2016-08-28

2016年8月,千葉佐倉,「サイ・トゥオンブリーの写真」展

  川村美術館も,なかなか足を運べずにいた美術館の一つ。沿革を見ると,開館は1990年,延床面積が1.5倍になったリニューアル開館が2008年とのこと。そのたびに,「川村美術館に行った?」といろんな人と言葉を交わした気がするけれど,結局今ごろになって初めて訪れた次第。 
  8月最終の週末までサイ・トゥオンブリーCy Twomblyの写真展が開催されていて,これもいろんな人と「もう行った?」という言葉を交わしました。「サイ・トゥオンブリーの写真」というのはとても新鮮な響き。今までまとめて発表されることがなかったそう。
  この作家の名前は, ART TRACEから2003年に出版された「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」(林道郎著)で初めて知りました。先鋭の美術評論家が講義とディスカッションという形で行うレクチャーの最初に取り上げた作家,という知識がまず刷り込まれ,作品そのものにはほとんど触れた記憶がありません。2015年の原美術館の展示にも行けなかったし。

 なので,彼のドローイングやコラージュ作品,そして彫刻などと今回の展覧会の写真をどのように関連付けて見ればよいのかがよくわからないまま,展示室に足を踏み入れてしまいました。副タイトルになっている「変奏のリリシズム」Lyrical Variationsの意味も最後まで理解できないまま。

 「何が写っているのかよくわからない」画像が多い写真そのものはどれも魅力的で,それら1枚1枚は確かにlyricalだし,イメージが連なるシークエンスは見事です(「彫刻の細部」から「キャベツ」への流れなど)。では,こうした写真作品相互の関係をもってvariationsと言っているのだろうか。そうではないはず。

 作家はこれらの写真を,あたかも作家が創作メモを取るように,詩人が浮かんだ言葉を紙片に書きつけるように,ポラロイドを撮り続けたのではないだろうか。つまりは作者の「イメージのメモ」みたいなものとしての写真。
  堀江敏幸は「仰向けの言葉」(平凡社,2008)所収の「深海魚の瞳 -サイ・トゥオンブリー」の中で,「彫刻の細部」と「キャベツ」について次のように書いています。

 「表面の肌理に観応しつつ,その向こうにある厚みと奥行きをぼやけた光で照らし出す一連の写真では,しばしばとまどいに喜びがまさる。1990年に撮影された「彫刻の細部」の,幾層かの薄い黄色の光も同様だ。なにが写っているのか不明のままであったとしても,色彩と光が輪郭をぼかし,色のグラデーションが世界の皮膚になって,世の中のすべては真実の擬態にすぎないことをそれらは明確に示してくれる。/とりわけ,内側でこっそり息をし,じつは血液が激しく体内をめぐっている生きものの擬態であるかのような「キャベツ」。緑の塊のなかに嵌め込まれた黒の絶妙な配分は,闇に溶け込むための完璧な擬態だ。」(中略)「畑で獲れたゴーレムとくずれたふたつの紡錘にトゥオンブリーの絵画作品すべてが吸着されていくさまには,驚くほかない。」(pp.74-75より)

 やはり,サイ・トゥオンブリーの写真は,作家の仕事の全体を俯瞰し,把握した上で見るべきなのかもしれません。もちろん,写真展として存分に楽しめましたが,作家から大きな宿題を与えられたような気もしています。

2016年8月,千葉佐倉,国立歴史民俗博物館

  まだまだ夏の日差しの強い週末,佐倉の国立歴史民俗博物館に出かけました。アクセスが不便でこれまで一度も訪れたことがありませんでした。思ったよりもスムーズに到着できたのはいいのですが,突然の豪雨にちょっと心が折れかかる。自分を雨女と思ったことはないのだけれど!

 広大な博物館で開催されている企画展示「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」と,特集展示「戦国の兜と旗」,「柳田國男と考古学」の3つがお目当て。これだけの展示を一度に見ることができるわけで,お得感満点です。
  シーボルトの展示では,19世紀の異国の眼から見た日本を通覧できてとても面白い。香木を削る香道具の函には,「子ども用の大工道具のミニチュア玩具」という説明があります。なるほど,そういうものに見えたわけだ,と妙に納得。目玉の一つである植物画「フローラ・ヤポニカ」は,『植物図鑑』という使命を超えた美しさにうっとりする。

 「戦国の兜と旗」では東京大学史料編纂所所蔵の「落合佐平次道次背旗」を見ます。一度見たら忘れられないビジュアルはもちろんのこと,その修復にかかる技術と情熱の結晶に感動。

