songs

 横浜赤レンガ倉庫ダンス・ワーキング・プログラムのファイナルである中村恩恵の新作公演「Silent Songs」を見てきました。首藤康之,渡辺レイ,中村恩恵,小㞍健太の4人が,「振付家・S」,「元主演女性舞踊手・R」,「妹・M」,「完全な若者・K」を演じて,長い年月封印されてきたSilent Songsを復刻公演しようと挑むというストーリーです。倉庫のデッキ部分から見たホールの窓。
 
 前半は「振付家・S」が舞踊の歴史を読み解き,出演者を教化し,後半はSilent Songsが上演されます。前半は単純に楽しい。首藤康之の「牧神の午後」の動きなんて写真でしか見たことがなかったので,思わず身を乗り出す。
 
 しかし後半に入ると舞台は一気に不穏と狂気が支配します。首藤康之のダンスはソロか中村恩恵とのデュエットしか見たことがなかったので,男女2人ずつの群舞(と言えるかどうか)は新鮮でもあり,微妙な違和感を感じるものでもありました。
 
 男と女がいて愛と死がすべての世界に,女同志(しかも姉妹だ),男同士(振付る者と振付けられる者)という関係が持ち込まれて,愛憎のベクトルが幾重にも交錯する。観客は息をつめて「失われた歌」が永遠の向こう側から再び此岸へと舞い戻ってくるのか,ひたすらその一瞬の光を見逃すまいと彼らの肉体を凝視する。
 
 ただただ圧倒的な約1時間の舞台でした。赤レンガ倉庫のホールは最前列が舞台と同じレベルなので,早めにでかけて最前列に席をとりました。眼の前で見る首藤康之のソロパートは,ストーリーと切り離して見てもやはり圧巻で,その差しのべられた手の先には神の領域があるとしか思えない。
 
 冷たい雨の降る11月,こんなに海が近かったのか,とホールを出てデッキから望む水平線。

2015年10月,東京町田・自由が丘,工芸の展覧会2つ「沖縄の工芸」展/「スザニ」展

  10月のこと,手仕事の美しさを堪能する展覧会を2つ,見に行きました。一つは町田市立博物館で10月18日まで開催されていた「沖縄の工芸」展です。琉球ガラス・陶磁器・染織・琉球漆器がずらり。紅型やガラスの美しさはもちろんのこと,琉球漆器に眼を奪われます。

 琉球王国時代に中国から伝わったという琉球漆器の歴史は長く,祭祀や儀式に用いられただけでなく,中国皇帝への献上品として数々の優品が生まれたといいいます。黒漆の雲龍文螺鈿盆などは,中国の漆器かと錯覚を覚えます。薩摩が侵攻するまでの,琉球と中国の長く深い交わりをあらためて気づかされた思いでした。

 アクセスが不便な町田市立博物館は面白そうな企画展がたくさんあってもなかなか足を運べずにいたのですが,今回は最終日の会場で旧知の知人にばったり遭遇して,お互いにびっくり仰天!こんなところ(←失礼ですよね。)で!昨冬にガラスの鼻煙壷展が開催されていたとその人から聞いて,痛恨の極み。美しい解説冊子をいただいて帰りました。

 
 もう一つは自由が丘の岩立フォークテキスタイルミュージアムで11月14日まで開催中の「スザニ」展。「中央アジアの服装」というサブタイトルです。アフガニスタン,トルクメニスタン,ウズベキスタンで入手したという華やかで美しい刺繍にうっとり。大胆な模様が太目の絹糸でみっしりと刺されていて,この布を身にまとった人たちが中央アジアの草原を馬で駆ける様子が目に浮かんできます。行ってみたいなあ。
 
 2014年に法人化されたばかりという小さな美術館ですが,とても気持ちのよい展示です。講演会やギャラリートークも充実している様子。次回展の「インド北部の毛織物」展も楽しみ。 

2015-11-08

2015年10月,鎌倉御成町,李禹煥「美術館という空間」

 秋を足早に通り越して初冬のような風が吹く午後。連休の初日,久しぶりに訪れた鎌倉は駅に人が溢れています。賑やかな小町通りとは反対側の西口から,鎌倉商工会議所会館の地下ホールを目指して歩きます。神奈川県立近代美術館の最後の展覧会にあわせて「近代美術館とわたし」という連続講演会の第2回,李禹煥氏による「美術館と空間」を聴講してきました。
  神奈川県立近代美術館という稀有の存在について,それを失うことは鎌倉にとって大きな損失だと熱弁する。アーティストは美術館に育てられるものだ,とも。1993年に開催された個展の際に,熟知しているつもりだった美術館の空間と自分の作品との間に迷いが生じたと語り,スライド画像の鉄板と石のわずかな角度のずれなどを説明。あらためてこの芸術家にとって対象物としての作品と「場所・空間」との関係性を目の当たりにした思いです。
  この作家の作品世界を「観ること」「理解すること」はあまりに難しいし,講演で語られた言葉たちを私の解釈でここに書き留めるのは何か不遜な思いがしてしまいます。なので,今までに読んだことのある彼の著作から印象に残っているものを引用します。著書としては「時の震え」(1988)や「余白の芸術」(2000)が代表作ですが,詩集「立ちどまって」(2001 書肆山田)もとても刺激的です。

