2013-01-30

2013年1月,東京代官山,島田雅彦の新刊

  島田雅彦の新刊「傾国子女」の刊行に合わせたトークショーとサイン会がありました。会場は代官山にあるおしゃれな蔦屋書店。

 会場に颯爽と現れたかつての「文壇のプリンス」も今やかっこいい五十代。デビュー作「優しいサヨクのための嬉遊曲」(1983)からの読者なので,ふけた(もとい,貫録がついた)なあと(自分のことは棚にあげて)感慨深い。40分ほどのトークは新刊についてひとしきり語ったあとは,グルメや趣味の話を愉快に。ハートマークのついたサインをもらって乙女のように心うきたつ。

 新刊「傾国子女」は「好色一代女トゥデイ」。出版社のページには「私もデビュー三十周年を迎え,谷崎的な耽美の世界に足を踏み入れる年齢となりました」という著者のコメントがあります。強烈なキャラクターの女性の波乱万丈な一生を,はらはらしながら一気に読み終えました。ずっと読み続けている作家の新しい世界を楽しんで,作家が“瘋癲老人”の世界に足を踏み入れるまで追いかけよう!と心に決める。 

2013-01-27

読んだ本,「生は彼方に」(ミラン・クンデラ)

  ミラン・クンデラ「生は彼方に」(西永良成訳,早川書房 1978,1995改訂新版)を,読み始めてからあちこち寄り道をしていたせいで,随分と長い時間をかけて読了。クンデラの小説の執筆の順では「冗談」の後,「存在の耐えられない軽さ」の前という位置づけです。

 「抒情主義」を批判する天才詩人ヤロミルの短い一生が描かれます。彼を溺愛する母親と,やがて出会う赤毛の恋人。祖国チェコの革命への希望と失望。時も距離も政治体制もはるか遠くの物語なのに,魅力的な人物たちに感情移入してぐいぐい読み進められる小説です。

 訳者あとがきによると,この主人公にはクンデラ自身が投影されていると考えられるということ。抒情主義が全体主義の構成要素だと考えるクンデラの,抒情の精神から訣別し,「小説の精神」への転回を示す特異な地位の小説と言えるのだそう。

 一人の人間の生において「詩」とは何だろうか,と絶えず考えながら読む。『彼が書いた詩は,まったく自立的で,独立し,理解不可能だった。だれとも馴れあわず,ただ“存在”するだけに甘んじている現実そのものと同じほど,独立し,理解不可能だった。だから,この詩の自立性はヤロミルにすばらしい逃げ路,夢みていた“第二の生”の可能性を差し出していた。彼はそれを美しいと思うあまり,翌日から新しい詩を書こうと試み,やがてすこしずつその活動に没頭していった。』(p62より引用)

 作中には,ヤロミルが読むランボーやバイロン,エリュアールなどの詩と人生の逸話も数多く登場します。『自分の死を夢みたことがない詩人とは何者だろうか?死を想像したことのない詩人とは何者だろうか?』(p304より引用) という一節を読むと,人はみな生まれてから死ぬまでの間,詩人としての生を生きているのではないのか,と逆説的に考えてしまう。だからこそ,死ぬまでに一篇でいいから真実の詩を書いてみたいものだ,とも思えてくるのでした。

 ところであとがきに,この小説の話法とテンポに関してのおもしろい説明があり,読んでみると「小説の精神」(ミラン・クンデラ著 金井裕,浅野敏夫訳,法政大学出版局)からの引用でした。この小説のテンポには音楽的な配慮がなされているというくだりは,第一部 11章71ページ・モデラート,第二部 14章31ページ・アレグレット,第三部 28章81ページ・アレグロ…といった具合。とても面白いので,「小説の精神」についてはまた日を改めて。

2013-01-25

2013年1月,東京恵比寿,北井一夫写真展「いつか見た風景」

 東京都写真美術館で北井一夫写真展「いつか見た風景」を見てきました。写真美術館地階入口へのアプローチ。
 
 北井一夫は1944年生まれの写真家。学生時代の作品から最新作までを展示しています。初期は「バリケード」,「三里塚」などのルポルタージュ性の強い作品。その後,日本の農村風景をとらえた「村へ」「いつか見た風景」,新興都市の日常「フナバシ・ストーリー」などを経て最新作は震災後の東北の風景「道」。