 「柳田國男と考古学」の展示では,民俗学形成への柳田國男の思想を辿る展示です。細かい文字の説明パネルを丹念に読み込むには余力(!)が残っておらず,樺太や朝鮮出土の遺品を眺めるだけ,という感じになってしまったのが痛恨。樺太の「ソロイヨフカ出土の針入れ」の前で釘づけになりました。「ソロイヨフカ」という言葉の響きの虜になる。建物を出ると,雨後の強烈な陽射し。直通バスで川村美術館へ向かいます。

2016-08-21

2016年8月,京都(5),京都国立博物館・高麗美術館・龍谷ミュージアム

  最後に,京都で楽しんだ美術館・展覧会の記録を。高麗美術館では「朝鮮王朝 白磁の世界」展。何度足を運んでも,今まで見たことがない,という名品に出会える美術館。2階のレイアウトがかなり変わったようです。朝鮮家具の展示は少なくなり,その分,図書閲覧コーナーがゆったりとして居心地がよくなりました。
 龍谷ミュージアムでは「仏教の思想と文化 インドから日本へ」展。とにかくここでは美しいガンダーラ仏にたくさん会えるのがうれしい。日本の仏像はピンとこないけど(あ,失敬!)ガンダーラ仏には惹かれます(ただのイケメン好き)。アジアの仏教展示では大谷探検隊が拓本をとったアショーカ王碑文の拓本なども。
 
 日本の仏教展示では,ちょうど学芸員のレクチャーがあり,善光寺如来絵伝の詳しい絵解きがとても面白かった。やはり知識は必要ですね。歳を重ねて,お迎えもそう遠くはないせいか(?),仏教についてもっと勉強したいと思う今日この頃です。
 最後は京都国立博物館知新館前の夕景。特集展示は「丹後の仏教美術」でした。いくら興味が湧いてきたとはいえ,仏教関連の展覧会が続いてちょっと退屈。3階の陶磁コーナーの「日本と東洋のやきもの 古窯の美」の方が楽しかったな。
 
 今回の旅では,高麗美術館と縁のある「李青」で韓国料理と韓国茶を,おしゃれなカフェstardustではローケーキとフランスのCHA YUANのチベタンティーもいただいて,大満足。
 
 さて,暑い暑い京都の夏はもうこりごり,と思って帰ってきたけれど,こうやって写真や収穫物(!)を整理してみると,よし,また来年も,という気分になってきたから不思議。

2016年8月,京都(4),黄檗山萬福寺

 宇治のお隣の駅,黄檗で降りて黄檗山萬福寺を訪ねてみました。ほとんど拝観者がいなくて,ほっとします。これぞ禅宗の大本山,といった感じの静けさで,思っていた以上に感動。行ってよかった!


  350年前に隠元禅師が中国から持参したという札が立った隠元豆。まさか350年前の豆が脈々と実をつけてるわけではないよね,と一人つっこみ。

 明朝様式を取り入れた伽藍配置をそのまま伝えている寺院は日本では他に例がないそう。異国情緒たっぷりの寺院をゆっくり歩きました。今度くるときは予約して普茶料理などもいただいてみたいなあ。

2016年8月,京都(3),宇治平等院・鳳翔館

 京都からJR奈良線に乗って宇治駅で下車。駅前の有名なお茶屋には朝の9時過ぎだというのに長蛇の列ができていて,抹茶パフェだかかき氷だか,宇治茶スイーツがお目当てらしい。冷たい甘味のために炎天下に1時間以上並ぶなんて,その気合に驚く。
  初めての宇治平等院。京都を訪れてもあまり神社仏閣には足を運ばずに来てしまったけれど,一度は西方浄土の美しさを見ておかねば。それにしても海外からのツーリストを含めて,「人混み」と呼んで構わないほどの賑わいです。

 楽しみにしていた鳳翔館で雲中供養菩薩をじっくり拝観する。雲に乗って空中を舞う菩薩の姿を見ていると,上半身が人で,下半身が鳥の迦陵頻伽の姿をなんとなく連想してしまう。あれも確か浄土図に登場するはずだし,あながち遠からずという気もするけれど,少し「仏像の見方」的な勉強もしなくちゃ。と思った次第。

