2018-09-27

2018年9月,東京上野,「世界を変えた書物」・「藤田嗣治」・「海の道」・「中国書画精華」

 初秋というよりは晩夏の一日,上野で展覧会三昧を楽しんできました。暑い夏だったけれど,8月・9月は随分たくさん見たな。駆け足の忘備録として
 
  まずは上野の森美術館で「世界を変えた書物」展を。金沢工業大学の所蔵する「工学の曙文庫」から選りすぐりの稀覯書が並んでいます。並んでいる書物のすごさへの興味は半分,展示の面白さや楽しさに興味半分といった感じ。SNSで話題らしく,展示をバックに必死で自撮りする若い人たちがいっぱいだった。ご苦労さま。
  東京都美術館では「没後50年 藤田嗣治展」を。肉声を公開したテレビ番組を見て,見ておこうと思いたった展覧会。裸婦や猫よりも,戦後日本を離れてフランス人となってからの宗教絵画(第8章 カトリックへの道行き)に胸を打たれました。日本への募る思いを耐えたのは,信仰があったからなのだろうと,観る者をねじ伏せるように納得させる絵画や十字架が並んでいました。
 
 東京国立博物館へ向かって,久しぶりに法隆寺宝物館を見てから東洋館へ。「博物館でアジアの旅」は今年はインドネシアがテーマです。「海の道 ジャランジャラン」というタイトルは「散歩」という意味なんだとか。影絵芝居ワヤン・クリの上演があったと後で知って,まさにあとの祭り。万難を排して(?)行けばよかったなあ。しかも抽選ではなくて先着順だったらしい。今年最大の後悔かも。美しいバティックやイカットなども。
 
 そして中国書画のフロアでは中国書画精華展を。李迪の紅白芙蓉図軸を展示ケースで至近距離で見た! こういう見方があったのか! しかも一人占め! 

2018-09-24

2018年9月,東京松涛,「詩人 吉増剛造展 涯の詩聲」

 
  松涛美術館で「詩人 吉増剛造展 涯の詩聲」を見る。この詩人について何かを語ることなど,とても私の手に負えない。いつものことだ。
 
 今回も,ただただ圧倒されて,沈黙するのみ。「詩集の彼方へ」で中平卓馬を3点見る。若林奮のドローイング。島尾敏雄の書簡・写真。
 
 展示されている詩集を見ていると,意外と私もたくさん持っている。ちゃんと読み通した詩集があるだろうか。太刀打ちできず,がっくりと膝をついてしまうのだ。いつもいつも。
 
 吉増剛造の写真集は繰り返し見る。多重露光の写真は彼の詩の世界そのものだ。詩を読むかわりに,写真を見る。詩を読めなくても,写真を読む。時を忘れる。いつまでもいつまでも。
 
 In-betweenのアイルランド。遠いその場所へ。私を呼ぶ声がする。此処へ。此処へ。

2018年9月,横浜みなとみらい,「モネ それからの100年」展・「水・空気・光」

  横浜美術館で「モネ それからの100年」展を見てきました。評判の展覧会です。会場は大混雑。ただ,「モネ」を見に来た人が多いのか,「それからの100年」に含まれる作品の前ではあからさまに戸惑う感じの人がいて,ちょっと残念だったな。中西夏之の前で「何なの,これ」と大声をあげてた若いカップルはレッドカード(?)だな。
  会期中に行われた林道郎氏の講演記録が公式HPで読めるので,とても参考になりました。戦中から戦後へかけてのフランスでのモネの評価や,戦後アメリカの評論家による再評価についてなど,そうだったのか!と目から鱗でした。「抽象表現主義との関係の中で、大画面やオールオーバー構造などが評価された」とあり,マーク・ロスコやサム・フランシスの展示がますます興味深いものになりました。

 そして横浜美術館らしいというか,スティーグリッツやスタイケンの写真もあり,後半では鈴木理策あり,とまさに「わたしがみつける新しいモネ」を体験できる展覧会で楽しかった!