 どんな被写体の写真であっても,「外側」から見る冷めた視線を感じません。バリケードの中であれ,新潟の豪雪地帯であれ,今,ここにある「日常」をカメラに収めようとした写真家の視線が,実体験はなくともどこか懐かしい,という感覚を観るものに抱かせるのかもしれない。

 そして,やはり実体験があるとそれだけ写真との距離が近づくのも事実。「1990年代北京」のシリーズの中に,胡同(フートン)の人々の優しい表情をとらえた写真があります。かつて3泊4日のおまかせツァー旅行に参加して,唯一の自由散策の時間に歩き回ったその場所。写真家の視線と自分の視線を重ねて少女の笑顔を見ていると,一瞬タイムスリップした気分に。
 
 美術館のHPに写真家のエッセイが掲載されていて,50年分5000本ものフィルムを自宅で整理保存している抽斗を「時代の抽斗」と呼んでいます。それは,「もの」としての「抽斗」というだけでなく,写真家という存在そのものが「時代の抽斗」なのだ,という強い自負のようにも思え,長い時間写真を撮り続けるという行為に深い敬意を抱かずにはいられません。

2013-01-20

2013年1月,東松照明の写真

 昨年12月14日に亡くなった東松照明氏の訃報が報道されたのは1月に入ってからのこと。氏の写真の熱心なファンというわけではなかったけれど,昨年は「実験場1950s」展や,ロンドン・バービカンセンターのeverything was moving展などでまとめて見る機会があったばかりなので,訃報はかなりショックで,哀しい。everything was moving展は展覧会のイメージにも氏の1969年撮影の写真が使われていました。
 
 追悼の文章などを読んであらためて,この写真家の存在の偉大さを知る。たとえば1月16日朝日新聞夕刊美術面に掲載された倉石信乃氏による「戦後写真における東松照明 批判と創造 飽くなき追及」。東松氏の凄さは,「リアリズム写真からも,絵画的写真からも超脱した,現代写真の始まり」という達成にとどまらず,「むしろその達成を冷静に自己批判し続けたところにある」と。
 
 雑誌「未来」2013年1月号にも,「沖縄写真家シリーズ 琉球烈像」(未来社)の全巻完結に合わせて倉石氏の東松照明に関する論考「写真家というアーカイヴ」が掲載されています。(同シリーズ第9巻が東松照明「camp OKINAWA」)。

 少し長くなりますが,引用します。「『沖縄』は,撮影によって風景や人物を個人の所有物へ変換する,写真の装置性にまつわる悪しきポリティクスを赤裸々に露呈させてしまう場所だ。このことへの関与が,優れた写真家ほど背負いやすい写真の原罪ならば,いかにしてそれを贖うことが可能だろうか。たとえば,東松照明のこれまでの軌跡がおのずと物語るひとつの解答への試行は,撮影をただ続けること,撮影の持続が歴史になり,写真家自らがいわば一個のアーカイヴと化すまで続けることではなかったか。紛れもなく,自作の再編集という契機を重視してきたのが,写真家の方法であった。」(p.35より引用)

 所有している唯一の写真集「VISIONS of JAPAN」(光琳社出版,1998)を久しぶりに開きました。九十九里浜に流れ着いた漂着物をとらえた写真。金属のような不気味な砂の質感にぞっとします。 

 白状してしまえば,沖縄や原爆の傷痕をとらえた写真は私には荷が重く,「家」の連作やこうした漂着物などの「絵画的」な写真の方が好きだったのだけれど,そうした区別そのものは重要ではなかったことにようやく気付く。図録や写真集を見ながら,そして深い哀悼の意のこもった追悼文を繰り返し読みながら,合掌。

2013-01-16

2013年1月,東京本郷,東京大学弥生講堂アネックス

  東京大学弥生キャンパス内にある,弥生講堂アネックスを見学させていただく機会がありました。河野泰治アトリエ設計,2008年竣工の建物です。(一般に公開はされていません。)

 加賀藩上屋敷跡である本郷キャンパスに隣接する弥生キャンパスは,水戸藩の中屋敷跡。農学部正門からキャンパスに入って左手,前日に降った雪が残る中,木の美しい建物が見えます。建物は「セイホクギャラリー」と「エンゼル研究棟」から構成されていて,これは本郷通り沿いに位置するセイホクギャラリーの部分の遠景。
 