 「僕はと言うときその中に/僕そのものは含まれているのか/僕はと言うときその中に隣の彼は含まれているのか/僕はと言うときその中に/周りの物たちは含まれているのか/僕はと言うときその中に/昨日の死者たちは含まれているのか/僕はと言うときその中に/見知らぬ山河は含まれているのか/僕はと言うときその中に/明日の僕は含まれているのか」(「立ちどまって」pp46-47より引用)

 意外,と言っては失礼だけれど,飄々とした優しい風貌のその芸術家から発せられた問いかけは,石と鉄と墨の作品世界が観客に「これは何か」と投げかける問いと同じく難しい。

 講演終了後,佐助トンネルを抜けて地図を片手に「もやい工藝」へ。ちょうど小鹿田焼を特集販売していました。大分の山奥にある桃源郷のようなその集落を訪れた秋の日のことを思い出しながら,夕暮れのひとときを過ごしました。

2015-10-26

2015年10月,読んだ本,「イザベルに ある曼荼羅」(アントニオ・タブッキ)

  「イザベルに ある曼荼羅」(アントニオ・タブッキ著 和田忠彦訳,河出書房新社 2015)を読了。「著者が遺した最後のミステリ」という帯の惹句に惹かれて手にとった。作者没後初めて世に出た未刊行小説ということ。
  語り手の「私」=タデウシュはイザベルという女性の痕跡を訪ねて,時空を超えて無限の旅をする。ポルトガル,マカオ,スイス,ナポリ。おおいぬ座シリウスからやってきた死者である「私」が探すイザベルもまた黄泉の世界の住人である。

 タデウシュとイザベルが「レクイエム」(1992)に登場した人物だということには訳者あとがきを読むまで気付かなかった。読後,書棚のタブッキを読み返してみることにした。何冊も並べているのに,内容は忘れてしまっているものばかりだ。「レクイエム」「インド夜想曲」などなど。

 タブッキの小説世界そのものが色彩豊かな曼荼羅のようだ。「イザベルに」は9つの章のそれぞれ一つの円となり,イザベルの謎めいた生涯が鮮やかな曼荼羅のなかに再現されていく。どの円も深く魅力的だが,第五の円,イザベルの写真を撮った写真家ティアゴとタデウシュとのやり取りが私の中に鮮烈な印象を残し,何気ない日常にさざ波を起こす。

 「誰かの言葉がふと浮かびましてね,写真とは死だ,二度と訪れない瞬間を捉えるからである,という。(略)でももし逆に,生だったとしたら?そこに自然に,揺るぎなくある生。一瞬の内に捉えられたそれは,皮肉な眼差しで我々をみつめてくる。なぜって,写真はそこでじっと動かないままなのに,我々は変化のなかに生きているからです。つまり写真は,音楽みたいに,我々には捉えられない瞬間を捉えているということです。我々がかつてそうであったもの,そうであったかもしれないもの,こうした瞬間にたいしてはどうすることもできない,だって我々よりそっちに道理があるのだから。」(p.97より引用) 

2015-10-12

2015年10月,東京日比谷,「躍動と回帰」展

 会期終了直前の金曜夜,出光美術館で「躍動と回帰-桃山の美術」展を見てきました。展示室には仕事帰りの人たちがたくさん。仕事を終えてゆっくりと日本の美を堪能するのにぴったりの秋の宵です。ビルの1階からエレベーターで運ばれて展示室の入口へ。
  「豪奢で躍動的な」(展覧会チラシより)桃山時代の美術を,日本古来の美術造形とのつながりに注目しながら検証するという趣旨の展示です。美が「革新的」であるとはどういう意味なのか,ということを観る者に問いかける仕掛けがとても刺激的。

 6つの章立てには「『うしろ向き』の創造-歪み・割れ・平らかさ」,「瞬間と永遠の発見」など,なるほど!というタイトルがついています。長谷川等伯の水墨画「竹鶴図屏風」の竹の描写を「平らかさ」というキーワードで見る面白さにはちょっと興奮。

