2019-04-30

古いもの,東寺弘法市で買ったもの,高麗青磁の茶碗

  混みそうだから,連休前に京都・大阪にショートトリップを楽しんできました。毎月21日の東寺弘法市にも前から行ってみたかったのです。そしてこんな素敵な高麗青磁に出会ってしまった。

 昨年12月にソウルの骨董街でも少し青磁は見てみたのだけど,この形はあまり見かけなかったし,完品はとても手が出ませんでした。少しフチにキズがありますが,何しろこの色と形に一目ぼれ。とても良心的なおじさんはたぶん,以前に天神市で李朝の糸巻を買ったおじさんのはず。またどこかの市で会えるかな。

2019-04-29

2019年4月,東京丸の内,「ラファエル前派の軌跡」展

  三菱一号館美術館で開催中の「ラファエル前派の軌跡」展にでかけました。おお,三菱一号館でまたラファエル前派か,と華やかな展覧会を予想していたら,かなりびっくり。そう,これは「ラファエル前派」展ではなく「ラファエル前派の軌跡」展なのです。
 
 まず第1章「ターナーとラスキン」から始まります。ラファエル前派の展覧会でこれだけターナーを見せるとは。なぜならラスキンがターナーを高く評価していたから,というのが謎解きなわけですが,この展覧会自体がラスキン生誕200年を記念するものだというから,なるほど納得です。
 
 ラスキンのデッサンや水彩画をこれほどまとめて見る機会というのは,日本ではほとんどないのでは,と思えるほどです。ほとんどがランカスター大学ラスキン・ライブラリーのラスキン財団所蔵と書いてあります。珍しい,という視点と同時に,なんて上手いのだろう,という驚きの視点と。
 
  古建築のデッサンなど,この展覧会の白眉ではと思えるようなものもあり,こんなさりげない植物画もとても魅力的。「美」が人生に寄り添っている人の手によるものだと伝わってくる。フレデリック・ホリアーによる老年のラスキンの写真のタイトルは「静寂の時」とあります。
 
 さて,第1章でもうお腹いっぱい,みたいな気分になりましたが,ここからラファエル前派の展示が始まります。ロセッティやミレイなどおなじみの顔ぶれが並び,ラスキンとミレイをめぐるスキャンダルなど,ちょっと辟易するエピソードなども。
 
 ところが不思議なことに,既視感あふれる展示も「ラスキンが評価して導いたラファエル前派」というフィルターを通して見ていくと,なぜか新鮮な悦びにあふれている! 「若者たちのはやるエネルギーの塊」という印象を持ってしまっていた彼らの作品が,ラスキンという深い思索と慧眼の人に導かれた純粋な運動への衝動,という風に変貌して見えてきたのです。
 
 我ながらかなり単純と思いながら,青木繁に影響を与えたというエドワード・バーン=ジョーンズの作品なども,2017年のラスキン文庫主催の講演を思い出してじっくり堪能しました。予想以上に知的な展覧会に興奮。
  展覧会を見に行った4月上旬はちょうど八重咲の桜の見ごろのころでした。東大本郷キャンパスの八重桜。

読んだ本,「この道」(古井由吉)

 「この道」(古井由吉 講談社 2019)を読了。新聞の書評欄を見て読んでみたものの,この作家の小説をほとんど読んでいないので,小説ともエッセーとも身辺雑記とも読めるこの8編の魅力を十分に味わうことができなかったように思う。
  80歳を越える著者が,現在から過去へ,故人となった人とも自在に交感し,今こことこれからへと思索をめぐらす。読者がその魂の遍歴についていくには,やはり作家の描く物語世界を理解していることが前提になるのだろう。手元に古い全集本がある。まずは代表作と言われる作品をいくつか読んでから再読することにしよう。どんどん宿題がたまる。

 「人は死をひたすら恐れながら,夜には正体もなく,心労があれば短い間にせよ,呑気に眠っているではないか,と笑う声も聞こえる。神々の哄笑というところか。しかし眠りには空間があり,時間もある。呑気とは,正体のあることでもある。死んでしまえば,空間も時間もない。(略)大体,私は死んだとは言葉としても,比喩や戯謔でないかぎり,成り立つものではない。それでいてそんなあらわな不条理が人間の思考の内に埋めこまれている。是非もないことか」(「花の咲くころには」pp.171-172より) 

