2017-04-29

2017年4月,東京都写真美術館,3つの写真展

  東京都写真美術館で写真展を3つ観る。それぞれ,じっくり時間をかけて見るべきだったけれど,時間の制約があって一気に見てしまった。3つのフロアの展示はそれぞれ写真の数も多くて,脳内の「考える」経路はすべて「見る」ことに費やされた感じ。感想というよりも,残像しか思い浮かばない。カメラも持たずに行ったので(撮影可のスペースも多かったので,残念),君子蘭をモノクロームで撮った写真をアップ。山崎博の花の写真へのオマージュでもあります。僭越ながら。
  「山崎博 計画と偶然」展は「水平線採集」の展示に圧倒される。フレームのセンターに水平線がくることをルールと課したイメージの並列は,とてもプリミティブでとても知的。「水平線」は「可視の不在」みたいなことが説明文に書いてあって,ちゃんとメモしてくればよかった。桜を逆光やフォトグラムで撮影した「櫻-EQUIVALENT」にも感動。「桜」から「物語」を排除しようとしたそれらの写真は,やはり世界は未完のテクストだということを示しているのだろうか。

 「長倉洋海の眼」展は世界が未知のテクストであふれていることを私に突きつけてくる写真に圧倒される。「内戦,難民,貧困,差別…。どんな環境下にあっても,たくましく懸命に生きる人々,そして子どもたち」(チラシより)。写真家が被写体に向ける眼差しに共通しているのは,「愛」という言葉で括ってしまってよいのだろうか。チベットの少年。ペルーの老婆。難民キャンプの少女。

 最後に「日本写真開拓史」展。これは総集編なので,ほぼ全体を通して既視感を抱きながら見る。だから,というわけではないが,驚いたのは上野彦馬の一連の写真が,あれ,こんなに小さかったっけ?ということ。写真を立てた展示方法も前にも見たことがある。初期写真のモノとしての魅力が満載の展覧会。と同時に,担当者の執念みたいなものがちょっと重たい展覧会。

2017-04-23

2017年4月,君子蘭の開花

  日々の心配事はよそに,今年も美しく開花した君子蘭。大切に育てているものが花開くのは,とてもとても嬉しいものです。

2017年4月,東京銀座,メイプルソープ写真展Memento Mori/読んだ本「写真の誘惑」(多木浩二)

  京都国際写真祭のHPを見ていたら,メイプルソープのチューリップの写真がアップされていて,おや,と思ったところ,銀座のシャネルネクサスで開催された「Memento Mori」展が京都に巡回するということでした。
  4月9日まで開催されていたシャネルの会場は,ピーター・マリーノの設計であって,この展覧会のメイプルソープの写真はすべて彼のプライベートコレクションなのだそう。会場で配られるパンフレットの紹介文(シャネル社社長の手による)は,この会場のことを「胎内」という言葉で紹介していて,なるほどと思う一方,メイプルソープの写真を胎児に喩えることなどできるものだろうか,などとも思ってしまう。

 コレクションはWHITE GALLERYとBLACK GALLERYに配置され,どの写真も既知のイメージばかりではあるものの,やはりその不穏な空気をまとった存在として,見ていて心音が高くなってきます。そして,タイトルの通り,私は銀座のこの美しい建物の中でずっと「死」を思っていたのでした。

 現在進行形で身近な人の老いと,病と,そして遠からぬであろう死に直面していて,ついセンチメンタルな感情が溢れてしまうのだけれど,冷静に立ち止まって1冊の本をゆっくりと繙いてみることにしました。

 「写真の誘惑」(多木浩二著 岩波書店,1990)は随分前に購入した本。自分の中でメイプルソープが第一次(?)ブームだったころ。今展には展示はなかったけれど,例の(と言ってしまおう)髑髏を手にした死の直前の自画像写真についての150余頁の考察です。一読して手に負えず,ずっと書棚に眠っていました。

 イメージとは,レフェランとは,と立ち止まりながら読み進める。「自己の死」がキーワードであり,どこかの一節を引用してみようと思うものの,それは不可能だとも思えてくる。

 「メイプルソープの写真がなんらかの思考をかきたてるものであるのは,たんに死の問題であるより,その写真では,人間が写真をつくるというより,写真が人間(というイメージ)を生みだすようになってしまうからかもしれない。そこには,人間に属さない視線が含まれており,比喩的に純粋な視線といいたくなるようなものがあらわれているように思える。その視線でしかメープルソープは自己の死が言説化されないことを知っていたかのようである」(pp.73-73)

