2016-05-30

2016年5月、東京渋谷・上野毛,浮世絵と近代日本画の展覧会

 評判の展覧会を見に渋谷bunkamuraに出かけてきました。「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞」展は,若い人のハートをがっちりつかむ(←表現が古い。。)構成で,会場内は熱気があふれていました。若くはございませんが,私も存分に楽しませていただきました。

 「異世界魑魅魍魎」は「ゴースト&ファンタム」,「千両役者揃続絵」は「カブキスター・コレクション」,「当世艶姿考」は「アデモード・スタイル」などなど,よくまあ考えつくものだわ,という章立てになっていて,白眉は「髑髏彫物伊達男」は「スカル&タトゥー・クールガイ」と読ませる!

 肝心の歌川国芳と歌川国貞の浮世絵は,まさに最高のエンターテインメントです。展覧会の企画者や観客がノリノリになるのもよくわかる,というもの。千両役者のブロマイドは,現代の歌舞伎座で売ってる写真ブロマイドよりもわくわくしてきます。江戸時代に生まれて,国貞の「御誂三段ぼかし」をシリーズでコレクションしたかったなあ。

 国貞の「藍摺遊女」は圧巻です。「ベロ藍(プルシャンブルー)」の濃淡とほんのわずかにさされた紅によって描かれた遊女たちの姿。「今まで見たことがない」という種類の感激を味わうのは,展覧会の醍醐味ですね。いやあ,面白かった。

 この日は上野毛にも足を延ばして「近代の日本画展」も鑑賞。こちらもまた「珠玉の」という形容詞がぴったりの端正で美しい日本画を堪能できる展覧会でした。菊池契月の「光明皇后御影」に吸い込まれました。たおやかな天平の面影。

2016-05-22

2016年5月,東京上野・池袋,アフガニスタン展・世界の文字展

 GWに東京国立博物館の「黄金のアフガニスタン」展を見にでかけたところ,会場内が大混雑で,黄金の至宝のほとんどをゆっくり見ることができずとても残念でした。で,諦めきれずに再訪して(週末はそれなりに混んでたけど。。),美しいお宝を堪能。

 黄金製品はもちろんのこと,ガラス製品や家具を彩った象牙の装飾なども見事なものばかり。解説ボードがとてもわかりやすく,発掘時の状況を想像するのを助けてくれます。
  この展覧会が胸を打つのは,「その輝きに隠された『命がけの物語』」というコピーにある通り,博物館職員たちが内戦時に秘宝を隠して襲撃から守ったという物語でしょう。アフガニスタン国立博物館の再開を期して,「自らの文化が生き続ける限り,その国は生きながらえる」A nation stays alive when its culture stays alive.というメッセージが掲げられたそう。展覧会入口でちょっと泣きそうになる。

 そしてもう一つ,この機会に日本にある「アフガニスタン流出文化財」が本国へ返還されるということで,本展にも15件が特別出品されています。東京芸術大学大学美術館(陳列館)でも「バーミヤン大仏天井壁画 流出文化財とともに」という展覧会で壁画や仏像などが87点展示中です。

 略奪されてブラックマーケットなどを通じて日本に流入された数々の美しい文化財を目の当たりにし,美しいものを所有したいという人間の欲望について深く考えてしまう。これらは「文化財難民」と名付けられているのだそう。木立の中に美しいサイン。
  この後,上野から池袋へまわり,古代オリエント博物館では「世界の文字の物語」展を見ました。遥かなるユーラシアへの憧憬とともに過ごした一日。

2016年5月,デンドロビウムの開花

 2年前だったか,株分けをした後に全く花芽をつけなくなってしまっていたデンドロビウムが開花しました。うつむき加減が儚い。

2016-05-15

2016年5月,東京駒場,フランツ・エッケルト没後100周年記念特別展

 東京大学駒場博物館で開催中の「フランツ・エッケルト没後100周年記念特別展 近代アジアの音楽指導者エッケルト プロイセンの山奥から東京・ソウルへ」という長いタイトルの展覧会を見てきました。この長いタイトルに惹かれたようなもの。博物館入口にまぶしい5月の陽光が射す。
  エッケルトは日本の音楽文化の近代化に大きく寄与したお雇い外国人ということ。演奏と音楽指導が主な業績のため,文書として残っている資料は少ないということらしい。

 チラシには「初公開の資料も多い」と書いてありますが,ほとんどがファクシミリ版です。ドイツや韓国の資料はともかく,外務省外交史料館や東京合唱協会などからは現物を借用できなかったのはなぜ??

