2019-12-30

読んだ本,「代書人バートルビー」(メルヴィル,酒本雅之訳)

 
 2019年最後の読書はメルヴィルで締めくくる。「代書人バートルビー」を一気に読み終えた。バベルの図書館シリーズ(国書刊行会 1988)の中の1冊。ストーリーは,法律事務所に雇われた青年バートルビーが,やがて一切の仕事を拒否しながら事務所の中で生活を続ける,というもの。カフカの先駆けとしての不条理小説と言われることもあるらしい。
 
 「何もしない」という「生」の姿に戸惑うのは「わたし(語り手である事務所主宰)」であり,読者である。一体,バートルビーとは何者なのか。やがて迎える結末は,不条理というよりは運命づけられた悲劇のようにも思えるが,メルヴィルはそこで幕引きとしない。バートルビーの前職が明らかになり,「ああ,バートルビーよ。ああ,人間とは。」で物語は終わる。
 
 少なからぬ衝撃とともに読み終えたのは,酒本雅之先生のすばらしい日本語訳に導かれたから。バートルビーが仕事を拒否する際に口にする,「せずにすめばありがたいのですが。」は原文ではどんな英文なのだろう。
 
 以下,ネットで見つけた「バートルビー翻訳読み比べ」におおいに教示を得た。バートルビーの原文サイトBartleby.com (http://www.bartleby.com/129/index.html)もそこで知ることができた。
 
 件の「せずにすめばありがたいのですが。」の原文は,I would prefer not to.である。「ありがたい」という日本語の語感があまりにぴったりで,これ以外にない,と思ってしまう。そして,語り手の説得をはぐらかし,激怒させる場面のバートルビーの言葉「でもわがままは言いません。」はBut I am not particular.「私は特別な何かではない」。
 
 バートルビー=「何もかもせずにすめばありがたい,特別ではない存在」,すなわち人間誰にでも当てはまる? だからこそ,この小説の最後はAh Bartleby! Ah humanity! で締めくくられるのだろうか。
 
 語り手が,バートルビーに対する苛立ちを抑えるために,彼のふるまいを善意に解釈しようと決心する場面。「嫉妬のため,怒りのため,憎悪のため,利己心のため,昂然たる誇りのために殺人の罪を犯した者はいても,優しい思いやりのために残忍な殺人を犯した者は,わたしの知る限りではかつてない。だから,たとえよりよい動機が働かず,単なる利己のためであっても,ことに高ぶり易い質の人なら,ぜひともこぞって思いやりと博愛を育むべしだ。」(p.76) 

読み返した本,「安土往還記」(辻邦生)

  1972年発行の新潮文庫「安土往還記」を書棚から引っ張り出して再読したのは,ある集まりで「歴史小説」を紹介する,というお題が与えられたから。「歴史」を描いた小説の魅力は,そこに描かれた人間の姿じゃないかしらん,ということで辻邦生しかいないだろう,と。

 とはいえ,辻邦生なら「嵯峨野明月記」も「天草の雅歌」も,「背教者ユリアヌス」や「春の戴冠」や「フーシェ革命歴」などヨーロッパを舞台にしたものも魅力的だ。さんざん悩んだ挙句,薄くて読み通すのが苦にならない分量のこの1冊に決めた。
  
 語り手は,宣教師を送り届ける目的で渡来したジェノヴァ生まれの船員である。彼が見つめるのは「尾張の大殿(シニョーレ)」即ち織田信長。このキーワードだけで,一気に辻ワールドが目の前に広がる。そして,裏切られない。

 この小説の描く織田信長の姿は,信仰を持つことなく,この世の道理を追求し,自らに課した掟にどこまでも忠実に生ききる。教科書で学ぶ人物像とは似て非なるその姿を通して,読者たる私は,彼の「生」が,そして「人間の生」がいかに高貴なものであるのかを知るのである。

 初読はもう数十年も(!)前のこと。楽もあれば苦もある年月を生きて再読した今,昔ほどの感激はないのが正直なところ。しかし,忘れていた何かが心の奥底で疼く,そんな思いで読み終えた。そして蛇足ながら。風邪をひいて件の集まりには出席できなかった。

 「私は彼(大殿)のなかに単なる武将(ジェネラーレ)を見るのでもない。優れた政治家(レピユブリカーノ)を見るのでもない。私が彼のなかにみるのは,自分の選んだ仕事において,完璧さの極限に達しようとする意志(ヴオロンタ)である。私はただこの素晴らしい意思をのみーこの虚空のなかに,ただ疾駆しつつ発光する流星のように,ひたすら虚無をつきぬけようとするこの素晴らしい意思をのみー私はあえて人間の価値と呼びたい。」(p.88)

2019-12-22

2019年12月,東京世田谷,「名物裂と古渡り更紗」・「美意識のトランジション」展

  初冬というよりはすっかり冬の空。いろいろ片づけたいことや,掃除をしたい場所がたくさんある。まずはここに記録していなかったいくつかの展覧会を忘備録として。
  12月15日まで開催された「名物裂と古渡り更紗」展を静嘉堂文庫美術館で。空の色があまりにきれいで,何だか冷たくて,まさに「身を切る」よう。バス停から美術館入口までの短い上り坂にも短い溜息をついてしまう。

  静嘉堂では染織品の展覧会は初めてなのだそう。曜変天目を包む仕覆を見るだけでも足を運んでよかった。美しい更紗の生地を,いとおしむように少しずつ切り出しながら仕覆に仕立てるという行為のその気高さに心打たれる。

 五島美術館では12月8まで開催された「美意識のトランジション」展を。16世紀から17世紀にかけての東アジアの書画工芸が集められている。この時期をtransition「過渡期」として,盛んに交易が行われた東アジアの美意識を探る展覧会。書跡,漆芸,染織,陶磁,典籍のトランジションという5つのパートで構成されている。

 自分の好みにどんぴしゃだったこともあって,かなり興奮する。とりわけ漆芸のすばらしい品々! MOA美術館所蔵の朝鮮の螺鈿箱には,これを見ることができて,生きててよかった,とそんな想いが大げさでなくわいてくる。世の中には「絶対の美」というものが存在するのだ,それを信じて生きていくことが善なる生なのだ,と考えていた若い頃の自分に,ああ,やっぱりそうかもしれないね,と語りたくなってきた。そんな初冬の一日。