 ところで会期中にみなとみらいホールで行われた『「モネ それからの100年」によせて』という副題のついた「音楽と舞踊の小品集 水・空気・光」公演にもでかけました。横浜ダンス・ダンス・ダンス2018との共催で,第2部の舞踊プログラムの首藤康之と中村恩がお目当て。

 首藤康之が踊ったのはスクリャービンのピアノエチュードと,メシアンの四重奏曲。いやあ,よかった!途中,「見ざる聞かざる言わざる」みたいな手ぶりの振り付けがあって,踊り手は五感を超えた世界にいるのだろうか,そこはどんな色彩に満ちているのだろうか,と不思議に思う。

 そしてコダーイのピアノ小品にのせてマーサ・グラハム舞踊団の折原美樹がLAMENTATIONを踊りました。これを見ることができたのはすごいことらしい,とは分かったものの,今一つピンと来なかったのですが,三浦雅士の「バレエの現代」(文芸春秋 1995)を紐解いてびっくり仰天。

 第2章「グレアム」の中に,「グレアムは東洋的な身振りを愛したし,また日本人を愛した。アキコ・カンダ以降,タカコ・アサカワからミキ・オリハラにいたるまで,その舞踊団に日本人は少なくない」(p.78)という記述があるのです!ミキ・オリハラを眼前に(席は前から2列目だった)見ることができたわけ。後からじわじわ感動です。

古いもの,アンティークフェルメールで買ったもの,薔薇のインク壺

  この夏,金沢のアンティークフェルメールで出会ったもの。おとしを入れて,インク壺として使われていたものとのこと。BLOOR DERBYと読める刻印があります。ブルーア期のダービー窯のもので,1820年頃のものだそうです。200年も前とは思えない絵付けの鮮やかなローズ柄がとても上品で素敵。

  香炉として使おう!とその場で思いついたのですが,実際にお香を焚いてみたら予想以上に熱がこもってしまって,磁器の色味に影響がありそうで心配になってあわてて消した(汗)。中に不燃布を敷いて,その上にプラスチックの小さな香台を置いたのだけれど,熱が外に逃げないからだな。。

2018-09-21

2018年9月,東京六本木,「狩野芳崖と四天王」展

   地下鉄六本木一丁目駅から泉屋博古館分館へは屋外エスカレーターを使ってアプローチするのですが,なんとなく,日常が「下界」のように思えてきてしまいます。とりわけ,「悲母観音」の狩野芳崖を見に行くとなれば,美術館が近づくにつれて空気も清らか(?)に感じます。  「狩野芳崖と四天王 近代日本画、もうひとつの水脈」展が10月28日まで開催されています。

 狩野芳崖と,その四人の高弟,岡倉秋水・岡不崩・高屋肖哲・本多天城を紹介する展覧会です。それぞれの画業は今まで目にしたことがあったかもしれないけれど,師と弟子という関わりを意識して見ると,瞠目するばかり。師の絶筆「悲母観音」の模写(高屋肖哲)など,師の魂をなぞるような凄まじい迫力に圧倒されます。狩野芳崖「岩石」は光と影の表現が斬新でかっこいい。
美術館より特別に撮影の許可を頂きました。以下同。
  ところで,芳崖の「悲母観音」ほか三大名画の展示は後期(10月10日)です。これはぜひもう一度足を運ばなければ。構図がよく似た「出山釈迦図」(観音ではなく釈迦の図)は通期展示で,目を凝らすと岩の上に真白の獅子の姿が見えます。そのすぐ近くに橋本雅邦「神仙愛獅図」と狩野芳崖「獅子図」が並んでいるのが面白い。横顔の仙人はフェノロサの顔とも言われているそうで,確かに西洋人のように見えるから不思議。
 
 個人的には本多天城がとても面白かった。「日之出波涛図」のダイナミックな荒波! そして岡不崩の繊細な花鳥図も美しい。後半生は本草学に傾倒したのだとか。 

  展覧会の後半は,岡倉天心が率いた日本美術院に属した横山大観,下村観山,菱田春草,西郷孤月,木村武山の展示です。芳崖四天王は日本美術院には参加しなかったということ。かたや狩野派の残光,一方は近代化を克服した日本画の大家たちという図式がわかりやすく,見終えて「近代日本画」という一コマの講義を受けた気分です。