 南宋時代の禾目天目の完璧な姿を導入に,織部や朝鮮唐津の茶碗や水差を見ると,「躍動」という言葉がそのまま具現化されているよう。そして最後の南蛮蒔絵の特集コーナーの前では,日本古来の伝統美が変容して海を渡り,そして今また時を超えて目の前にあるという幸せに思わず時を忘れてしまう。

2015-10-04

2015年4月~9月,東京・京都,お能の公演

 今年は春から案件が立て込んでしまい,合間合間に息抜きと称してあちこち出掛けた記録をほとんど残していなかったので,まとめて忘備録としてアップしています(怒涛の勢い)。仕事もこれくらい精力的にこなせればストレスもたまらないんだけど。
 
 4月以降に見たお能の公演を順番に。まず,4月櫻間会例会で仕舞「小塩」と能「葵上」。「葵上」は般若物の一つで,御息所の怨霊が怖ろしい。(4月・6月セルリタンタワー能楽堂)
 
 6月櫻間会例会では仕舞「胡蝶」と右陣さんのシテで能「弱法師」。親子の情愛というと美しいけれど,盲目となった息子である弱法師の物狂いの有様があまりに哀しい。右陣さんの美しい所作に涙ぐむ観客の姿もむべなるかな。
 
 7月櫻間右陣之会では右陣さんのシテで「海人」,伊藤真也さんのシテで「道成寺」。「海人」は「懐中之舞」という,母である龍女が経巻を懐に収めて舞う形。「道成寺」は舞台上に鐘が運び込まれ,白拍子が落下してくるその鐘の真下に飛び込む場面に思わず興奮。蛇体から発せられる暗い怨念は水底にたまるそれのようでもあり,ただただ恐ろしい。狂言は万作・萬斎で「簸屑」。(国立能楽堂)
 8月京都にて大文字送り火能として「海人 変成男子」。「変成男子」では後シテ(金剛永謹)が通常は龍女のところ,男の龍王になる。宝珠を命がけで奪い取る場面が名高いらしいが,ワキ方(従臣)の福王和幸さんがあまりに素敵で,ほかのことはそっちのけになる。イケメン・ミーハー魂に火がつく。(金剛能楽堂)
 
 9月「平家物語の世界」で右陣さんシテ「景清」。盲目の父と娘の別れの場面が切ない。地謡の「さらばよ止る行くぞとのただ一声を聞き残す,これぞ親子の形見なる」にウルっとくる。狂言は萬斎で「三人片輪」。(横浜能楽堂)
 
 9月金春会定期能の番組のうち,最後の「融」にぎりぎり間に合う。シテ桜間右陣,ワキ福王和幸という最高(独断)の組み合わせ。福王さんの旅僧姿があまりに美しく,ほかのことはそっちのけになる。(国立能楽堂)
 
 9月新作再演の会で「紅天女」。シテ梅若玄祥・ワキ福王和幸。およそ少女マンガとは数十年縁がなく,美内すずえ「ガラスの仮面」はタイトルを聞いたことがある,というくらいの知識しかない。劇中劇が新作能として上演されたものの再演ということ。いかにも能の世界として楽しめた。間狂言はメッセージがストレートすぎて,ちょっときつい印象。(国立能楽堂)
 
 9月に雑司ヶ谷の古本市で「お能の見方」(白洲正子著,新潮社 1993)を発見して購入しました。

2015年9月,東京六本木,「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展

 もう一つ,展覧会の忘備録として。9月最終週には六本木にでかけ,サントリー美術館で「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(9月27日まで開催)を見てきました。藤田美術館の至宝がずらりと並びます。
 日本に三つ現存する曜変天目茶碗のうち,これで二つを見ることができました。静嘉堂文庫のものより落ち着いた印象を受けたのだけれど,同行の友人は静嘉堂のよりずっと派手だ,と言います。ものを見ることはまったく個人的な体験なのだ,という自明の事実にあらために気づきました。

 もう一つの大徳寺龍光院蔵のものはなかなか見ることができないようなので,いつかその機会に巡り合えるとよいのだけれど。他に玄奘三蔵絵巻の前では思わず,あ,玄奘さん,またお目にかかることができました,という気分。