 面白かったのは,1889年以降,宮内省式部職雅楽部で管弦楽を指導していた経緯についての説明。おお,宮内省式部の雅楽師が西洋音楽を演奏するのはこの頃からなんだ,という気付きと,雅楽と西洋音楽の分離・兼修をめぐる紛糾により関係が悪化して職を辞したという事実への驚き。へぇー,の連続である。
 
 展示会場には音源が置いてあって,「君が代」(エッケルト編曲),葬送行進曲「哀之極」,「大韓帝国愛国歌」を聞くことができます。膨大な解説パネルと解説文が掲示され,展示ケースの中には現物ではなくコピーの史料が大部分を占めるなど,展覧会というよりは研究発表の一環としての展示,という印象です。平日の午後,東大駒場キャンパスで知的な体験,という自己満足(?)に浸って会場を後にしました。

読んだ本,「忘れられる過去」(荒川洋治著)

 荒川洋治の「忘れられる過去」(みすず書房 2004)を読了。この詩人が導いてくれる読書の世界は,何と歓びに満ちていることだろう。読み進めながら,ああ,この本も,この作家も読んでみたいと何度もページに付箋をはさむ。それは,己が決して長くない未来に光を差し込む行為にも似て。
  読んだことがあるはずだったり,まったく未知の作家だったり。まずは室生犀星,伊藤整,結城信一などから始めてみようか。そして,それらの作家への興味とともに,荒川洋治の言葉そのものも深く心に残る。

 書名の「忘れられる過去」。最初に見た瞬間,the past that can be forgottenの意味だと直感し,衝撃を受ける。しかし,近松秋江の「黒髪」という小説について語られた表題作を読むと,the past that will be forgottenの意味にもとれることに気付く。

 あ,そうかと思いつつ,文章の中身からどんどん離れて,私自身の中に言葉だけが入っていく。「過去」は「忘れ去られる」だけでなく「忘れられる」のだ。人には「忘れることができる」過去があるのだ。

 ピーター・ハントケの「幸せではないが,もういい」という小説を語る「見えない母」では,荒川洋治が引用したハントケのこんな一節に深く心を打たれる。「『私は夢で,それをみると耐えがたいほど悲しくなるようなものばかり見た。そこへ突然,誰かがやってきて,それらの中から,その悲しいものを,もう期限の切れたポスターを剥がすようにあっさり取り去ってくれた。そして,この比喩も夢に出てきた』」(p.194より引用)

 読み終えて,あとがきに著者自らが「忘れられる過去」という言葉には「不完全な印象がある」と語っているのに出会う。「『忘れることができる過去』と『忘れ去られてしまう過去』の二つの意味になる。でも人には,どちらの側にも,思い出があるものである。」(あとがきp.293より)

 読書を語る本を読んで,読書の至高の愉しみを味わう。そして本を閉じて,カバーにこんな一節が引用されているのに気付いた。本文を読んでいるときには看過してしまったようだ。あわてて頁を繰ってみたが,見つけるのは容易ではない。私は何を読んでいたのだろう,と自嘲めいた苦笑が浮かぶ。これは繰り返し読みなさい,と本が私に課したのだろう。

 「五〇歳を過ぎた。するべきことはした。あとはできることをしたい。それも,またぼくはこうするな,とあらかじめわかるものがいい。こんなふうな習慣がひとつあって,光っていれば,急に変なものがやってこない感じがするのだ」(本書カバーより)

2016年5月,東京目黒,高島野十郎展

 目黒区美術館で開催中の「高島野十郎展 光と闇,魂の軌跡」を見てきました。蝋燭と静謐な小品を描いた孤高の作家という先入観を持っていたのだけれど,それは作家のごくごく一面に過ぎないということを認識した展覧会。

 まず,イメージしていた暗い画面に細密に描きこまれた静物画は初期に描かれたもので,渡欧時や国内を旅行して描いたたくさんの明るい風景画にはちょっと面食らってしまう。まばゆい陽光と色彩がきらめいています。

 そして,小部屋にまとめて出品されている蝋燭の小品は,すべて身近な人々への贈り物として描かれたのだそう。朝日新聞の展覧会評では,この背景に作家の「無欲な姿勢」が端的に示されている,と指摘しています。彼の画家としての生活は,経済的に貧窮していたわけではないようです。

 そうか,彼は「孤高の作家」ではあったけれど,決して「不遇の作家」ではないのだ,と自分の勝手な思い込みの誤りに気付きました。彼は孤高へと「追いやられた」のではなく,自らの生き方として孤高を「選んだ」のだ。

 最終章の「光と闇 太陽 月 蝋燭」の解説には「神秘的な精神性」が湛えられている,とあります。ここへ至る画家の人生とは,その意味とは。時代を追って丁寧に編まれた展覧会場をゆっくり歩きながら,絵を見ながら,考えてみる。

  少しくもやもやした気分で帰宅後,評伝などを検索したところ,どきっとする書名の評伝を見つけました。「過激な隠遁―高島野十郎評伝」(川崎 浹著 求龍堂 2008)。ああ,彼は「過激な」隠者なのか。これは読んでみたい…けれど,積読の山を前にちょっとため息をつく午後。

2016-05-08

2016年5月,埼玉北浦和,ジャック=アンリ・ラルティーグ展

  鉢植えや苗を大切に抱えて,大宮から北浦和へ向かいます。埼玉県立近代美術館で開催中の「ジャック=アンリ・ラルティーグ 幸せの瞬間をつかまえて」展を見てきました。緑がまばゆい公園から青空に向かって翔けていく子どもたち。
ラルティーグは東京都写真美術館でまとめて見た記憶が新しいし,お気に入りの写真集も持っているし,それほど新しい発見はないのでは,と思ったのですが,チラシを見てびっくり。カラー写真が展示される?!