2018-09-16

読んだ本,「雪の練習生」「球形時間」(多和田葉子)

 ようやく夏を乗り越えて,多和田葉子の旧作を2冊。「雪の練習生」(新潮社 2011)はホッキョクグマの三代記。「祖母の退化論」「死の接吻」「北極を想う日」の三章はそれぞれ,ベルリン動物園のクヌートの祖母,母トスカ,そしてクヌートが主人公となる。
 
 「毎日少しずつ涼しくなっていくということは,遠くから冬がやってくるということだ。もし近かったらベルリンの夏の暑さで暖まってしまったはずなのに,とても冷たい風が吹いてくるということは,冷たさを保ったまま,町の熱をこうむらない「遠く」があるということだ。遠くへ行きたい。」(p.251)
 
 小説を読みながら,この小説はクマが書いているのかヒトが書いているのか,だんだんその境界が曖昧になってくる。そしてふと気づく。読んでいる私は誰だ? いや,私はクヌートの母なのか,祖母なのか,いや,ヒトなのか,雪なのか。ぬいぐるみなのか,クヌートの死んだ兄なのか。
 
 「それにしてもマティアスはいつになったら姿を現すんだろう。そう考え始めると我慢できなくなってきて,これが「時間」というものなのだ,と突然クヌートは悟った。窓がだんだん明るくなっていく,その遅さ,それが時間だ。時間というものは一度現れるといつ終わるか分からない。」(p.185)
 
  「確かにマティアスは自分のことを「マティアス」とは呼んでいない。「マティアス」というのは他の人がマティアスを呼ぶ時に使う言葉で,本人は使っていない。これまで気がつかなかったが,なんと不思議な現象だろう。それでは自分のことをどう言っているかよく聞いていると,「わたし(イッヒ)」と言っている。しかも驚いたことにクリスティアンも自分自身を「わたし」と呼んでいる。みんなが自分自身のことを「わたし」と呼んでいて,それでよく混乱しないものだ。」(p.210) 
 「球形時間」(新潮社 2002)は,歪んだ時空を生きる悩める高校生男女のストーリー。太陽を崇拝する大学生が登場するあたりから読めなくなってしまった。いくら好きな作家でも,相性が悪いということはままあるものだ,と独りごちながら,それでも一応は通読した。やっと読み終えた。

2018-09-08

2018年9月,東京初台,イサム・ノグチ展

 オペラシティアートギャラリーで「イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ」展を見てきました。とてもとても面白かった!自分の中で次々に繋がっていくものがあって,ぞくぞくする思い。
(「彫刻家の手紙」表紙の写真はイサム・ノグチではなくてエドゥアルド・チリーダ《風の櫛》です)
「身体との対話」「日本との再会」「空間の彫刻ー庭へ」「自然との交感ー石の彫刻」の4章で構成されています。「身体との対話」は,そうか,ここが彫刻家の出発点なのか,という驚きに満ちた展示。「中国人の少女」という小さな像は離れた位置から見ても中国人にしか見えない。その存在の核みたいなものがそこにあるからか。そしてブロンズ「伊藤道郎」にはやられました。能面の形態を模していながら,その人でしかない。しかし仮面である,という幾重にも重なった不思議に満ちています。

 そしてこの章では,イサム・ノグチとマーサ・グラハムの関係が展示されていて,それは私にとっては事件(!)でした。8月末にみなとみらいホールで横浜ダンスダンスダンスの一環「音楽と舞踊の小品集」を見に行って(首藤康之がお目当て),マーサ・グラハム舞踊団の折原美樹の”LAMENTATION”を見たのでした。

 展示は,イサム・ノグチが手掛けた舞台装置や「ヘロディアド」の映像などなど,衣装デザインもてがけたらしい。イサム・ノグチが舞台美術を手がけたのは18作品あるらしいけれど,”LAMENTATION”が含まれているかはこれから調べてみようと思っているところです。ネットで検索してダンス関係のHPにノグチのこんな言葉を発見。