  ギャラリーは一辺が約7メートルの「シェル」が8個並んだ形状で,屋根は緩やかな曲線になっています。銅板葺の屋根はいずれ緑青に覆われて表情を変えていきそう。

 建物の内側からそのシェルがつながっている様子を見上げる。仕上材にはスギが使われていて,木の香りがとても心地よく感じます。ギャラリーはシンポジウムなどに使われているそうですが,教会のような雰囲気もあります。 
  何気なく見過ごしてしまいそうな階段の足元。滑り止めに使われているのは,蹄鉄に用いるビスなのだそう。「魂は細部に宿る」はドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉。(「神は細部に宿る」とも。)
 
 エンゼル研究棟の講義室の天井。ヒノキの香りと,やわらかな照明に癒されます。こんな教室で講義を受けられる学生さんがうらやましい。
  研究棟のテラスから,庇部分の開口部を見上げる。東京の冬の空。
 
 周囲の「内田ゴシック」様式の建物との調和も配慮されているというこの建物,木造建築の美しさにほれぼれしました。美術館やギャラリーで見る建築の展覧会は,図面,模型,写真,CG映像など,さまざまなメディアから一つの造形物を見ることができてとても楽しいですが,実際の建物を見る,体感するというのもとてもexciting!です。
 
 かなり前に読んだ本ですが,建築まったく初心者でも読みやすかったのが「日本の近代建築(上・下)」(藤森照信著,岩波新書),神保町で見つけて面白くページをめくったのが「建築思潮1 未踏の世紀末」(学芸出版社,1992)。(あれ,20年も前の本!)

2013-01-13

読んだ本,「書とはどういう芸術か」/「選りぬき一日一書」(石川九楊)

 白隠の書に感激して,石川九楊の「書とはどういう芸術か 筆触の美学」(中公新書 1994)を書棚から引っ張り出す。書といえば中国の書にばかり目が向いてしまい,日本の書に関しては不勉強で恥ずかしい。

 第三章「書は言葉の芸術である」では「漢字文化圏においては,文字は言葉の構造に内在的である」,「漢字文化圏では,書くという表現は文化の中枢に位置する」という論考に導かれ,書という芸術について理解を深めていくことになります。

 白隠展の会場で何気なく見ていた「墨蹟」という語の定義については,「『墨蹟』は,中国から輸入した書の『くずし』である唐様の書の,禅僧によるよりいっそうの『くずし』。『くずし』の二乗である。(略)江戸時代ともなると,『墨蹟』をさらに『くずし』たような白隠のず太い書や,慈雲のかすれの極を行くような書に行きつく」(p.146より引用)とあり,白隠の書の歴史的な位置づけがわかって目から鱗が落ちる思い。


 このあとに続く「白紙」や「余白」に関する論考もとても興味深く読みました。同じ著者の「選りぬき一日一書」(新潮文庫  2010)は,一日に一頁を当てて,中国や日本の文献から一字を選んで解説を加えたもの。白隠の「暫」を取り上げた日もあります。これは白隠展で見た「暫時不在 如同死人」の一字です。

 解説には「黒く塗り込められた字画の隙間に,僅か余白がのぞく。だが,よく見ると第一画は極端に太いが,第四画や第十四画は逆に細く,全体は不定。これは修行の果てに禅僧が距離感を相対化=失調した姿」(p.353より引用)とあります。最後の一文が謎めいていて,難しい宿題を与えられたよう。

2013-01-09

2013年1月,東京渋谷,「白隠」展

 渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムで2月24日まで開催中の「白隠展」を見てきました。副タイトルは「禅画にこめたメッセージ」とあります。新年の華やかさをまとうシブヤの街でさて,江戸時代に生きた禅僧から何を受け取るのか。
 
 会場の中心は,達磨図ばかりを並べた六角形の部屋。ぐるりと囲まれると圧巻です。縦2メートル近くあるという「半身達磨」(萬壽寺蔵)は通称「朱達磨」。墨で真っ黒に塗りつぶされた背景に,朱の衣の達磨がぐいっと浮かび上がる。賛の「直指人心 見性成仏」は「自分の心にこそ仏が宿り,それを自覚することで仏になる」という意味だそう(解説パンフより)。画像などで見るよりも鮮やかな色に驚く。
 