2019-12-15

古いもの,フェルメールで買った古い絵

  金沢に足を運ぶ機会がめっきり減ってしまいました。これは今年の夏にフェルメールで手に入れたもの。エンボスがとても繊細で,こんなの見たことない,というくらいに綺麗なのです。可憐な花の姿(右はフクシャかな)もいい感じ。1800年代のものと聞いた気がするけど記憶があいまい。。

 エンボスをじっくり眺めようと,仕立ててもらったフレームから取り出して手にとってみると,裏面は糊付けの跡が幾重にも見られる。何度も額装したもののようです。もともとはグリーティングカード? はるか遠い場所でこれを誰かに贈った人がいて,長い長い時を経てそれを私が受け取ったということ。何だか涙が出てくるほどじんとしてしまう。

2019-12-13

つまみ読みした本,「古本屋散策」(小田光雄)

  今年のドゥマゴ文学賞を受賞した「古本屋散策」(小田光雄著 論創社)を図書館で借りてきた。600頁を超える大著で,読み通すのは大変。「日本古書通信」に連載された200編が掲載されているので,目次を見ながら惹かれるものだけをつまみ読み…のはずが,読み始めるとなかなか止まらない。

 「古書」への愛が,近代出版史や文学史へと結びついて,なるほど,そうなのか!という驚きの連続。そしてやはり自分の興味と一致するパートでは,ほとんどくぎ付けになる。忘備録として。51「写真集『アッジェのパリ』」,115「バートルビーとB・トレイヴン」,139「江藤淳『漱石とアーサー王伝説』と『漾虚集』」,131「ミシェル・レリス『黒人アフリカの美術』」などなど。

 「バートルビー」はエンリーケ・ビラ=マスタの「バートルビーと仲間たち」(木村栄一訳 新潮社)が積読になっているのだが,メルヴィルの「代書人バートルビー」が下敷きになっていると初めて知った。酒本雅之先生訳の「代書人バートルビー」が国書刊行会の「バベルの図書館」に入っているのだとか!すぐにネットで注文してもよいのだけれど,私の次の「古本屋散策」の楽しみにとっておくことにしよう。

 ところでこの本の装丁の木彫像について,著者は「東南アジアの女神像」としてその出自を知りたい,と本文中で書いている。装束の文様はイスラム系だけどこれは「女神」なんだろうか?

2019-12-01

2019年11月,東京上野,「正倉院の世界」展

 10月から11月にかけて東博で開催されていた「正倉院の世界」展。前期と後期の両方を見に出かけました。随分と前から,毎年秋に開催される奈良博の正倉院展を訪れてみたいものだと思いながら,ついぞ出かけたことがありませんでしたが,何というラッキー。これを見たいのよ,という2点が前期と後期にそれぞれ出陳されるというではありませんか!
 
  螺鈿紫檀五弦琵琶と,そして何よりも白瑠璃碗。この2つを見ることができれば心残りなし,と勇んでいざ出陣。前期は琵琶の人気で大行列でしたが,後期はそれほど並ぶことなく,しかも白瑠璃碗は普通のガラスケースに陳列で,展示室内で行列することなくじっくり見ることができた!
 
 今まで見たいろんな博物館や展覧会のペルシャ碗の出土品には,「正倉院に類似の完品がある」という情報が付随してきたけれど,そのまさに本物の美しさと言ったら! やはり土の中から出てきたものとは次元が違う輝きです。一つ一つのカット面に反射する輝きが無限の美しさを湛えていて,言葉にならない。

 いやあ,人生の宿題を一つ果たした感じ。琵琶の螺鈿もよかったなあ。他には伎楽面の迫力にもやられました。染織では毛氈のみずみずしい質感にびっくり。展示の最後のコーナーでは宝物庫の模型や保存の様子を。模型とは言えど,近寄りがたいオーラを放つ扉。
 
  さて,平成館を後にして,東洋館では特別展「人,神,自然」が圧巻。東博がこんなの所蔵してたの?とびっくりするくらい,初めて見るものばかり。それもそのはず,東博ではなくカタールの王族の「ザ・アール・サーニ・コレクション」の名品展でした。

 このコレクションは2020年春からパリで常設の公開が始まるのだそう。古代から近現代まで網羅するすばらしいコレクションとのこと。ああ,そんな。パリに行きたくなってしまいます。 入口の看板。ピンボケなので小さめに。 最後に本館では「文化財よ、永遠に」展も。今年の秋の東博はお腹いっぱいになりました。

読んだ本,「ダブリンの緑」(建畠晢)

  あっという間にカレンダーも残り1枚になってしまった。もう少し落ち着いて日々を振り返りながら過ごしたいのだけれど,次から次へと追い立てられて動く歩道をつんのめりながら歩いているような毎日だ。

 11月の神保町古書まつりで手に入れた建畠晢のエッセー集「ダブリンの緑」(五柳書院 2005)を読了。こんなエッセー集が出てるなんてまったく知らなかった。偏愛する詩人が語るつぶやきに耳を傾けるには,静かな部屋の中よりも,静かな苛立ちに満ちた満員電車の中がうってつけだった。

 どの短文もちょっと変人(?)ぽい詩人の頭の中をのぞくようで愉快千万,しいて挙げればという感じで「回文」の天才女性とのやり取りが面白かった。(ただし,「私,いまめまいしたわ」はその人の発明ということになってるけど,古典じゃないのかなあ,とは思いました。)

 回文の定義の妄想は引用すると長くなるので,その結論部分だけ。「(略)とすれば回文とは,時間の中に不意に挿入された鏡,言葉(時間)を反射する鏡とは言えまいか。(すべてを回文にしてしまうあの少女の天才とは,その鏡のきらめきなのだ。)線形に継起する日常的な言語が,突然,その鏡によって逆転される時,私たちは一種の快感を味わうが,それはおそらく時間を空間として体験することの快感なのである。」(p.95より)

 この少女とは詩人のお見合いの相手だったらしいが,同席した田村隆一と共に酩酊した詩人に,「建畠,果てた」と冷たく言い放ったのだとか。抱腹絶倒とはこのこと!