2015年9月,東京西新宿,鈴木理策写真展

 9月に訪れた展覧会の忘備録として。まず,東京オペラシティアートギャラリーで開催されていた鈴木理策写真展「意識の流れ」(9月23日まで開催)。美術館の広いスペースで鈴木理策の写真を見るのは東京都写真美術館で開催された「熊野 雪 桜」展(2007)以来。そういえばあの展覧会は黒と白の思い切った展示が印象的だった,と記憶が甦りました。
  写真を「見ること」で記憶や意識の流れがもたらされる,という写真家の思想がダイレクトに伝わり,体感できます。吉野の桜の展示コーナーには「来年咲く桜を思い描く時,過去に出会った桜の記憶によるものなのに,私にはそれが未だ見ぬものに思われる」というメッセージが添えられています。

 写真とは記憶そのものなのか,記憶の媒体なのか。自分の目で見たわけではない吉野の桜の写真を見ながら,これを見るのは移転前のギャラリー小柳と写真美術館以来だから3回目だなあ,と思いを巡らす。その思いには,銀座と恵比寿と新宿という私にとっての「体験の場所」の記憶が伴う。 

2015年10月,読んだ本,「忘れられた巨人」(カズオ・イシグロ)

 カズオ・イシグロの最新作「忘れられた巨人 The Buried Giant」(土屋政雄訳,早川書房)。かなり前に読み終えて,なかなかここに書くことができないでいた。今もどのように書けばよいかわからないままだ。ならばスルーしてしまおうかとも思ったけれど,それでは前に進めない,という気もしている。
  「わたしを離さないで」以来,新作をずっと待ち望んでいたのだが,この「ファンタジー」にはびっくりして少し後ろへ引いた。訳者あとがきではこの小説の設定について「不意打ち」と表現している。

 アーサー王伝説と地続きのファンタジーはあくまで「道具立て」であり,この小説のテーマは「記憶」にほかならず,人は何を記憶して何を忘れるのか,いつまで記憶していつ忘れるのか,と読むものに考えさせる。しかし,とちょっとため息をつく。この設定には私はどうしても入り込めない。

 ラストは美しく衝撃的でもある。そうか,老夫婦の愛の物語と読めばよいんだ,と思ったものの,もう一度最初から読み直そうという気が起こらない。カズオ・イシグロの愛読者のつもりだったのに,この本を大好きな「わたしたちが孤児だったころ」や「充たされざる者」の隣に並べることを躊躇する自分の感覚にこそ驚いている。

2015-09-27

2015年8月,フェルメールで買ったもの,エナメル彩のトレー

  今年の夏にアンティーク・フェルメール(金沢)で買ったトレー(約11センチ×7センチ)。18世紀後半のイギリスのものということ。お店で見つけたときに既視感があって,前から気になっていたものだったかなあ,と思ったらお店のHPのトップページに写真が載っていたものでした。ようこそ我が家へ,という感じ。
  朱色に近い赤の色が深く,部屋の片隅にあっても潔い勢いというか,その存在感が気持ちよいトレーです。ぱっと見たときには皮革かと思ったら,意外にも金属製で,でもブリキとは言いたくないなあ。ブリキの語源はオランダ語のblikという語らしいので(某ウィキペディアより),blikのトレーということにしよう。
 
 金彩が精緻で美しいのですが,それと同じくらいに表面の傷にも目を奪われます。使っているうちについた傷とは思えなくて,何か意味がありそう。すっかり秋の空気に入れ替わった夜に,ぼんやりとその線に視線を落としていると,時間がたつのを忘れます。 

2015年8月,京都の夏(5),大阪へ・国立民族学博物館

 京都からの帰路は伊丹空港から羽田への空の便を選択。京都駅八条口から伊丹空港へのバス便が便利です。民博は南アジア展示がリニューアルされたとのことで,じっくり時間をかけて見学しました。

 「躍動する南アジア」「宗教文化」「生態となりわい」「都市の大衆文化」「染織の伝統と現代」5つのセクションで構成されています。南アジアの人々の価値観を形成したさまざまな宗教が影響しあった宗教文化の紹介に惹かれる。「多様性」という言葉が具現化されたような空間です。
  2014年のインドへの旅は,世界遺産を駆け足でめぐる観光の定番コースだったので,次の機会があれば仏教遺跡をめぐる旅をしてみたい。以前はあまり興味のなかった仏教史にも食指が動き,この秋は某大学公開講座の空思想を学ぶ講座に申し込みました。知識ゼロからのスタートなのでかなり不安ですが,また報告など。

 中国地域の文化セクションではこんな美しい切り絵を発見。昨年と今年のインド・中国旅行をおさらいするようなとても楽しい時間をすごし,伊丹空港へと向かいました。これで今年の短い夏の休暇はおしまい。機上で日常へ戻る間,ちょっとため息がまじる。