 「永遠の時間という独自の世界の中で、舞台上で彫刻に命が吹き込まれるのを見るのは喜びです。次第に空気が意味や感情に満ち溢れ、形が儀式を再現する上で不可欠な役割を果たします。劇場は式場であり、パフォーマンスは儀式です。日常生活における彫刻もかくあるべきであり、またその可能性を秘めています。その一方で、劇場は私に、詩的で高貴な等価物を与えてくれています。」(https://www.hermanmiller.com/ja_jp/stories/why-magazine/dance-partners/)より引用。

 さてさて,「空間の彫刻ー庭へ」では日本の禅宗の寺院の影響がとても面白かった。「スライド・マントラ」の関連ではジャイプルのジャンタル・マンタルの写真に感激。私も行ったよ!「自然との交感ー石の彫刻」の「下方へ引く力」は,あれ,横浜美術館に同じシリーズのがあったはず,と思ったら横浜美術館の所蔵品でした。こんな調子で子どものように興奮してしまった。

 いやあ,楽しかった。ミュージアムショップで「彫刻家への手紙 現代彫刻の世界」(酒井忠康著 未知谷 2003)を見かけて,大急ぎで帰宅して書棚を探しました。

 「彫刻の原点が空間についての思索の運動であるとすれば,人生についての思惟は時間の意識に関連します。空間は未来を,時間は過去(記憶)を暗示しますが,晩年のノグチは徐々に、この「時」の経過が刻む「沈黙」の意味について関心を深めていったように感じられます」(p.42より引用)

2018-09-02

2018年8月・9月,東京汐留ほか,河井寛次二郎展,縄文展,琉球展,ゴードン・マッタ=クラーク展

 急に涼しくなってきて,暑かった今年の夏のあれこれを整理中(怒涛の勢い)。話題の展覧会や印象に残った展覧会を3つ,夏の忘備録として。
 
 汐留のパナソニック汐留ミュージアムで「没後50年 河井寛次郎展」。極私的な思い入れとして,河井寛次郎は一点所有していて,京都の河井寛次郎記念館に鑑定と桐箱作成を依頼しに出かけたことがあるのです。
 
 なので,ついつい「好き」という基準と「モノとしての価値」を混同してしまうのだけれど,ああ,いいなあと思うものの前に立つと自然と頬がゆるんできてしまう。意外だったのが,詩を書く人だったのか,ということ。「好きなものの中には必ず私はゐる」。写真撮影可のものも多かった。鉄釉抜蝋扁壺をアップで。
  サントリー美術館では「琉球 美の宝庫」展を。2015年に,町田市立博物館で「沖縄の工芸」展を見た記憶も鮮明です。今回は琉球王国の美が,東アジアとの交易,土着の信仰,薩摩藩との関係などなど,歴史のうねりの中に位置づけられて展示されていて,一編の小説とか映画を見るようでなんとも刺激的。町田市立博物館で感激した美しい琉球漆器の数々も堪能。メインイメージになっている王冠も,その威厳に満ちた美しさに圧倒されます。
 
 最後にもう一つ,この夏の話題だった「縄文展」を東京国立博物館で。「1万年の美の鼓動」とか「ニッポンの,美の原点」とか,大変だわ,こりゃ。という感じの展覧会でした。展示の最後の,柳宗悦ら民藝の作家たちが愛玩した像たちとか,岡本太郎が撮影した縄文土器写真とか,「位置づけられたもの」としては美しいなあと思ったけれど,土偶や土器は遺跡資料館みたいなところで「発掘品」として見るほうが楽しいなあと思ってしまった。これだけ盛り上がってる展覧会でそんなことを考えてしまうのは不埒者ですな。
 
 平成館企画展示室で開催されていた「平成29年度 新収品」展示は面白かった!インドネシアの影絵芝居人形「ワヤン・クリ デウォブロト」,梅若家伝来「能面 伝山姥」などなど。
 