 ところで本のタイトルの「ダブリンの緑」はあとがきのタイトル。ジョイスの「ユリシーズ」を読まないことには,到底理解できない世界がそこにある。(酒井忠康の未読のエッセイにも「スティーブン・ディーダラスの帽子」というのがある。)人生の残り時間は短いというのに,宿題はどんどん増えるばかりだ。

2019-11-17

読んだ本,「三人の逞しい女」(マリー・ンディアイ)

  立て続けに女性作家の翻訳ものを読んだ。「三人の逞しい女」(マリー・ンディアイ,小野正嗣訳 早川書房2019)を読了。作者はセネガル人の父とフランス人の母を持つのだという。耳慣れない名前はMarie NDiayeと綴る。
  三人の女性たち(Ⅰ部のノラ,Ⅱ部のファンタ,Ⅲ部のカディ)の物語は緩やかに繋がり,共通のモチーフとして「鳥」が登場する。三人は「逞しい」という言葉から連想されるような「生命力の強さ」を湛えているわけではない。
 
 悩み,苦しみ,辱めさえ受けて生きている彼女たちの物語は,時には目をそむけたくなるような現実を描き出す。しかし読者は,ンディアイの文章の迫力にぐいぐいと導かれ,「自らの存在」を決して否定しない,むしろ強い誇りと自負を持って生きていく彼女たちの姿を目の当たりにするのだ。
 
 この小説を日本語で読めること(小野正嗣の訳のすばらしさ!)は,私にとって読書の悦びというだけでは足りない。思い通りにいくことばかりではない人生の途上で,これは奇跡の出会いなのだ,とさえ思う。 
 
「しかし,思い出にふけりながらも,ラミーヌが自分を騙そうとしていたとは決して考えたりしないだろう。そして彼が示してくれた気遣いを思い出すたびに胸に広がるぼんやりとした悲しみは,カディ自身よりも彼に向けられたものだったのかもしれない―この若者の運命を思うと胸が苦しくなって,目からはめったに出ない涙がぽろぽろこぼれるほどだった。ところが,自分の人生を思っても,さしたる感慨もわかず,ほとんど他人事のように感じられた。あたかも,カディ・デンバはおのれの人生に対して,ラミーヌが自分の人生にいだいていたほどの希望をいだいたことがなく,ゆえにすべてを失ってしまったところでまるで嘆くにあたらないかのようだった。/大したものを失ったわけじゃない。カディはそう思うだろう。そして,あの計り知れない自負,あの控えめながらも揺らぐことのない自信を感じながら,やはり思うのだ―わたしはわたしよ,カディ・デンバよ。」(pp.311-312)

2019-11-15

読んだ本,「掃除婦のための手引き書」(ルシア・ベルリン)


  ルシア・ベルリンの短編集「掃除婦のための手引書」(岸本佐知子訳 講談社 2019)を読了。あちこちの書評で絶賛されていたのと,美しい装丁に惹かれて読み始めた。しかし,すぐに後悔した。この書物が孕む世界に共感のひとかけらも感じられない。
  ルシア・ベルリン自身の体験をもとにしたフィクションだという。「わたし」は結婚・離婚を繰り返し,自らアルコール依存症に苦しむ四人の息子のシングルマザーである。掃除婦や看護師,高校教師などで生計をたてる。
 
 なぜ高校教師になれるのかという根本的な疑問はある。しかし,読者のそんな疑問など「わたし」の人生に何の関係があるの?と言わんばかりの熱量に圧倒されて,途中で投げ出すこともできない。
 
 そして,24の短編を読み進め,22番目の「さあ,土曜日だ」を読み終えたときにこう思った。ああ,投げ出さなくてよかった。刑務所の文章のクラスが舞台となり,老齢の白人女性が囚人たちに課題を与え,彼らは文章を書き,朗読し,講評しあう。
 
 「…先生は言った。べつの日には,犯罪者の頭と詩人の頭は紙一重だ,とも言った。『どちらもやっていることは,現実に手を加えて自分だけの真実をつくり出すってことだから。あなたたちには細部を見る目がある。部屋に入って,ものの二分ですべての人と物を見極める。嘘を鋭く嗅ぎわける力がある』」(pp.246-247) 

2019年11月,横浜美術館市民のアトリエ,サイアノタイプ

 10月の台風で延期になっていたフォトグラムの体験ワークショップに参加してきました。横浜美術館市民のアトリエにて。随分前になるのだけれど,3か月くらいの写真ワークショップに参加したことがあって,とても濃い時間を過ごした場所。講師の方は当時の講座でもお世話になったので,再会に心躍ります。
 
 今回はサイアノタイプの体験ということで,おお,これは是非に!と思って申し込んだ次第。当日は先生が用意してくれた薬品を塗布済みの印画紙に1枚,自分で塗布した印画紙に2枚の都合3枚をプリント。
  で,哀しいかな(泣),成功したのは1枚だけ。透明なワイングラスは光が通りすぎてしまってぼんやりした画像しか定着しませんでした。。このシダはアナ・アトキンスを真似した,もとい,リスペクトした(!)ものです。オリジナリティはゼロ。でもきれいに定着して大満足。額装して飾っちゃおう。

 一日がかりのワークショップだったので横浜美術館で開催中の展覧会を見れたのは昼休み時間だけ。企画展と常設展はまたゆっくり再訪することにして,アートギャラリーの「絵でたどるペリー来航」展を見ました。ダゲレオタイプなどの古写真が魅力的な展示。

2019年11月,東京日本橋,「高麗茶碗」展・誠品書店

 例によって,というか支離滅裂的にいろんな展覧会にでかけたり本を読んだりしているのだけれど,振り返る時間が全然追い付かない日々です。
 
 日本橋に出かけて三井記念美術館で「高麗茶碗」展を楽しんできました。韓国で高麗青磁や李朝白磁をたっぷり楽しんできたけれど,日本でいう三島手にあたる「粉青沙器」以外は,「高麗茶碗」という分類に出会うことはほとんどなかったかも。つまりは「高麗茶碗」というカテゴリーは一体何なのかをよくわかっていなかったのです。
 で,この展覧会はまさにその多種多様な高麗茶碗を時代を追って分類し,解説してくれるとても貴重な体験でした。淡交社から出ている「高麗茶碗のはなし」(谷晃 2014)が教科書とすれば,その実地見学,みたいな感じ。
 
 ふむふむ,と一通り歩き回って,高麗美術館や東洋陶磁美術館で「朝鮮のやきもの」を見るのとはまったく違うベクトルで「朝鮮産のやきもの」を堪能してきました。
 
 日本橋では,室町テラスに開店した台北の誠品書店もぶらぶら。中国語の本のコーナーも面白い。雑貨類も充実していて,一度だけ行ったことのある台北の魅力的な街並みを思い出しました。おいしい台湾茶の王徳伝のショップも。 