2015-09-23

2015年8月,京都の夏(4),金剛能楽堂・送り火

  古書市の次は寺町通りから夷川通りへ向かい,いくつかお目当てのアンティーク・骨董店をぶらぶらするも,ぴんとくるものに一つも出会えず。すると突然,バケツをひっくり返したような雨になりました。夜は五山の送り火なのに!しばし雨宿りをしていると雨は上がりましたが,チケットをおさえた金剛能楽堂の「大文字送り火能~蝋燭能~」の時間が迫ってきました。

 急いで御所の前にある金剛能楽堂へ。端正な佇まいの建物です。中庭の池に鯉が泳ぐ。
  この日は「海人 変成男子」という曲を見たのですが,ここのところお能の公演にはまっていて,近いうちにまとめてもろもろアップします。実はこの日,衝撃的な出会いがあったのです(いつものミーハーです)。ワキ方福王流の福王和幸さん。その姿にほれぼれしました。ところで蝋燭の灯りだけで演じるのかと思いきや,さすがにそれじゃあ暗いというわけでちゃんと照明もつきました。開演前の舞台の設え。
  というわけで,夢見心地で終演後は向かいの京都御苑から送り火を見ることに。ここは東山の「大文字」がよく見える名所のようで,観光バスもたくさん押し寄せていましたが,広いので群衆の密度はそれほどでもなく,ゆっくり見ることができました。
 
 山の中腹にちらちらと灯りが見えたと思ったら,あっという間に大の字にともされ,15分くらいでしょうか,夜空を焦がす炎が見えたと思ったらやがて消えていきます。精霊を彼岸に送る火を焚いて,此岸の私たちの無病息災も祈る京の盂蘭盆会の行事です。
 
  静かに始まって静かに終わる美しい儀式に思いのほか感激。他の文字も見てみたくなりました。来年も是非来よう。ところで今回の京都の写真は全部コンデジです。これは引き伸ばしました。

2015年8月,京都の夏(3),下鴨神社古書市

 早朝の下鴨神社。御手洗池に足をつけることができ,そのひんやりとした素足の感覚に心洗われます。
 
  糺の森の古書市には2年ぶりに参戦。今年は最終日に行ってみたら,おおこれぞ,という掘り出し物にはさすがにめぐり合えませんでした。そのかわり(と言ってはなんですが),値引き合戦がすさまじい。全部半額!なんていう店もあり,楽しい時間を過ごしました。
 
  今回は図録や画集など美術関係の本を多めにチョイス。西安で美しい切り絵を買ってきたこともあり,「中国の民間切り絵芸術」(張道一著,北京外文出版社)なる一冊を見つけたときは思わず小躍り。まだぱらぱらとしか読んでいませんが,奥が深いようで楽しみ。ちなみに上海空港の土産店で数千円で売っていたこの手の切り絵は,西安の回族街ではなんと1枚5元(100円くらい)。
 
  版画など紙類を多く扱う店ではこんなカードを発見。British Museum所蔵のインドminiatureのポストカードです。これはうれしい。ほかに1982年版のマンディアルグ「城の中のイギリス人」(白水社)などなど。マンディアルグは外函の装幀のチェック(イギリスだから?)文様にちょっと意表をつかれてジャケ買い。

2015-09-22

2015年8月,京都の夏(2),龍谷ミュージアム「玄奘」展

 西本願寺の向かいにある龍谷ミュージアムは前から気になっていた美術館。この夏,「玄奘」展を訪れました。堀川通りに面したファサードからエレベーターで地下に下り,エントランスは端正な中庭に面して配置されています。フロアが分かれた展示室そのものはあまり広くありませんが,とても気持ちのよい建物です。
 玄奘展の副タイトルは「迷いつづけた人生の旅路」とあり,「多くの困難に対峙し,迷いを抱えつつも歩みを進める玄奘さんを支えた、その志とは」(チラシより)何かを考える展示です。薬師寺に伝わる宝物が中心ということ。
 
 玄奘さんの生涯を辿る展示はとてもわかりやすく,一人の人間の生を静かに,そしてドラマチックに語っています。天竺で出逢った美しいガンダーラ仏,唐へと持ち帰った西域の言語の経典,唐で訳された経典,日本へ伝わった経典や仏像。とりわけ興味をひかれたのが五天竺之図でした。
 
 大きく引き伸ばされた複製が床に置かれ,その旅程を辿ることができるようになっています。6月に訪れたばかりの西安(長安)が出発地であり,帰着地でもあるわけで,あの西の城門から出発したのか,という身体的な感覚で見ることができてとても面白かった。まさに時空を超える旅をした気分です。
 
 当時の長安の図や大興善寺のパネル展示などにも興奮。閉館間際までじっくり堪能しました。(川口美術へ行く時間が無くなった!)