 追加でもう一つ。東京国立近代美術館で「ゴードン・マッタ=クラーク展」を。ビルディング・カットの写真や模型展示に度肝を抜かれました。映像も多く,会場のデザインがとてもかっこいい。屋外の「ごみの壁」は東京で再作成されたもの。そして一番印象に残ったのは,クラークの弟の死についてのエピソードだったかもしれない。



読んだ本,「日本人の恋びと」(イザベル・アジェンデ)

  イザベル・アジェンデ「日本人の恋びと」(河出書房新社 2018)を読了。今年まだ寒いころに新聞の書評欄に掲載されていたのを読んで惹かれたもの。手にしたとき,まずゴッホのカバー絵の美しさに心躍る。
  イザベル・アジェンデを読むのは初めて。「精霊たちの家」が池澤夏樹編集の世界文学全集に所収されていて,ずっと気になっているのだが,「ラテンアメリカ文学」の旗手という認識だったので,この物語にはちょっと面喰ってしまった。

 アメリカの老人ホームが舞台となり,80台の謎めいた女性アルマの「生涯の愛」がミステリー仕立てで語られていく。愛の対象は日系人のイチメイ。モルドバ出身の若い女性イリーナが語り手となる。出版社の惹句には「現代の嵐が丘」とある。

 なにしろ盛り沢山なストーリーで,頁を繰る手を止められない。老い,ユダヤ人迫害,移民問題,児童ポルノ,同性愛などなど,読者は忙しい。「老人ホームに住む家族」がいて,自分が「日本人」の読者である私は,アルマとイチメイの愛の物語を息苦しく感じる場面も少なくはなかったが,読書の至福を味わえたことは間違いない。

 ところで,どんな愛の表現よりも印象に残ったのは,こんな場面の一節。老いることの醜さ,恐ろしさ。夫のナタニエルが撮った若いころの自分をモデルにした写真展の会場で。

 「当時のモデルのまま見てもらうほうがいい。いまの老婦人として人に見られるのはいやだという。うぬぼれているわけじゃなく,控えめにしていたいのと,彼女はイリーナにうちあけた。自身の過去の幻像を見返すだけのエネルギーがない,裸眼で見えなくてもカメラが暴露しかねないものを,アルマは怖れたのだ。」(p.176より引用)

2018-09-01

2018年9月,龍岩素心の開花

今年も美しく開花した龍岩素心。葉がやけてしまっているのが気になります。うつむき加減が愛らしい。

2018年8月,京都(3),建仁寺,高麗美術館,西陣織物館


  京都で初めて座禅体験に参加しました。以前から興味があったものの,なかなか旅先で早起きするのも難しくて一度も実現していなかったのですが,今回は一念発起!建仁寺両足院で7時30分から開催される座禅会に参加できました。
 
 今年の夏は暑かったものの,参加した日の前後は涼しい空気に覆われて,朝の空気もさわやかそのもの。30人くらいの参加者と,庭園に向かって静かに瞑想の時間を体験しました。無理に「空」を感じようとすることはない,むしろいつもの五感にプラスして「自然」を感じてください,という教えのもとに約1時間の体験会はとても豊かな時間でした。
  座禅会の後は,大好きな高麗美術館へまわって「京・近江の朝鮮通信使」展を。日本と半島が逆さまで,漢城(ソウル)を起点に江戸・日光へ北上するように描かれた地図が衝撃的でした。通信使の行列が仔細に描かれた洛中洛外図の展示もありました。ところで9月から高麗美術館開館30周年記念展が開催されるとのこと。大阪では高麗青磁の展覧会もあるし,思わずこの秋も関西に行きたいなあ,と思ってしまった。
 
 近くのすてきな花屋「みたて」をのぞいてから駅へ向かうバスに乗り,新幹線までまだ少し時間があったので西陣織物館に立ち寄ってみました。史料室で「西陣 金襴と社寺の織物」展を楽しんで,今年の夏はおしまい。



