2019-05-31

2019年5月,東京上野ほか,展覧会の覚書

   5月の連休明けにたくさん展覧会に出かけました。忘備録として。まずは国立新美術館で「トルコ至宝展」を。この間,都美術館でもやってたよな,と思って図録を探したら,2007年の開催でした。一回り経ってるって。。今回も度肝を抜かれる大きさのエメラルドとか,2007年の開催時に絵葉書を買ったチューリップ柄のカフタンとか,好みのものがたくさんで眼福でした。
 
 チューリップはトルコ語でラーレ,アラビア文字のラーレの配列を変えると「アッラー」になる! というのは今回初めて知った蘊蓄でした。トプカプ宮殿付属図書館の美しい蔵書の展示もとてもよかった。会場内のビデオで「旋回舞踊」を見る。
 
 上野では久しぶりに西洋美術館で「ル・コルビュジェ 絵画から建築へ」展を。この場所で見ることができるという悦びを味わう。でも,それ以上ではなかったかも。某新聞の展覧会評では「ル・コルビュジェがいなくては建築史は成立しない。しかし美術史はル・コルビュジェがいなくても成立する」みたいな趣旨のことが書いてあった。その通りだと思いました。同時代の作家たちの展示を見て,フェルナン・レジェがこんなに「強い」作家だったのか,と感動。

   同じく上野で都美術館の「クリムト展」を。混雑した会場で,神秘的で官能的,というコピーそのままの作品群に圧倒されて脳みそがかなり疲弊してきました。ウィーンの分離派会館の壁画の精巧な複製の再現展示という「ベートーヴェン・フリーズ」がよかった。必死に覚えて歌った第九の歌詞を必死に思い出しながら,最後の抱擁の場面を見る。

  かなり困難を伴う(?)切り替えが必要だったけど,勢いでそのまま東京国立博物館の「東寺展」で仏像曼荼羅の展示を見ました。こちらも大混雑。それにしても,と思うのは,こんなにたくさん展示してるということは,東寺講堂は今空っぽ?工事中とか??いいんですか?!ということだったかも。  
 東博本館では「美を紡ぐ 日本美術の名品展」も。東博オールスターみたいな展示。狩野永徳のパワー全開みたいな唐獅子や檜図を見た後,雪舟の水墨画でほっと一息,みたいな贅沢な時間でした。若冲の「棕櫚」図が印象的。

読んだ本,「光の指で触れよ」(池澤夏樹)

  池澤夏樹の「光の指で触れよ」(中公文庫 2011)を読了。2005~2006年に新聞に連載された小説である。文庫解説によると,新聞連載時には挿絵ではなく写真が挿入されていたらしい。文庫本にも著者による写真が数カット挿入されている。
  文庫本で630頁,一気に読み終える面白さだったけれど,幼い娘を連れたアユミの行動や心情は,いかにも男性作家の脳内で紡がれたもの,という気がしないでもない。トーマスとの愛のない行為の場面も,不可思議だった。私が世間の常識にとらわれているのだろうか。そこから自由になれ,とこの小説は言っているのだろうか。

 トーマスがアユミに言う。「欲しいと思うものがあった時,それが本当に欲しいのかどうか,よく考えるんだ。何かが欲しいという気持ちは言わば亡霊だよ。ぼくたちの前にはいろいろな亡霊が登場する。その一人ずつとじっくり話し合うと,たいていの亡霊は退場する。そして,本物だけがこちらの腕の中に飛び込んでくる。本当に必要という点を見極める力が強くなると,欲しいものを引き寄せる力に変わる。人の精神にはそういう機能が備わっているんだ」(p.386)

2019-05-19

読んだ本,「島とクジラと女をめぐる断片」(アントニオ・タブッキ)

  タブッキの「島とクジラと女をめぐる断片」(須賀敦子訳 河出文庫 2018)を読了。タブッキにしては珍しくフェルナンド・ペソアの影が感じられない。小説のような,詩集のような,まさに断片集なのだが,地図や補注なども含めて,1冊の美しいまとまりとしての小さな本。文庫本の表紙カバーの写真は,ジャック・アンリ・ラルティーグのカラー写真! これ以上の1枚が存在するものだろうか。

 ゆっくりと読み進め,終章の「ピム港の女」にそれまでのすべてが流れ込んでいくような,まるでうねりのような読書の快感を味わう。「あたしの名は,イェボラス。」と女が言う。

 「あんた,人を裏切るって,どういうことが知ってるかい。裏切るっていうのはな,ほんとうの裏切りというものはだな,もうはずかしくて,じぶん以外の人間になってしまいたい,そういうことだ。親父に挨拶に行ったとき,おれは自分がほかの人間であればいいと思った」(p.120より)

 裏切りの意味を知る男が,大切な人を裏切り,そして愛する人に裏切られたとき,港で何が起きたか。クジラを殺す道具は何を殺したか。読者は息を呑んで,そこに立ち会い,そして言葉を失う。打ちのめされたように,港に一人,置き去りにされる。 