2019-11-04

2019年11月,東京渋谷・港区,「第三夫人と髪飾り」・「桃源郷展」(大倉集古館)

 この夏以来,なんとなく塞ぎがちだった気分がだんだん外向きになってきてる感じ。お天気のよい休日にまずは渋谷bunkamuraでベトナム映画「第三夫人と髪飾り」(アッシュ・メイフェア監督)を見てきました。19世紀の北ベトナム・チャンアンが舞台です。あまりに哀しい女たちのストーリーなのだけれど,湿潤なまぶしさを湛えた緑,赤いランタンの灯,女たちのアオザイの色彩。トラン・アン・ユンが美術監修を手掛ける美しい映像世界を堪能しました。またベトナムに行きたい。

 哀しい余韻を引きずりながらも,次も東洋の美を堪能しようと向かった先は,リニューアル特別展「桃源郷展」が開催されている大倉集古館。新収品の呉春の「武陵桃源図屏風」が展示の中心で,師の蕪村へのオマージュがわかりやすく解説されていて,一遍のドラマを楽しむよう。
  中国美術に表された桃のモチーフの逸品も楽しい。東博や静嘉堂文庫からも出陳されていました。「名品展」には国宝の普賢菩薩騎象像や,前庭には朝鮮文人像や五重塔なども。

 ところで,大倉集古館を初めて訪れたのは一体いつのことだったか,もはや記憶も曖昧なくらい前のことです。当時,建物内部はなんだか薄暗いし,展示ケースも年期が入ってちょっと埃っぽいというイメージだったのだけれど,今回のリニューアルで大変身。建物の外観には手を加えていないとのこと。伝統を継承しつつ生まれ変わった美術館のこれからの企画が楽しみ。 

2019-10-27

2019年10月,東京立川,民画体験と地球堂書店

 初めての立川。大きな駅には何でもそろい,便利な街の顔にびっくり。

 駅ビルのお洒落な店は通りこして,古書店めぐりのブログで以前から気になっていた「地球堂書店」に行ってみました。なるほど,ここだけ時が止まったようです。店構えも品揃えも1980年代から変化がないんじゃないか,なんて書いてありましたが,そんなことはなかったです! 2013年刊の「本読む幸せ」(福原義春 求龍堂)を購入しました。

 本はきちんとパラフィンがかけられているし,道路側の陳列台や棚が段ボールで覆われているのは排気ガスや日差しを避けるためみたい。店主の古本への愛情がなんとはなく伝わってきて気持ちいい。それなりに(?)楽しめました。
 
 今,三国志を読みながら,並行して次々に読んでいて,「本読む幸せ」はしばらく積読になりそう。パラフィン紙を透かして見えるのは,あれ,寺田真由美の写真?ミニチュアを撮影した室内写真が魅力的な人だな,と思っていたけど最近は名前を聞かないような。福原義春が注目していたのか,とちょっと新鮮な驚き。読書の楽しみが増えました。
  ところで立川に出かけたのには理由があって,某カルチャーセンターの主宰する民画の一日体験を受講したのでした。韓国民画を自分で描いて楽しむ,という発想がなかったので,楽しかった!お手本の菊の花をカーボンで写してコースター大に仕上げるというお手軽コース,のはずが! 仕事が雑(泣)な割には時間がかかって,途中で時間切れに。家に帰って仕上げました。恥ずかしいけどアップしちゃおう。素朴でよい感じになったと思うのですが。。


2019-10-22

読んだ本,「円生と志ん生」(井上ひさし)

 大河ドラマ「いだてん」は視聴率が悲惨なことになっているらしいのだけれど,私にはとにかく面白い。ドラマのストーリー展開はともかくとして,前回の志ん生が満州に慰問に行った話にはやられた。森山未來が扮する志ん生が満州居残りの日本人客相手に「富久」を演じるシーンには号泣。七之助が演じた円生も,歌舞伎の舞台とはまったく違う魅力にノックアウトである。
  で,この志ん生と円生が満州で過ごした2年間を描いた舞台があると知って,井上ひさしの原作(脚本)(集英社 2005)を読んでみた。45分のドラマではわかりにくかった史実なども理解できたし,そしてこの戯曲の力があってこそのいだてんなのかと思うくらい,志ん生と円生の過ごした濃密な時間の流れに圧倒される。

 みすぼらしい風体の志ん生たちを,カトリック修道院の修道女たちがキリストの再来と信じるシーンのおかしみ。「オルテンシア:「イエズスはいわれた。『あなたたち人間にはいつも苦難がある』」/院長:(うなづいて)ですから,生きているものはいつも涙を流しています。それで,この世のことを「涙の谷」というのですよ。/松尾(円生):苦しみや悲しみは放っておいても生まれてくる?/院長:(うなづいて)だから,生きると,つらいは,同じ意味なのです。/松尾:その鉄則には笑いが入っていない?/院長:もともとこの世には備わっていないのですよ。/松尾;ところが,それをこしらえている者がいるんですよ。/院長:…はい?/松尾:この世にないならつくりましょう,あたしたちが人間だぞという証しにね。その仕事をしているのが,じつは,あたしたちはなし家なんです。/孝蔵(志ん生):いよォ,勉強したんだな。」(p.171より) 

2019-10-06

2019年10月,東京上野,伊庭靖子展・風景の科学展

  会期終了が近づいている(10月9日まで)伊庭靖子展を見に上野にでかけました。クッションや寝具を「写真のように」描く写実画の人,という知識しかなかったのですが,過去から現在へと並ぶ作品群は,「もの」から「空気」へと向かう作家の思考の過程そのもの。
 アクリルボックスにモチーフを入れて描く作品は,ボックスに映り込んだ周囲の景色も描かれています。もはや,「モチーフ」は作品の素材であって「目的」ではないということかと。そこに描かれているのは「空気」なんだな。
 
 ところで,本人のインタビュー記事によれば、実物ではなく写真を見て絵を描くのだそう。「反射光で撮られる写真では抜け落ちるものがありますが,残されて,良いと感じた物だけを絵の中で引き上げていくと,描きたい世界が表現できます」(東京都美術館ニュースno.460「展覧会の舞台裏」より)
 