2016年8月,京都(2),川口美術・韓国古陶磁探究陶人展

  下鴨神社の参道を出町柳方面に歩くと,韓国骨董を扱う川口美術があります。お盆の期間は休みのことが多く,初めて訪れることができました。1階の洗練された骨董の数々に,思わず暑さを忘れます。
  2階でちょうど開催されていた韓国古陶磁探究陶人展は11人の陶人(いい響き)の小品がぎっしり展示されていて,とても楽しい。松葉勇輝さんの小さな白磁の花器を一つ,求めました。小さな野の花を生けたい。下の台はソウルの骨董店で求めた茶托。
 

2016年8月,京都(1),下鴨神社古書市

  今年も行ってきました。夏の京都。ただただ,暑かった。。年々,観光客の数が増えてやしないか?という人の多さにも(自分もその一人なんだけど)圧倒されて,もう夏の京都はやめておこ。と決意をして帰ってきました。
 
 さて,今年もまずは下鴨神社の古書市に。例年より乾燥してたのか,「散水車が入りまーす」というアナウンスに,え,本がびしょびしょになるのでは?と思ったら,こんな散水車でした。タンクを積んだ軽トラの荷台から水がびしょびしょ~と流れ出ます。なんともゆるい雰囲気がたまらない。
  初日というのに,こちらの気合が足りないせいか,ほとんど収穫らしい収穫もなし。こんなところかな,とあきらめかけたところに,Sylvan書房の台で1956年北京発行のIndigo Prints of Chinaなる1冊を発見!これはうれしい。インディゴの発色が美しく,文様の英語表記も見ているだけで面白い。  


2016年7月,東京目白,辻邦生「春の戴冠・嵯峨野明月記」展

 先月のこと,目白の学習院大学史料館で8月12日まで開催されていた「春の戴冠・嵯峨野明月記」展を見てきました。辻邦生の命日は「園生忌」として読者の胸に刻まれています。

 若いころに夢中になって読み,著作を集め,しばらく遠ざかっていたけれども,また最近になってああ,いいなあと読み返すことがしばしば。学習院キャンパス内の瀟洒な建物の展示コーナーは,思っていたよりもずっと小さい規模でしたが,熱心な読者の姿がそこここに。閲覧室には著作を集めたコーナーも。うん,これなら私の書棚の辻邦生コーナーの方が充実してるぞ,と独り悦に入る。
  展示されている小説の構想メモや日記の,細かくびっしりとした文字に圧倒されます。「絶えず書く人」であった小説家の,眉目秀麗なる若かりし頃の写真にも。いろいろ考えることが多く,簡単にまとめることは容易ではないので,ここでは展示室でメモをとった作家の言葉を忘備録として。

 「在る人がそこにいない。それを取り戻す」「不在から「在ること」の不思議を知る。この「在ること」の手ざわりを描き出す。「在ること」は「内なるもの」の枠としてあり,真存在は「内なるもの」である」「内なるもの」をなるだけあらわにするのが作家の仕事だ」(創作メモ1970~71より) 

2016-08-15

読み返した本,「安南・愛の王国」(クリストフ・バタイユ 辻邦生訳)

  クリストフ・バタイユという美しい響きの名前を持つ作家を知ったのは,訳者が辻邦生だから,というのが唯一のきっかけだった。シンプルな装幀の「安南」(集英社, 1995)は,扉頁にヴェトナム周辺の地図を配した120余頁の書。
  18世紀末にフランスからヴェトナムに派遣されてやがて故国から忘れ去られていった宣教師たちの物語であり,訳者解説の言葉を借りれば,「神の喪失と愛の発顕の物語」(後述)である。

 話題になった出版時に購入して読んだのだから,初読は20年も前のことになる。あっという間に読み終えて,あっという間に忘却の彼方だった。ベトナム旅行と,そして最近,辻邦生に回帰(というのも変な言い方だけど)していることもあり,再読してみた。

 この小説の文章は一つ一つが簡潔でとても短い。そのためだろう,何か禁欲的な印象を受けて,読後は緊張から解放されるような気分を味わう。「農民たちは,福音の教えに耳を傾けていたが,同時に,古くから伝わる彼らの神々を信じ続けていた。ヴェトナムはすべてを昔ながらに保っている。すべてがそこで永遠と混ざり合う。人間はだたそこを通り過ぎていくだけだ。」(p.85より)

 ところでこの物語は,冒頭部分から,ベトナム史に一見忠実なようで微妙に史実とは異なるのだが,この辺は,訳者解説に詳しい。「〈新しい世界〉を実在させるには,言葉がそれ自体で立ち,言葉の光を周囲に放射させることによって,その光が〈世界〉となるように努めなければならない。つまり言葉は対象世界に依存しつつ,それを描写するのではなく,言葉そのものが自立して〈世界〉となる。(略)こうした意味で『安南』はベトナム史にかかわる歴史的事実によって支えられた歴史小説でありながら,実は,歴史をいかに詳細に見ても発見することのできない,神の喪失と愛の発顕の物語へと変容している。」(p.132より)

