2024-01-10

読んだ本,「思い出すこと」(ジュンパ・ラヒリ)

 「思い出すこと」(ジュンパ・ラヒリ著 中嶋浩郎訳 新潮社, 2023)読了。ジュンパ・ラヒリの最新作は「創作と自伝のあわいにうまれた一冊の『詩集』」なのだという。ローマのアパートで見つけた「ネリーナ」のノートを、ラヒリが発見者として序文を書き,マッジョ博士が監修を依頼されて注をつけるという体裁の作品。ネリーナもマッジョ博士もラヒリの構想した人物であるから,この本はラヒリが「一人三役を演じている」(訳者あとがきより)わけである。

 複数の人格で作品を書き分けるというのとは違い,1冊の詩集を3人の人格で書き上げ,しかもそれが自伝的な内容なのだから,面白くないわけがない。とはいえ,そういった作品としての面白さ・完成度とは別のこととして,読み始めてしばらくはこの「ネリーナの詩」はいったい「詩」なんだろうかと思えてくる。

 普通に行を分けずにつなげていけば,散文として何の疑いもない文に思えてしまう。というか,これはイタリア語を母語としない女性の書いた「詩」としてラヒリが意図的に創作したということなんだろうか。それとも日本語への翻訳段階での違和感なのだろうか。

 もやもやとしながらも,終盤の「遍歴」「考察」の章にいたると,それらはまさに美しい詩篇であり,だとすればやはりラヒリはネリーナの成長を描こうと意図したのかとも思えてくる。一筋縄ではいかない作家の自伝なのだ。

 ネリーナの詩には興味深いモチーフもたくさん登場する。「語義」の中の一篇〈Invidia 妬み〉。「もしもバカンス先で/三日続いた曇り空のあと/海に太陽が降り注いだら,/それもわたしの出発間際に。」(p.78)

2024-01-09

2024年1月,東京恵比寿,「即興 ホンマタカシ」展

 東京都写真美術館で「即興 ホンマタカシ」展を見る。ホテルの部屋をカメラ・オブスクラ状態にして撮影された作品だけで構成されている。メインのビジュアルになっている《New York》は画面が4分割されていて,その境界線のあたりが赤くなっているのが意図したものなのか,絶妙のセンスだなあと思っていたら,空港の手荷物検査のX線でネガフィルムが変色してしまったのだという(ニァイズ155号より)。

 「即興」であり「偶然性」を取り込んだ写真たちを前に,「写真」を疑う「写真家」の想いが伝わってきて,少なからず衝撃を受けた写真展。正月に見た日曜美術館の特番内でホンマタカシが,「写真には攻撃的で暴力的な一面がある,それをやめて逆の立場に立ってみた」というような発言(正確には覚えていません)をしていたのが印象的だった。

 インタビュー記事にはこんな発言もある。「『笑って,笑って』と被写体に言うのは,事件を起こすってことじゃないですか。それをしない。そう考えると縛りが多いですね。面倒な技法や機材を使い,画面には水平垂直の縛りをし,決定的瞬間を狙わない。」(「アイズ2023」115号pp.3-4)

新年のご挨拶


 新しい年の始まったその日に起きた災厄に心が痛む日々が続きます。北陸の地の皆様の苦しみ哀しみはいかばかりか,お見舞い申し上げます。今は祈るばかりですが,落ち着いたら現地で少しでもお手伝いができればと思う日々。はるか昔日のこと,珠洲のおばあちゃんちに行くことがとても楽しみだった。奥能登芸術祭にでかけてその跡地を見て懐かしい想いに浸ったのが昨日のことのよう。