  「写真のような」写実画を描く意味が今までよくわからなくて,興味を持たずにきたけれど,なるほどそういう光とものの捉え方があるのか,と新鮮な驚きでした。展覧会の最後は版画や映像もあり,伊庭靖子という同時代の作家の仕事がこれからも楽しみです。 
 上野では国立科学博物館で「風景の科学展」も。「芸術と科学の融合」というサブタイトルに興味シンシン。写真・上田義彦+企画・佐藤卓+主催・国立科学博物館というこの展覧会は,「芸術家の目が切り取った風景に,自然科学の研究者は何を見るのだろうか」がテーマです。
 
 佐藤卓氏の序文によれば「写真という芸術を入口に,科学の世界に誘う展示を,さてあなたはどう見るだろうか」とあります。研究者の解説は風景と,風景の背後にある時間の流れを扱っていて,どれも興味深いものです。
 
 ただ,こういう趣旨の展覧会に上田義彦氏の写真はぴったり過ぎて,写真そのものの魅力はちょっとマイナスの引力に引かれていたような。ちょうど今,エプソンのギャラリーで上田氏の個展が開催中なので,それも見に行こうと思っているところ。

2019-09-23

読み返した本,「世紀末と楽園幻想」「ひとり旅は楽し」(池内紀)

   自分にとって「同時代に生きている」というだけで誇らしいというか,光栄だという思いを抱く作家や芸術家はたくさんいる。そうした人たちが一人,また一人とこの世を去るのはあまりにも哀しいことだし,同時に「自分が生きている時代」が自分の後ろの方へどんどん流れていくことを実感させられる辛い現実でもある。

 この夏,立て続けだったロバート・フランクと池内紀氏の逝去のニュースは哀しかった。池内紀氏の翻訳の仕事は私のカフカ体験そのもので,学生の頃,岩波文庫で読んだ短編集の「掟の門」から受けた衝撃は今も忘れられない。

  河出書房新社から池澤夏樹編集の世界文学全集が出たときは,ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」を新訳されていた。池澤氏との出版記念の対談を聴講し,飄々とした人柄に感激した覚えがある。

 洒脱なエッセイや,芸術論集など,忘れがたい書物の中から懐かしく読み返した2冊。「ひとり旅は楽し」(中公新書 2004)は私の旅の師匠のような本。「旅」とは「人生」だと考えれば,私の人生の指針ともいえるのかも。
 
 「ひとり旅の途上には,およそ思いもかけなかった想念がみまうものだ。ちょっとした関連から,へんてこな記憶がよみがえる。もはや当人にも覚えのないしろものだが,よみがえるからには,たしかに自分の記憶のどこかにひそんでいたにちがいない。旅先にあって,もう一つの自分探しの旅ができる。」(p.86より)

 「世紀末と楽園幻想」(白水社 1981)からはクリムトやシーレと並んで,シュトゥックという画家の知見を得た。ミュンヘンの旅の一日,ヴィラ・シュトゥックで過ごした時間を思い出す。旅を,芸術を,文学と書物を愛する人生へ導いてくれた先達へ深い哀悼の念を。

2019-09-16

2019年9月,横浜金沢文庫,「東洋学への誘い」(神奈川県立金沢文庫)

 横浜関内で用事があって,思ったより早く片付いてしまい,そのまま金沢文庫へ向かいました。京急線はなじみがなくて,ちょっとした小旅行気分。とはいえ,時間的には関内から上大岡で乗り換えて30分程度で到着します。
神奈川県立金沢文庫では東京大学東洋文化研究所と共催の「東洋学への誘い」が9月16日までの開催です。唐時代の経巻など,「鳩摩羅什訳」なんてさらりと書いてあって,唐の都・長安への壮大なタイムスリップ気分が楽しい。

 他にも敦煌遺書やキジル壁画など,わくわくしながら眺めます。トルファン出土の木像に魂を持っていかれる! 武人像や男子立像などに並んで,馬像と豚像! 豚は珍しいんじゃないかな。西安から西域への旅気分を味わって,大満足。

 初めての金沢文庫は称名寺の境内からトンネルをくぐりぬけてたどり着きます。買い替えたばかりのスマホカメラを全然使いこなせず,格闘中。

2019年9月,手に入れた油彩,「amorous」(山下かじん)

  というわけで,9月8日まで六本木s+artsで開催されていた山下かじんさんの個展「amorous」でこの1点を購入。この白という色彩の,饒舌でもあり静謐でもある不思議な魅力がなんとも色っぽい。アクリルで額装しようか,このままにしておこうかと迷っているところ。

 画廊の案内文によれば,「工業用のエフェクト・パール顔料や塗料を使い,水彩紙やキャンパスに描かれる」のだという。これはキャンパス。化学反応は偶然なのか,計画なのか,それともその両方なのか。

  amorousは「艶めかしい,色っぽい」とそのままなわけだけど,多情=孤独でもあるかもしれない。どこまでも二面的なんだな,と思う。

 蛇足ながら,この作品を見た家人(かじんさんじゃないですよ,私の家族ね)は,山本直彰さんの作品(うちには3点あります!)だと思ったらしい。全然ちがうじゃん!と言ったものの,言われてみれば雰囲気としては似てるのかも。まあ,好みと言ってしまえばそれまでなんだけれど,惹かれる方向としてぶれてないということにしておこう。

2019-09-08

2019年9月,東京六本木,二科展

  国立新美術館で16日まで開催されている二科展を見てきました。公募展にはほとんど足を運んだことがないのだけれど,今回は二科賞を受賞した坪田裕香さんの「in the water」シリーズを拝見に。ガラスボウルにケチャップのチューブと串に刺した蒟蒻。会場では縦に並んでいました。
  具象あり抽象ありの広い会場の中で,こういうリアリズム絵画のスタイルはとても特異な立ち位置。赤いケチャップはとても目立つし,蒟蒻は他の誰にも思いつかない素材に思えます。intellectualな成功,という印象です。二科賞というすごい賞を受賞して,これからが楽しみ。

 ところで会場ではドナルド・ジャッド風のモチーフが素敵な抽象画に出会い,その作家さんが近くの画廊で個展を開催中と聞き,立ち寄りました。作家さんの名前は山下かじんさん。展覧会のタイトルはamorous。詳細はまた後日に。

読んだ本,「君が異端だった頃」(島田雅彦)