 この日は展覧会監修の山下裕二氏から,白隠の魅力について数々の興味深い話を聞くこともできました。展覧会の構想は12年前に海外のコレクション展であるZENGA展が開催された時から始まったということ。そこから,鈴木大拙らによる海外への禅の紹介と受容の話,ジョン・レノンも白隠を所有していて「イマジン」の歌詞にも影響を与えたという話などなど,興味が尽きない。
 
 白隠は生涯で1万点近い書画を残しており,まさに命がけで描くことによって仏の教えを人心に伝えようという生き方を貫いたということ。今回の展覧会は日本各地の40数か所の所蔵者から厳選された100余点が展示されています。色っぽい観音さまやユーモアたっぷりの布袋さまなどにも目を奪われますが,丁寧な解説キャプションに助けられて賛の意味がわかると,時空を超えて白隠禅師から説法を受けている気分になります。
(主催者の許可を得て撮影しています)
 
  墨蹟のコーナーもストレートにメッセージが伝わってきます。「暫時不在 如同死人」は巌頭和尚(唐時代の僧)の言葉。「一瞬たりとも心理を追及する心がお留守になれば,死人も同然である」(キャプションより)。数百年前に生きた一人の禅僧が,たっぷりと墨をふくませた筆で,仏の教えそのものを今ここに表現しているという事実に背筋が伸びる思い。

2013-01-06

2013年1月,東京丸の内,「シャルダン展‐静寂の巨匠」

 レンガ造りの三菱一号館美術館では,いつもその佇まいによく映える展覧会が開かれます。今年最初の展覧会はシャルダンを見に行きました。会期終了間際で,展示室はちょっとした混雑状態。

 ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)の作品は世界中の美術館や個人コレクションに私蔵されているため,回顧展の開催は困難と言われているそうで(展覧会チラシより),画像などでも見たことがない作品ばかり。

 こういう絵を「静物画」というのだな,と思わずその静かな世界に惹きこまれる。シャルダンの影響を受けた画家たちのコーナーにはミレーやセザンヌなども。オディロン・ルドンの「グラン・ブーケ」は以前の展覧会を見逃していたので,とても嬉しい。点数は少ないものの(シャルダン作品は38点),満ち足りた気分に浸って美術館を後にしました。

 年が明けて面白そうな展覧会も目白押しです。近い内に,東京国立博物館東洋館リニューアル,松本竣介展(世田谷美術館),北井一夫展(東京都写真美術館)などはぜひ足を運ぶつもり。

2013年1月,東京初台,「音のいない世界で」

  冷たい風の吹く午後,新国立劇場の小劇場で「音のいない世界で」(長塚圭史作・演出)を見ました。
 

 物語は,大切なカバンを二人組の泥棒に盗まれたことで「音」を失った貧しい女性・セイが,そのカバンを取り戻す旅に出ます。そしてセイがいなくなったことでやはり「音」を失った夫も妻を追って旅に出るのですが,二人は無事に会えるのか,カバンを取り戻すことはできるのか。

 夫婦役は松たか子と首藤康之,他の出演は近藤良平と長塚圭史。長塚圭史の紡ぐ物語は,品がよく,寓意に満ちた静謐な世界です。近藤良平と首藤康之の身体表現は鮮やかで軽やかですが,舞踊劇ではありません。

 「こどもも大人も楽しめる不思議な一夜のものがたり」(公演チラシより引用)とあるわりには,大人にとっても(私だけかも)難解な物語でした。カバンの中身は「音」そのものなのか,世界から消えた「音」とは何を意味するのか,カバンを盗んだ兄弟とは結局何者だったのか?「何も見えない自分は存在しないも同じ」と嘆く,音のいない世界の盲目の店主の台詞も観念的で,難しい。会場には子どもさんの姿もチラホラ見えましたが,このものがたりを楽しめたでしょうか。

 松たか子の舞台は初めて見ましたが,華やかで,透明な声がとても綺麗。ラストの美しい夜明けにはほっとしましたが,新年の贈り物は私にとってちょっと重たいものでした。 

2013-01-02

番外編, 謹賀新年

 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 アレクサンドラパレス・アンティークフェアで買ってきたもの。ジョージアンのワイングラス。J.PRYERの小瓶。