 そして,著者の思考が辿り着いた最後の章のタイトルは「未完のテクスト」。「メープルソープの写真では死についての物語が消滅したのだ。それが現代の死の相貌なのである。だが,このメープルソープの写真は,写真というもののひとつの極限なのだ。(略)メープルソープが写真によって結局なにを伝えようとしたかも,不明のままにおわるのだ。しかもその空虚がこの写真の不気味な魅力なのだ。(略)メープルソープの写真は,それ自体が未完のテクストであると同時に,世界を未完のテクストの状態で発見することを促すのである」(pp151-152) 

2017-04-09

2017年4月,東京押上,たばこと塩の博物館 常設展示室

  たばこと塩の博物館の3階には「たばこの歴史と文化」という常設展示室があって,これがとても楽しい。世界の喫煙具のコーナーで,チベットとモンゴルの鼻煙壷に釘付けに。おお,私がボロ市で買ったチベットの鼻煙壷にそっくりではないの!お土産品みたいなものかと疑ってごめんなさい(何に対してだ??)。びっくりしたので写真はボケました。首から下げるタイプは,このままアクセサリとして使いたいくらい。 

  押上から渋谷へ向かう途中,清澄白河で降りてちょっとお花見気分を味わう。雨は上がっていました。清澄白河はおしゃれな観光地と化していて,TEAPONDでフルーツティーを,北欧の毛糸を扱う店では編み物の本を購入。編めないけど,見て楽しむのである。

2017年4月,東京押上,西アジア遊牧民の染織展

 桜満開の週末,無情にも冷たい雨と風が吹き荒れました。初めて降りる押上の駅。スカイツリーには興味がなくて,地下鉄駅を出た途端に眼に飛び込んできたその姿にびっくり仰天。そうだった,押上はスカイツリー駅でもあったんだ。このお天気なので,この姿。人間がこんな高さのものを作ってよいのだろうか,と思わずにいられない。
 
 渋谷にあったたばこと塩の博物館がここ押上に移転したのは2015年4月ということ。魅力的な特別展があってもアクセスが不便でしたが,今回の「西アジア遊牧民の染織 塩袋と旅するじゅうたん」展は見逃せない。で,展覧会はもちろんのこと,たばこと塩の常設展示も広く快適なスペースでした。
 特別展の丸山コレクションは,渋谷で2008年に開催された「西アジア遊牧民の染織 塩袋・生活用袋物とキリム」展の続編的な展示。この展覧会で「塩袋」なるものの実用性と装飾性がとても面白かった記憶があったのですが,それにしても9年も前の展覧会。ついこないだ渋谷にでかけた気がするんだけど。。これはそのときの図録。
 今回はタイトル通り,各地の絨毯やキリムの展示がメイン。入口の西アジアの地図や,それぞれの作品のキャプションの民族名を見ながら,この美しい絨毯を織った人々の暮らしに思いを巡らす。シリアの化学兵器で亡くなった幼子を抱き締める若い父親の写真を朝刊で見たばかり。BGMの砂漠の民の物悲しい旋律を聴いて,美しい絨毯の前でちょっと涙腺がゆるむ。

2017-04-01

2017年3月,東京六本木,ミュシャ展

  国立新美術館で開催中のミュシャ展を見てきました。プラハといえば,大好きな日本画家の山本直彰さんが滞在してドアのシリーズを描いたところ,というのがまっさきに浮かんでしまう。どうにも,何を見ても自分の経験が思考の土台になってしまうのは,歳をとった証拠なんだろうか。。写真はスカイデッキから。カメラはコンデジです。
 
 それはさておき,このミュシャ展は「スラヴ叙事詩Slav Epic」全20作が国外初公開されているのですが,本国でも作品は長く国民から忘れ去られ,プラハ市に里帰りしたのは2012年のことなのだそう。
 