  島田雅彦「君が異端だった頃」(集英社)を読了。「自伝的青春私小説!」である。ほぼ同年代,デビュー作「優しいサヨクのための嬉遊曲」から追いかけてきた読者としては,読者自身の「私小説」でもあるのかもしれない。
 壮絶(!)なモテ人生の披瀝に,にやにやしっぱなしで読み進めたが,大江健三郎,中上健次,佐伯一麦らとの文壇愛憎劇には驚きの連続だった。一読者として,中上健次はちょっと苦手意識がある。島田雅彦の導きがあれば読めるかもしれない。わが偏愛する小説家は,私を未知の世界へと導いてくれるのだ。
 
 「未確認尾行物体」や「夢使い」の頃が自分の人生の過渡期(!?)とも重なって,思わず涙腺がゆるみそうになるも,ニューヨークで生活を始めたアパートメントの住人達との交流の場面には腰を抜かしそうになる。マーサ・グラハム・カンパニーの折原美樹氏が同じアパートメントに住んでいたのだという!
 
 昨年,折原美樹氏が首藤康之らと共演したダンス公演を見に行ったのだ。どんなダンサーかよく知らず,自分と大体同世代の人なんだな,くらいに思っていたら,こんなところで自分の偏愛する世界がつながるとは! 誰かに話したいけど,わかってくれる人がいるものやら。
 
 10月にbunkamuraで島田雅彦と金原ひとみのトークイベントがあるらしい。ストーカーと思われないように,こっそり隅の方から「最後の文士」の姿を眺めることにしようと思う。
 
 安部公房とのやりとりのくだり。「この時,安部さんは二つだけ文学の話をした。君がロシアン・スタディ出身だと知ると,こういった。/-みんな偉そうにドストエフスキーやチェーホフの話をするけれども,本当に読んでいるのかね?/なぜそんな疑いを抱くのかと思いながら,君が「いやみんな読んでると思いますよ。安部先生もカフカのヒューモアにニヤリとされたでしょう?」というと,安部さんはしれっとこういった。/-カフカの小説を読んで笑える人は世界にそんなにたくさんいるはずがない。人類はそこまで賢くない。」(pp.244-245)

2019-09-01

2019年9月,東京世田谷,「入門 墨の美術」展(静嘉堂文庫美術館)

  静嘉堂文庫美術館で始まった「入門 墨の美術-古写経・古筆・水墨画-」展(10月14日まで)を見てきました。暑い夏の終わりに,静謐かつ清廉な展覧会を楽しんで,まさに眼福。楽しかった! (展示室内の写真は美術館より特別に撮影の許可を頂いたものです。)
 
 4月に東洋陶磁美術館で「文房四宝」展を見たばかりでもあり,初心に立ち返って「墨の美術」を入門から勉強できる機会はとっても嬉しい。今回は,「墨を主体的に用いた,わが国の古代中世の書画を展観」(図録p.3「あいさつ」より)する展覧会です。古美術の展覧会で,「ん?  これは中国,それとも日本?」という疑問を初めから感じないで済む,というのは思ったよりストレスフリーな経験でした。
 
 唯一の例外の元時代の水墨画「寒山図」と,宋代の墨がプロローグに展示されています。展覧会のキャラクター「かんざんくん」のナイスな脱力ぶりが面白い! 
  
  展示はタイトルが示す「古写経・古筆・水墨画」の三章で構成されています。奈良時代の写経の楷書体の書風は,謹直な職人たちの祈りが伝わってくるよう。「祈りの墨」の厳しさに思わず背筋が伸びます。仏教の修行に類するものだったという指摘はむべなるかな。この秋,ぜひ禅寺へ写経や座禅に出かけようと決心!
 
 そして平安時代の古筆の章では「雅なる墨」の美しさにただただ圧倒されます。伸びやかで流麗な書体は書き手の個性を表す,という指摘になるほど。工夫をこらした料紙や書かれた詩歌は,贈られた人への思いと共に「書く人」そのものを表すわけですね。
  そして展示は鎌倉~室町の水墨画の章へ。「墨に五彩あり」を体現するかんざんくんの笑顔にこちらも肩の力が抜けます。「聴松軒図」には人物は描かれていないけれど,禅僧の漢詩のやり取りによって,画面には人間味が溢れている,という指摘に思わず驚きました。そして,そうか,詩画図はそういう見方をすればよいのか!と目からウロコです。
 
 古美術の展覧会にでかけると,実物と解説を交互に読んで,ああ疲れた。となることが多かったのですが,今回は日本の「墨の美術」を,  テーマと時代で分かりやすく見せてくれる「入門編」ということで,いやあ,楽しかった! こういう古美術の見方・見せ方があるんだ。
 
 参考出品の経筒や元の飛青磁の花入れなども楽しい。「墨の美術」は続編はあるのかしら,中国編かな,それとも入門の次だから中級編かな,などと想像しながら美術館を後にしました。
 ところで,この展覧会のポスター類や図録がとても印象的です。明朝体の書体が古風で,展覧会にぴったり。(フォントの名前はわからない。。)図録をしばらく書棚に面出しで並べて展覧会の余韻を楽しもう。

2019-08-17

2019年7月・8月,東京・横浜,「宮本隆司」展など忘備録として

 この7月・8月の忘備録を。東京都写真美術館で見た「宮本隆司 いまだ見えざるところ」展は驚きに満ちた展覧会だった。イメージになっている2014年の「ソテツ」には,まさかこれが宮本隆司?としばし時間を忘れて見入る。

 奄美群島・徳之島での写真がとにかく圧巻。その中に「伊仙」というタイトルの異質な写真が3枚あって,キャプションを見ると1968年撮影となっていた。50年前の写真をリプリントして展示しているのだ。それを見たとき,タイトル「いまだ見えざるところ」の意味が立ち上がってきた。確かにそこで見た,そこにいた人々。そしていまだ見えざる人と場所。
写真美術館では「場所をめぐる4つの物語」展も。奈良原一高の「軍艦島」が圧倒的。限界に生きる人間の姿が美しい。

 東京国立博物館では「三国志」展を。「三国志」は高校生の時(遥か昔。。)に何かダイジェスト版みたいなものを読んだ記憶はあるのだけれど,ほとんど忘却の彼方。西安に旅行したときも,読み返そうと思いながらスルーしてしまった。
今回の展示を見て,この夏は絶対!読み返すと決意を固めて吉川英治歴史文庫の第1巻を読了。全8巻である。。それでも,こんなにスピード感があって面白かったか!と瞠目。9月の会期末までに全巻を読み終えるのが無理でも,もう一度見に行きたい。