2018年8月,京都(2)・東京日本橋,金剛能楽堂・送り火・「金剛宗家の能面と能装束」展


  奈良から京都へ戻り,送り火の前に金剛能楽堂へ向かいます。「大文字送り火能」を見るのは2度目。舞台の周りに蝋燭が灯る「蝋燭能」です。今回の演目は「船弁慶 白波の伝」。前半の静御前(シテ金剛龍謹)の静かな舞と,後半の平知盛(シテ金剛永謹)の怨霊のすさまじい戦いの場面が対照的です。なんと言ってもこの二つの場面をつなぐ役目の弁慶(ワキ)を,福王和幸さんが演じるので興奮もマックス状態というもの。
 
 今回は正面の前方の席だったので,知盛と弁慶の激しい絡みを間近に見ることが出来て,感激。ラストの怨霊が引く潮に流されて激しく消える(そう,消え方が激しい。)場面は思わず力が入りました。終演後は向いの京都御苑から大文字の火を眺め,思わず知盛の怨霊が浄土へと帰ってくれることを願ったりしてしまった。来年もまた来たいものだと願いつつ。
 
 さて,京都行きに先立って三井記念美術館に「金剛宗家の能面と能装束」展を見にでかけました。豊臣秀吉が愛蔵した小面「雪・月・花」のうち,宗家に伝わる「雪の小面」と美術館が所蔵する「花の小面」が半世紀ぶりに再会するという。
 
 対に並んだ二つの能面を前にして,能面の美しさを言葉にすることができるだろうか,と思ってしまいます。小林秀雄の顰に倣って,「美しい能面がある。能面の美しさというものはない」とでも言ってしまおうか。奥へ向かって年齢が増すように展示されている女面の間を,静かに静かに,解説を読みながら歩を進めていきました。解説は金剛永謹さんによるもの。
 
 和辻哲郎「能面の様式」から引用します。「(…)自然的な動きを殺すことが,かえって人間の自然を鋭く表現するゆえんであることは,能の演技がきわめて明白に実証しているところである。それは色彩と形似を殺した水墨画がかえって深く大自然の生を表現するのと等しい。芸術におけるこのような表現の仕方が最もよく理解せられていた時代に,ちょうど能面の傑作もまた創り出されたのであった。」(初出1963,岩波文庫1995より)

2018年8月,奈良,奈良国立博物館「糸のみほとけ」展


  夏の一日,京都から近鉄奈良線で奈良へ足を延ばしてきました。目当ては奈良国立博物館で8月26日まで開催されていた「糸のみほとけ」展です。当麻寺の「綴織當麻曼荼羅」の修理完成記念展ということ。そもそも,「綴織當麻曼荼羅」の実物を見ることができるのか?というか,本当にこの世に存在するのか?みたいな驚きがあって,どこか異界へ出かけるような不思議な心持で電車に揺られたのでした。
 
 奈良国立博物館は初めて訪れました。奈良へは中学の修学旅行以来(!)で,断片的な記憶はあるものの,ほとんど未踏の地という感じ。近鉄奈良駅からまっすぐに博物館を目指し,建物の前の古代蓮の美しさにうっとり。浄土感(?)が盛り上がる。
 
 展覧会は圧巻としか言いようがない展示。どことは言わないけれど,来館者数至上主義みたいな博物館の展示とは真逆のシンプルで落ち着いた展示空間で浄土への旅を楽しみました。「中宮寺天寿国繍帳」の前でも,ほんとに目の前にあることが信じられない感覚に震えます。
 
 「綴織當麻曼荼羅」はあまりの大きさと,脳裏に浮かんだ中将姫伝説にやられてしまって,しばらく足がすくんで動けない。折口信夫「死者の書」は何度挑んでも,跳ね返されてしまうのだけれど,今度こそその世界に近づけそうな予感がしてきました。10月には矢来能楽堂で「當麻」の上演もあるみたい。ぜひ出かけたい。
 
 奈良国立博物館では「なら仏像館」もゆっくり鑑賞。帰路には興福寺国宝館に立ち寄って阿修羅像を堪能。