2019-05-11

2019年4月,京都,東寺弘法市・高麗美術館・寺町界隈

  京都最終日は早起きして東寺弘法市へ出かけました。すてきなお茶碗と,古布を購入。宝物館では「東寺文書をまもり伝える かたちと保存」展も。市の混雑とは別世界です。静かに古文書や宝物を眺める。東博で開催中の東寺展も見に行きたい。 
 
  さて,この後どうしようかと思案です。ちょうど京都グラフィエが開催中だったのですが,いたるところで見かけるアルバート・ワトソンの撮影した坂本龍一の写真(1989)がどうにもピンとこなくて(坂本龍一は大好きなんだけど),一番見たかったアルフレート・エールハルトも祇園の両足院で開催中だし(祇園の人込みを考えると。。),結局パスしてしまいました。
 
  で,向かったのはいつもの高麗美術館です。いやあ,いつ行っても間違いない! 「朝鮮王朝末期の輝き 語り継ぐ朝鮮の美」展は修復を終えた華角の箪笥が圧巻。東洋陶磁美術館とも一味ちがう青花の山水文壺など,堪能しました。この季節に来るのは珍しいかな。新緑をバックに。

 さて,夕刻までのひとときは寺町界隈で買い物など。久しぶりに三月書房をのぞいて,エドガー・アラン・ポーの詩集「大鴉」を見つけて購入。大満足の2泊3日の旅でした。

2019年4月,滋賀信楽,「大徳寺龍光院 曜変天目と破草鞋」展

  京都から石山駅へは15分くらい。石山駅前から目指すMIHO MUSEUMへは直行バスで約1時間。大徳寺の曜変天目が展示されるとあって,「大徳寺龍光院 曜変天目と破草鞋」展会期中は大混雑のよう。私がでかけた4月下旬,駅にはバスを待つ長蛇の列が。臨時便に乗って,山の中の美術館にたどり着きました。
  おお,これが。とは思いましたが,自ら「桃源郷」というのはいかがなものか。熱海のMOA美術館に雰囲気がそっくりです。ちょうど枝垂桜が見頃の時期で,トンネル内部には桜並木を撮影する人垣ができてました。だれもがカメラマン気分。
 
 さて,肝心の展覧会は,やはり曜変天目に尽きる,というか。なんとなく,三碗制覇のためにやってきました的な気分もどこかにあったのですが,実物を眼の前にすると,とにかくその美しさにぐうの音も出ません。
 
 静嘉堂と藤田美術館のどちらにも似ていない。古色というか,400年存在してきたという強さというか。ずっと禅寺に守り抜かれてきた高貴さというか。財界人の手の間を渡り歩いてきたという,どこか生々しい感じがないわけです。
 
 例によって立ち止まらずにケースの周りをぐるっと回っておしまいでしたが,その後,人垣越しにしばらく眺めて大満足。
 
 さて,この日は幸運にも大徳寺龍光院の小堀月浦和尚様による座禅の会が開催されるとのこと。ちなみにこの展覧会題字は和尚様の直筆だそう。 
 座禅の会は参加してよかったな。和尚さま曰く,「あのお茶碗をたくさんの人に見てもらえるのは大切なこと。でもあれは石に落とせば割れます。火に焼かれても割れます。それよりもこの座禅を通して仏の教えを大切に持ち帰ってください」(みたいなことを仰いました。うろ覚えです。ご容赦を)。
 
 つまりはあのお茶碗は仏の教えを知るための道具ってことなのかな。そういえばこの展覧会の英語タイトルは”Living in Zen and the Daitokuji Ryokoin Heritage”です。あらためて,禅と茶道のことを少し読んでみよう,と思いつつ,美しい桜を再び眺めながら京都への帰路についたのでした。 

2019年4月,大阪・京都,「文房四宝」展・「一遍聖絵と時宗の名宝」展

  連休中に整理できなかった4月の関西ショートトリップのことを忘備録として。まずは大阪伊丹空港から淀屋橋に向かって,東洋陶磁美術館で「文房四宝」展を楽しみました。中国文人の愛した筆・墨・硯・紙の名品をコンパクトに見ることができて,感激。
  台北故宮でたくさん見たけれども,こうやってぎゅっと濃縮(?)された銘品ばかりを見ると,文人たちの「眼の基準」みたいなものがわかりやすく伝わってきて,テンションが上がります。
 
 展覧会のイメージにもなってる具利文の筆。大好きなグリモンが筆にも!っていうわけで,思わず自分も文人気分で書斎に1本欲しくなりました(←欲しいと言うのは自由よね。。)もう1つ印象的だったのが「金星四直硯(きんせいしちょくけん)」。今回の旅の目的が大徳院の曜変天目だったので,この硯に浮かぶ星のきらめきに思わず拍手。
 この美術館の常設は本当に素敵です。鼻煙壺コレクションの中に,私の愛蔵(?)する漆製のものとよく似たのを発見してこれまた拍手。そしてとても珍しい高麗青磁にびっくり。こんな青磁,韓国の博物館にもあったっけ?と頭の中ははてなマークでびっしり。説明文にも「高麗陶磁の中でも類例が少ない」と書いてあって,いやあ,珍しいものを見ました。