2016-08-10

2016年8月,東京竹橋,声のマ 全身詩人、吉増剛造展

 
  東京国立近代美術館で8月7日まで開催されていた「声のマ 全身詩人、吉増剛造展」を見てきました。この詩人について,そしてこの展覧会について何かを書き残そうとするのは,私にはあまりにも手に負えないので,ここでは忘備録として。
 
 イントロダクション,日誌・覚書,写真,銅板,〈声ノート〉等,自筆原稿,〈gozoCine〉,怪物君,(怪物君をモチーフにした空間),コラボレーションの9つのパートで構成された展覧会です。
 
 もっぱら,多重露光の写真がメインの写真展示のコーナーで時間を費やしました。というより,そこから足を踏み出すと,自分が一体どこへ向かうのか,この詩人にどこに導かれていくのかがわからなくなって無性に不安になってしまうのです。
 
 彼の多重露光の写真はほかのどんな写真家の写真よりも惹かれます。In-betweenの吉増剛造Irelandは宝物の一つ。オリジナル写真の展示に吸い込まれてしまう。
 
 銅板のコーナーでは実物を手に取ることができるコーナーがあり,詩人を真似て手に取って写真を撮ってみました。「怪物君」の前では私はすべての思考が止まり,言葉を失います。この詩人の声はどこから聞こえてくるのだろうか。
 
 当日,映画の上映会があり,終演後サイン会が催されていました。美術館の外から詩人の姿をカメラに収めてみました。ガラスとブラインド越しに,背中が見えるようで見えない。詩人の声は聞こえない。 

2016年8月,東京丸の内,ジュリア・マーガレット・キャメロン展

  三菱一号館美術館で開催中のジュリア・マーガレット・キャメロンの写真展を見てきました。ロンドンのV&A美術館が企画した国際巡回展ということ。一号館美術館で写真の展覧会を見るのはあまり記憶にないけれど,なるほどここの展示室にぴったり,という感じの展覧会。展示室はこんな感じ。V&Aのphotography roomの雰囲気を再現しているようです。
 この女性がカメラを手にしたのは1863年ということ。まさに写真黎明期に,芸術としての写真に情熱を注いだ人生に感動。ピクチャレスクな写真の数々を目のあたりにして,彼女にとってカメラは画家の絵筆のようなものだったわけだ,と納得。写真術を身につけたのは48歳のときというから,自分の表現したいものを表現する手段を得て,どれほど嬉しかったことだろう。
 
 聖母や幻想を主題とした作品をV&Aは当時の批評家たちの攻撃をものともせずに所蔵したらしい。あの美しい美術館の写真室を思い出しながら,手元のデジカメでカシャカシャと会場の写真を撮りながら,19世紀に生きた一人の女性の「表現する悦び」に羨望の想いを抱く。
 
 印象に残ったものをいくつか。'Yes or No?'というタイトルの1枚はヴィクトリア朝に人気のあった風俗画の主題のプロポーズを表しているということ。Robert Browningの肖像は,おお,上田敏訳の「春の朝」の詩人ではないの!「神,そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」と諳んじた学生時代を思い出しました。God's in his heaven. All's right with the world. ほかに,キャメロンの写真が挿図として装幀されたテニスンの詩集なども。 

2016年7月,古いもの,ベトナムで買ったもの

  少し間が空いてしまいました。楽しかった7月のベトナム旅行の記録の最後はこんな刻花文様の皿で。ホイアンの骨董店で求めたもの。せっかくホイアンに来たのだからホイアン沖引き揚げの青花を一つ,と思っていたのだけれど,ピンとくるものがなくてちょっとがっかりしていたところにこの皿に出会って一目ぼれ。

 店の主人は15世紀ころのベトナム北部の窯のものと言ってた(と思う)けど,いわゆるチョコレートボトムではなくて見込にも釉がかかっているし,そこまで古いものではなさそう。最初に見たときは緑釉かと思いましたが,青磁かもしれない。 

 というわけで,楽しかったベトナム中部の旅の記録は今回でおしまい。愉快なツァー仲間の皆さんのおかげでとにかく楽しい旅でした。またいつか再訪できる日を夢見て。