  東博本館では「沖縄のやきもの -やちむんー」展も。独特なフォルムと,響きの美しい沖縄の言葉「セージャラ(皿)」や「マカイ(碗)」などにうっとりする。

  横浜美術館では「原三渓の美術 伝説の大コレクション」展を。圧倒的な展覧会。どの一つをとってもその美と歴史と蒐集家の熱情が伝わってきて,感動!としか言いようがない。イメージの国宝「孔雀明王像」はあまりの美しさと,それを原三渓は桁外れの高額で購入したという逸話が衝撃的だ。

 綺羅星のごとく並ぶ作品群の中でも,茶道具や伎楽面などにくぎ付け。もう一度見に行こう。常設は前回の企画展「meet the collection -アートと人と,美術館」展の後半がそのまま展示されていて,ロバート・キャパや沢田教一をゆっくり再見。 

2019-08-14

2019年8月,北陸の夏,鈴木大拙館・富山県立山博物館・鈴木雅明のバッハ

 ここ2年程,北陸へ足繁く通っていた事情がこの夏,最後になった。不謹慎な感情ではあるのだが,ほっとしている。これからはまた年に1度くらいの頻度になるだろう。今回の滞在も慌ただしく,心休まらないものだったが,寧ろ気を紛らわせようとでかけた記録を。

 まずは鈴木大拙館で『道法自然-「大谷大学と宗教研究」再現展ー』と題した展覧会を見る。キャプションや説明のまったくない室内を一周して,何の展示だかさっぱりわからない。壁のポケットに解説のプリントが3枚。暗い展示室で目を凝らしてそれを読んで,やっと展示の意味がわかった。
 
  思索のための空間ということはわかる。しかし,もう少し親切でもいいじゃないのか,と実はシニアグラスを忘れてプリントを読むのに苦労した八つ当たり(?)もしたくなる。館内にはほかにも思索のヒントになるプリントが用意されていた。「大地をそれが与えてくれる恵みの果実の上でのみ知っている人々は,まだ大地に親しまぬ人々である。大地に親しむとは大地の苦しみを甞めることである。」(「日本的霊性」より)

 富山県立山博物館は,惹かれてやまない能の「善知鳥」の僧が漁師の亡霊と会った場所という縁で前から一度行ってみたかった場所。交通手段が限られるので,今回はレンタカーを借りてレッツゴー。
  展示館・遙望館・まんだら遊苑で構成されている。期待通り(?)の地獄押しである。企画展「立山ふしぎ大発見⁉」も面白かった。なぞの予言獣「くたべ」のキャラクターは脱力感満載。
  展示館から布橋を渡って遙望館へ向かうも,橋を渡ったところに墓地が広がっているのには,まさか?と目を疑ったくらい驚く。博物館の敷地の中に墓地って。いや,逆なのだ。ここは姥堂があった場所が展示施設になっているわけだから。布橋はまさに此岸と彼岸の境界。なんだかこの夏はあちらとこちらを行ったり来たりしてるみたいな気分。

 金沢では初めての石川県立音楽堂で鈴木雅明のオルガンも聴いた。こちらは「真夏のバッハ」というプログラムで,コラールパルティータ「慎み深きイエスよ,挨拶をお受けください」の聖なる響きに心が震える。ちょっと鬱々とした気分がまさに浄化されるよう。

2019-08-11

2019年8月,東京六本木,クリスチャン・ボルタンスキー展

  国立新美術館で開催中のクリスチャン・ボルタンスキー展を見る。「50年の軌跡 待望の大回顧展」というキャッチコピーが踊る。
  ボルタンスキー作品との初めての出会いは越後妻有トリエンナーレだったかと思う。心臓の鼓動が響く古い校舎の中を,お化け屋敷か?!と嫌がる同行者の手を引いて進んだのを思い出す。

 今展は回顧展だが,彼の製作のテーマが一貫して「死」であることを強く感じさせられるものだった。身近な人の死の後なので,かなり重い。「ぼた山」の黒い衣服の匿名性・無名性は却って具体的に人の死を目に見える形で提示している。

 そしてその周囲の「発言する」には,凍り付くような恐怖感を覚えながら耳を傾ける。黒い衣服をまとった人形のインタビュアーの質問が向けられる先は,死者なのだ。それを私たちが聞く。私たちは死んでいるのか。

 「Tell me,教えて」の後に続く質問はどれも今の私の心臓に突き刺さる。「Did you see the light? 灯りを見た?」「Did you fly? 飛んだの?」「Who did you leave behind? 誰を置いていったの?」「Were you consoled? 慰められた?」…。

 英語を聞き取れなかった質問が1つあって,展示の後半はそれが気になって集中できなかった。日本語では「突然だった?」と言っている。たぶん,Was it burst on?と言ってたのだろう。私もあなたに問いたい。それは突然だったの?

2019-07-27

読んだ本,「虚人の星」(島田雅彦)

  島田雅彦「虚人の星」(講談社 2015)を読了。表紙カバーは池田学の「予兆」。金沢21世紀美術館で見た個展の,息詰まる緊張感を思い出す。彼は世界の終わりと再生をあまりにも繊細なペンの筆致で描き出した。この装丁は島田雅彦が指定したものと思いたい。
  総理とスパイの意識を交互に語る小説は,そのすべてを一人称で語り尽くす。そして総理もスパイも自らの内に別の人格を持つ。2人が交差する必定は,DNAの必然でもあるのだ。雅彦ワールド全開のストーリーに,文字通り寝食を忘れて没頭した。
 
 スパイの星新一の別人格たちはドルーク(ロシア語で「ともだち」)と呼ばれる。二番目のドルークである「博士虫」のこんな描写が面白かった。
 
 「博士虫は普段はページのあいだや行間で眠っていて,誰かの手でページが開かれるのをひたすら待っている。街の図書館から私が借りてくる本は人気がないようで,貸出中の本は一冊もなかった。ここ十年間は誰もページをめくっていないだろう。本は読まれるためにあるのだが,実質,コトバを閉じ込めておく牢みたいなものだ。/博士虫は本に書かれたコトバを栄養源に成長する。私のようにナイーブな者は寄生されると,何となく「ああ,きたな」とわかる。」(p.57)
 