読んだ本,「マシアス・ギリの失脚」(池澤夏樹)

 まだ肌寒い3月末のこと,飯田橋文学会の文学インタビューを聴講した(2019/3/25)。今回は池澤夏樹氏が登場!作家が選んだ代表作3点は「マシアス・ギリの失脚」(1993),「花を運ぶ妹」(2000),「双頭の船」(2013)。未読の「マシアス・ギリの失脚」(新潮文庫)に取り掛かる。文庫本620ページは,さらっと読み飛ばせるボリュームではない。しばらくの間,どっぷりと南洋に魂を預けた。
 
 ナビダード民主共和国の大統領マシアス・ギリが失脚するまでの物語。読者は冒頭から「なぜ大統領は失脚するのか」という疑問を抱いて読み進めることになる。マルケスの「百年の孤独」にも似たマジックリアリズム小説,とインタビュアー(ラテンアメリカ文学研究者)が指摘していた。 
 
  本を開くとまず,ガスパル島とバルタサール島の地図が見開きで挟まれている。思わずじっくり見入ってしまう。気分はほとんど機上の人。旅先の地図を眺める至福のひと時を味わいながら頁を繰る。すると件のインタビューの冒頭,池澤氏は小説を書くときに,「まず島の地図を書く」と!そう,だから読者はこの南洋の島に,小説家の描く世界に遊ぶことができるのだ。印象に残った一節。
 
  「予言に大小はありませんよ。それを使うものが大きくも小さくもする。それに,予言をできる者が知ったことのすべてを口にするとはかぎらない。すべての乗り物が目的地に到着するわけではないのと同じように」/それだけ言うと,リー・ボーの亡霊は消えた。(p.139より)
 
 この亡霊リー・ボーは実在の人物なのだという!(幽霊が実際にいるという意味ではないです。)巻末の参考文献に"LEE BOO OF BELAU"(D.J.Peacock)とあるでしょう,と作家がちょっとうれしそうな顔で話すのを聞いて,この日の興奮度はマックス。やはり作家の声を聴くのはexcitingな体験だ。
 
 さて,「花を運ぶ妹」についても語られる言葉のなんと芳醇だったことか。このバリ島を舞台にした小説は思い入れが深すぎるので,またいつかじっくり読み返してから,この日の作家の言葉を反芻することにしようと思う。インタビューの後,同書にサインをもらった。あまりに嬉しくて,帰りの電車の中でずっとにやにやしていた。

2019-04-18

2019年4月,君子蘭の開花

 
   君子蘭が今年もきれいに咲きました。
 
 読んだ本や,見に行った展覧会がたくさんあるのですが,目の回りそうな毎日を過ごしています。そんな中,明日から2泊3日で関西へ現実逃避旅行の予定。連休にゆっくり写真の整理などしようと思います。 


2019-04-06

2019年4月,東京汐留,ギュスターヴ・モロー展

  4月に入って,楽しみな展覧会が目白押しです。まず惹かれたのが,パナソニック汐留美術館で4月6日から6月23日まで開催の「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち」展。(展覧会詳細は公式URLにて:http://panasonic.co.jp/ls/museum/exhibition/17/170114/index.html

  久しぶりにお会いした知人が,お嬢さんと一緒にパリを旅してギュスターヴ・モロー美術館を訪れた,という話を聞いたのがまだ肌寒い3月のこと。旅の疲れがたまっていたその人は,サロメとヨハネの首を目にした瞬間,ぞっとして動けなくなり,そのままお嬢さんが観終えるまで椅子に座り込んで待っていた,と語りました。

 せっかくパリまで行ったのに,などと能天気に考えてしまったのですが,1枚の絵がそれほどの「強さ」を持っているのか,ということにも強烈な印象を覚えたのでした。たぶん,どこかで観た記憶はあるのですが,あらためてじっくり観てみたいなあとも思ったわけです。

 そして展覧会情報を見てびっくり,なんというタイミング。そのモローがパリまで行かなくても観ることができる!サロメもギュスターヴ・モロー美術館からやってくるようです。とても楽しみな展覧会。