 あわてて予習したところ,今年になって、ラルティーグ財団のディレクターによって初のカラー写真集"LARTIGUE: LIFE IN COLOR"が刊行されたということ。その中からイメージがいくつか展示されるということで,これは期待度満点。

 会場はおなじみのわくわくするイメージが続きます。1914年というから20歳のときに撮影した無声映画「盗賊と妖精」の上映(これが楽しい)もあり,まさに「幸せをつかまえた」写真家の人生をたどることができます。

 カラー写真を展示した第4章「色彩の歓び」には約40点と,予想以上にたくさんのイメージが並んでいます。そしてこれが頗る素晴らしいのです。世界をそのまま切り取ったかのような鮮明な写真たち。なぜ今まで公開されていなかったのかが不思議なくらい。プリントは今展のために作成されたインクジェットということ。

 1954年の「フロレット,ヴァンス」は鮮やかな色彩のカーテンの前で振り向くフロレットの姿に,ルーバー越しの陽光が鮮やかな影となって重なる魅力的な1枚。思わずその陽光に手を差し伸べたくなります。説明によると,昨年,カラー写真を紹介する展覧会がパリで開かれて大きな反響を呼んだということ。むべなるかな。こうなると,ぜひ"LARTIGUE: LIFE IN COLOR"を手に入れたくなってきた。。顛末記はまたいずれ。

2016年5月,埼玉土呂,大盆栽まつり

 昨年のGWに続いて今年も大宮へ出かけて大盆栽まつりを楽しんできました。盆栽村を歩き回って,心惹かれる盆栽や苗にたくさん出会ったものの,朝から気温が高い上に,これは持って帰れるのか?とか,無理して(お値段的に,という意味で)買ってもちゃんと管理できるのか?とか悩みも深く,へとへとの一日でした。。
  とはいえ,黒松を一鉢と,山アジサイの苗を2種類,寄せ植え用に姫トクサ,そしてこんな可憐な名護蘭を一鉢買い求めて大満足。名護蘭はつぼみでしたが,明るい窓辺に一日置いたら開花していました。和名はSedirea Japonicaというらしい。とても良い香りがします。後ろに写っているのは,以前骨董市で求めた安南染付の瓶。心惹かれる美しいものたちを愛でていると,一炊の夢もまた楽し,と自己満足の初夏の午後。

2016年5月,東京千駄ヶ谷,櫻間右陣の会「邯鄲」

 GWの一日,国立能楽堂へ出かけて櫻間右陣の会を拝見。番組は仕舞が「遊行桜」,「熊坂」,狂言が万作・萬斎親子の「蝸牛」,休憩をはさんで仕舞「笠之段」,そして能「邯鄲」です。
 
  ここ数年,年に2・3回くらいのペースで観能をしている感じ。少しずつ楽しみ方もわかってきた(つもりの)今日この頃,「熊坂」はおっ,私の好きな舞が見れる!と一人で盛り上がる。長刀を振り回す熊坂長範の動きが好きなんだなあ。(盗賊なんだけど。)
 「邯鄲」は中国の地名で,あらすじは「邯鄲の夢(枕とも)」の故事を舞台化したものです。青年盧生は邯鄲の宿で枕を借りてひと眠りする。やがて勅使が表れて楚王に迎えられると,栄華を極めた五十年を過ごすのだが,しかしそれは一炊の夢の間の出来事だった,というお話。
 
 舞台の「一畳台」と「引立大宮」の作り物が,旅宿から宮殿へ,そしてまた旅宿へと観る者を時空を超えた世界へ誘ってくれる。帝王としての盧生が激しく舞う場面が圧巻。そして,夢の中の登場人物が消え去ると,シテは一畳台へ「飛び込む」のですが,その動きがまるで軽業師の身のこなしのごとく!
 
 「百年の歓楽も,命終われば夢ぞかし。五十年の栄花こそ,身のためにはこれまでなり。(略)げに何事も一炊の夢,」…観る者である私は,栄華の儚さを知ると同時に,能舞台という異空間は時空を超え,彼岸と此岸を行き来し,そして夢と現をも軽々と飛び越えてしまうのだ,と感じ入ることしばしでした。
 
 帰宅して庭の鈴蘭を摘む。ロンドンのアンティークマーケットで求めた一輪挿し。