  「ああ,きたな」という感覚には,私もしばしば遭遇する。寄生される感覚は,読書の悦びでもある。

2019-07-20

2019年7月,風蘭の開花

風蘭「春及殿」が開花しました。とてもよい香り。清楚だけれど,ちょっとおてんばな感じ(?)の花がとてもかわいくて癒されます。

2019-07-15

読んだ本,「人類最年長」(島田雅彦)

  島田雅彦の新刊「人類最年長」(文藝春秋)を読了。1861年生まれ,159歳の死なない男の物語である。奇想天外な設定と思いきや,小説は日本現代史といった趣で,歴史を一人称で紡ぐ試みとでも言えばよいのか,極めて真面目な小説だった。
  雅彦ファンとしては,もう少し毒があっても面白いのにと思いながらも,最終章の「-あなたのおっぱいを触らせてもらえないだろうか。―はあ?」というやり取りに思わず吹き出す。しかし,これは男の身体に宿った不老不死の精霊を引っ越させるための儀式だった。再び,吹き出す。

 「テクノロジーが進化した分,人は劣化したね。昔の人間の方が自分の頭と体をよく使っていた。昔の方がよかったという気はさらさらないよ。人間は元々,原始的にできているんだから,百年二百年じゃ大して変わりゃしない。」(p.265)

 この場所をすっかり放置してしまっていた間に,身近な人の死に接していた。あまりに近すぎて,哀しみとか喪失感に暮れるという感覚もなく,次々と襲い来る事務的な手続きに忙殺され,あまりに忙しく,あまりに疲弊した。

 その合間に読んだ本として,どういうチョイスなんだ,と自らつっこみたくもなるが,「人は死ぬ」というあまりに当たり前な自然の摂理を,一瞬立ち止まって考える時間を得た。おかげで感傷に流されることなく,日々をやり過ごしている。島田雅彦を読んでてよかった。そして文学を,言葉の力を信じていて本当によかった,とそう思う。

2019-06-16

読んだ本,「曇天記」「オールドレンズの神のもとで」(堀江敏幸)

 堀江敏幸の近刊で未読の2冊を読了。「曇天記」(都市出版 2018.3)は「東京人」に連載の掌編集。「オールドレンズの神のもとで」(文藝春秋  2018.6)はさまざまな媒体に掲載された短編集。初出は2004年,表題作は2016年と幅がある。
 「曇天記」は第7回以降毎回,鈴木理策の写真とともに掲載されていたらしい。掲載時を見ていないのであくまで憶測だけれど,これは写真が先なのか,文章が先なのか,いずれにしても「写真家の眼」と呼応する「作家の言葉」なのじゃないか,という印象。表紙カバーの写真にしても,曇天にちりばめられたような鳥の影があってこその川と橋と電車の風景であり,それを拾い上げるのが堀江敏幸という作家なのだと思う。
 
  「ここにいる不思議とここにいない不思議」は客のいないテーブルに料理を並べる料理人の話。「あの店のあの空席には,やはり姿の見えない誰かがいたのではないか。彼が店を閉じる決意を固めたのは,彼らから,虚構を支えていたのとおなじ言葉を頂戴したせいではないか。ここにいる不思議は,ここにいない不思議でもあるのだ。」(p.120) 
 
 「オールドレンズの神のもとで」を読んで,この作家と私という読者との相性を再認識したように思う。年を追うごとに,強烈さが増す自意識に,私は芒洋と置いていかれる。「果樹園」(2007)に魂が震えたかと思うと,「オールドレンズの神のもとで」(2016)は,もはや「よくわからない」としか言いようのない読後感にひどく疲れた。
 
 「もう一度,後ろから守らせてほしいと望んだときには,そこにいないのである。犬たちの動きを観察しながら私のなかであたらしく発見されたのは,甥っ子をあずかっていたときの背後からのまなざしだった。約束された不在の予感が,いっそうの愛しさを生み出すのだ。」(「果樹園」 p.39)

 「後頭部にガーゼを貼った少年は,過去が未来を追い越し,未来が過去に食い込むさまをじっと見つめている。しかしここでは時間を追い越すことも,時間に追い越されることもできない。色のなんたるかに気づいたわたしは,傾いた電柱の列にはさまれた二車線の道路が,追い越し禁止であることを認める。後戻りもせず,進むという選択も捨てないのであれば,追い越し可能になる道が開けるまで,じっと我慢するしかない。」(「オールドレンズの神のもとで」p.199) 

2019-06-09

2019年5月,東京駒込・半蔵門,「インドの叡智」展・神々の残照

  6月に入ってすっかり梅雨ライフ(?)です。5月に異常な暑さが続いたときには,このまま夏になってしまうのかと絶望的な気分でしたが,しっとり落ち着いた曇天の休日,ほっと一息ついてデスク周りの整理など。5月はこんな楽しい展覧会と舞台にも出かけたのでした。
  東洋文庫の「インドの叡智」展。左は本のデザインのチラシです。写真に撮るとほんとの本みたい。展示は日本とインド,インドの歴史,ヒンドゥー教の神々,ガンダーラ美術と盛り沢山。「インドの壮大な歴史絵巻でその叡智を探る」(チラシより)展覧会です。

 「ガンダーラのギリシャ仏教美術」(アルフレッド・フーシェ 1905-1917,パリ刊)にくぎ付け。モリソン書庫では「インドの動植物」特集展示で,「蘭アルバム」にくぎ付け。(写真は携帯でメモしたものです。)
  5月最後の週末には国立劇場で「言葉 ひびく 身体 神々の残照」を楽しむ。日本舞踊「翁千歳三番叟」,インド古典舞踊「オディッシー」,トルコ舞踊「メヴラーナ旋回舞踊」,コンテンポラリー「いのちの海の声が聴こえる」の4本の舞踊公演です。

 インド古典舞踊「オディッシー」は古代から寺院で神への奉献として演じられてきたもの。とにかく,動きや身体そのものが寺院の建築から抜け出してきたようです。その姿も,シタールの音色や歌声も,日本人である私たちには「意味」は解せずとも,神への祈りの姿としてあまりに美しい。

 蛇足ながら,トルコ旋回舞踊もとても楽しみにしていたのですが,ぐるぐる回る踊り手たちを見ていたら,ほどなく眠気に襲われてしまった。