 確かに,などと知ったかぶりをするつもりはないけれど,大画面の歴史主義的なこの連作よりも,パリ時代の美しい装飾的なポスターの展示のコーナーの方が私にはずっと魅力的に思えます。写真撮影可の展示室はほとんど撮影会場と化しています。
 ただ,展覧会の前日に見たテレビ番組で,ミュシャはこの叙事詩のシリーズの製作にあたり,農民たちに衣裳をつけさせてポーズをとらせ,写真を撮ってそれをもとに描いていた,と紹介されていたのが印象的でした。弱き人の姿ばかりでなく,魂もまたミュシャののぞいたファインダー越しにフィルムに定着したのだろう。
 
  ちょうどこのタイミングで,京都の古書店Books & ThingsのHPでミュシャが撮影した写真集ALPHONSE MUCHA PHOTOGRAPHS / Graham Ovenden(1974,London)が紹介されてるのを発見して興味シンシン。京都国際写真祭が間もなく始まるし,久しぶりに春の京都に行きたくなってきました。と,かなり脱線。

2017年3月,東京初台,「ベートーヴェン・ソナタ」

  少し前のことです。初台の新国立劇場中劇場で中村恩恵振付の新国立劇場バレエ団の「ベートーヴェン・ソナタ」の3月18日の舞台を見ました。出演の首藤康之の名前に惹かれてチケットを購入。あっという間に完売だったらしい。バレエ団の豪華キャストが勢ぞろい,という公演だったようで,首藤のミーハーファンはかなりの少数派だったかもしれない。
  その首藤と福岡雄大が「ルートヴィヒ」と「ベートーヴェン」を演じます。一人の人間の裏と表という単純な構図ではないようです。中村恩恵のインタビュー記事によれば,ベートーヴェンが日記で自分のことを「わたし」ではなく「お前」と呼び,「お前は人間であってはならない」と強い言い方をしていることに惹かれたのが着想の元らしい。

 舞台は二幕構成で第1幕は白,第2幕は黒が基調の衣裳で,音楽は冒頭のモーツァルトのレクイエム以外はすべてベートーヴェンです。プログラムを購入しなかったのがいけないのか,登場人物の関係やベートーヴェンの人生についてごく常識的な知識しかなく,物語を楽しむのは難しかった。単純にベートーヴェンの音楽と,美しい身体表現を楽しんだというのが正直なところ。

 そういう意味で第1幕2場の月光ソナタは本当に美しかった。首藤のデュエットの相手は中村恩恵しか考えられなったけれど,ジュリエッタを演じた米沢唯というダンサーの存在を知ることができたのは至福でした。

 ところで,首藤がベートーヴェンを踊るというので,おお,イメージにぴったり!と思ったのだけれど,ハムレットのときに坊主頭だったのでちょっといやな予感がしたのが的中。伸ばしかけなのか,ストレートの短髪がベートーヴェンのイメージにはちょっと違和感あったかも。また伸ばしてほしいなあ,とミーハー度全開で帰路についたのでした。 

2017年3月,東京青山,「高麗仏画」展

 根津美術館で開催されていた「高麗仏画 香りたつ装飾美」展を見てきました。大好きな京都の高麗美術館でも仏画をまとめて見た記憶はありません。高麗仏画は世界で百六十数点が確認されていて,そのうち日本に100点以上があるということ。今展は26点が展示されていました。
  「香りたつ装飾美」という文字通り,まさに優美にして格調の高い仏画を前にして,今まで見たことがないという驚きと悦びに満たされました。チラシにも採用されている阿弥陀三尊像の薄く白いヴェールは,細い線で編み目が描かれているもの。(後年書き込まれたという説もあるらしい)

 図録の解説によれば,「高麗仏画は,例外はあるが,寺刹の礼拝用というより,王室や貴族の願堂といったきわめて制限された空間において,特定の人のために奉安したものであると推測される。(略)高麗後期の祈福仏教化が信仰の個別化をもたらしたことは,現存する高麗仏画が阿弥陀如来,観音菩薩,地蔵菩薩に関連する絵画で大部分を占めることで立証される」(p.16より引用)とのこと。

 この美しい仏様の姿に,親密に大切に,一人の人が向き合っていたのか。信仰の対象は「仏教」であり「美」でもあったのでは,とそんなことを思いながら,美しい装飾経典や経箱,高麗青磁の逸品なども楽しんだのでした。

 ところで,経典の解説にあった「高麗八万大蔵経」が今も保存されているという海印寺(ヘインサ)は,2016年3月にソウルで訪れたリウムの展覧会で映像を見て感激した寺院。ああ,行ってみたい!