 
 東洋陶磁美術館のカフェでゆっくりバラのアイスクリームなど頂いて,京都へ向かいました。思い切って奈良へ向かって奈良博の藤田美術館展も見てしまおうかと思ったけれど,あまりに強行軍になりそうなので(トシと体力を考えないと。。),この日は夜間開館の京都国立博物館で「国宝 一遍聖絵と時宗の名宝展」をゆっくり眺めておしまい。一遍聖絵12巻の一挙公開は圧巻の迫力でした。


2019-05-06

2019年5月,東京恵比寿,「写真の起源 英国」展

  連休中は結局はほとんど家にいて,仕事をしたり雑事を片づけたり。あれこれ出かけようと考えていたけれども,混雑や疲労を思うと,まあ連休明けでいっか。となってしまった。どうしてもこれだけは,と5月6日まで東京都写真美術館で開催の「写真の起源 英国」展には足を運んだ。見逃さなくて本当によかった,という展覧会だった。
 
   「写真のルーツに迫る日本初の英国初期写真展」と銘打たれ,会場入り口では手荷物検査! 大英図書館やV&Aなどなど,所蔵者を見ているだけでもわくわくしてくる。綺羅星のごとくのあまたの写真の中で,どうしても見たかったいくつかを。
 
 まずはタルボットの「自然の鉛筆」のオリジナル。写真集そのものだけでなく,銀製ネガ原版と単塩紙プリントが並ぶ。フレームに布のカバーがカーテンのようにかけてあって,そうーっとめくって見る。
 
 アンナ・アトキンスのサイアノタイプ「ギンシダ、ジャマイカ」。おおお。と感激したものの,これは東京都写真美術館の所蔵だった。見たことあるやつだ。でもこの「青」にやられる。ミュージアムショップで写真集Sun Gardensの復刻版を発見。
 
 そして展覧会のイメージになっているカバの写真。これはファン・ドウ・モンテゾン伯爵の「リージェンツ・パーク動物園のカバ」(1852)だが,これを見たとき堀江敏幸の「おぱらばん」を思い出した。所収の短編「留守番電話の詩人」は,無類の河馬好きのフランス人作家ヴァレリー・ラルボーに影響を受けて,カバの絵葉書を探す話。中でも作家がロンドン在住時に気に入っていたのがロンドン動物園のカバで…と展開するストーリーはやがて,一人の老詩人へと行きつく。堀江敏幸らしい,美しい掌編である。
 
 リージェンツ・パークのカバはこの掌編とは関係はないわけだけれど,「訪れる者を否応なく内省に誘う彼らの容貌」(p.65より)と,それをのぞき込む観客たち(まさに内省の時を過ごしている?)の姿をじっと眺めてしまう。
 
 さて,もう1点,ロジャー・フェントンの「死の影の谷」(1855)のオリジナル(V&A所蔵)も以前どこかで見たことがある気がするが,改めておお,これが。という感激にひたる。以前,多摩美の社会人講座で写真史を受講した際に,詳しく解説してもらったことを思い出し,かなり昔のノートをひっくり返して探し出した。
 
 この作品はロジャー・フェントン自身がクリミア戦争に従軍した際に撮影したもの。オリエントという自分たちの外の場所で起こった戦争の記録であり,「死の影の谷」とは聖書の一節だという。そしてこの写真は英国のアートマガジンに掲載された「芸術的な戦争写真」なのだ,という指摘が強烈な印象だった。「写真=起こった出来事を自らのテキストで解釈する素材となった」とノートに走り書きしている。講師の話をどこまで理解できていたのか,1枚の写真を前にして過去の自分に向き合うことにもなった。 

2019-05-01

2019年5月,新しい時代の始まり,アマリリスの開花

  「れいわ」と聞いたとき,なんとなく冷たい響きだな,と感じてしまった。Rの音からイメージする「零」とか「冷」とか,耳にひんやりと響く気がする。しかし,すっかり祝祭気分に包まれたこの一両日,人はみな明日を信じて生きていけるのだと,明るい心持ちになってきた。

 昨年末にオランダ産の球根を入手して,大切に開花を待っていたアマリリス。新しい時代の幕開けにふさわしい清廉な美しさに満ちている。
  今朝(5月1日)の朝日新聞に,古井由吉が論考を寄せている。淡々と来し方を振り返り,最後は「平成は尽きようとしている」という一文で締めくくられる。この一文を「平成という時代が終わる」という文に同義変換することはできないだろう。

 時は「尽きる」ものなのだ。人にとって,産まれ落ちたときに与えられた時間はそれぞれの人生の「持ち時間」のようなものなのだろう。とっくに折り返し点を過ぎて,動く歩道がどこへ向かっているのか,それが私の目的地なのか,日々,考え続けている。