2020-11-23

2020年11月,東京新宿・恵比寿,石元泰博写真展

 今年は石元泰博の生誕100年なのだそう。オペラシティアートギャラリーと写真美術館で開催されている大規模な回顧展にでかけてきました(写真美術館は23日まで)。上の写真はオペラシティの会場の様子。1階と2階の両方を使った展示は見ごたえマックスです。

 私の手元に1998年に写真美術館で開催された「石元泰博展-シカゴ,東京」の図録があります。記憶が定かではないのですが,付箋を貼ったページがあって,なぜこの写真が気になったのだったか,それがずっと気になっていたのです。20年以上前の自分に会いに行くような心持ちで展覧会にでかけました。

 木の根元に一人の少女がいる。後ろを振り向く瞬間の大人びた表情が物憂げで,どきっとする。そしてよく見ると,その華奢な手首に巻きついたロープは大木に結び付けられている。何か不穏な空気を感じながら,目を背けることができない。

 「シカゴ シカゴ」に所収のこのカット,今回はオペラシティアートギャラリーで見ることができます。今回の展示図録を見てもこのカットの状況を説明するような文章はありません。どうしても気になって,1998年展覧会当時の展覧会評がないか,某新聞のDBを検索してみました。

 そして,この展覧会ではなく,米シカゴ美術館で開催されたA Tale of Two Cities展(1999)の展覧会評を見つけました。「50年目のモダニズム 石元泰博「二つの都市の物語」展:上」(1999/06/01朝日新聞夕刊)によれば,このカットは「手をひもでゆわえた少女がカウボーイごっこをしている初期の代表作」なのだそう!カウボーイごっこ!

 ああ,そうだったのか,よかった,と思わず拍子抜けのような,安堵のような言葉が脳裏に浮かぶ。このカットは「ファミリー・オブ・マン」展(MOMA 1955)にも出品されていたのだそうで,そうだったのか!の連続です。

 というわけで,展覧会の感想というより,自分の宿題の答え合わせみたいな話でした。それは置いておくとして,石元泰博の写真は「スタイリッシュ」という気恥しい形容詞がぴったりのかっこよさ。オペラシティは桂離宮と曼荼羅の充実した展示,写真美術館ではカラーの多重露光の斬新さにしびれます。来年度の高知の展覧会にも行きたくなってきました。

 なお,写真美術館では「琉球弧の写真」展も見る。山田實,比嘉康雄,平良孝七ら7名の作家たちの真摯な眼差し。平敷兼七の「火葬場 南大東」。

読んだ本,「象牛」(石井遊佳)

 「象牛」(石井遊佳 新潮社 2020)を読了。デビュー作「百年泥」があまりにツボだったので,第二作であるこの小説も期待度満点で読み始めた。

 表題作の「象牛」は南インドを舞台にした前作同様,インドで不可思議な物語が繰り広げられる。主な舞台はヴァーラナシー。今年2月にほんの1日滞在しただけなのに,あまりに強烈な経験が記憶としてよみがえる。

 およそありえない出来事と共に,「象牛」もあの街になら本当に存在するのではないかと思えてしまう。ガンジス河沿いのガートの名称を地図で確認しながら,小説の登場人物たちがあそこにいるのだ,と読み進める。

 ただ,インドの神々と性愛という小説のモチーフがどうにも読んでいて辛い。何か,無理やり「インドを描かねばならない」という強迫観念のようなものを感じてしまう。前作がインドを舞台に軽やかに仏教的世界を描いていたのに対して,重いのだ。「私」の愛も生き方も。

 少し戸惑いながら,併録の「星曝し」を読む。私にはこちらの方が面白かった。枚方をモデルにした「比攞哿駄」を舞台にして,死者と生者の境界の曖昧な物語が繰り広げられる。この小説でも川がこの世とあの世を隔て,「私」は七夕の夜に川ベりで煤に汚れた少年に出会う。「私」の少年への告白に読者である私は足をすくわれて,川の中に転がり落ちてしまう。そこはあの混沌としたガンジス河かもしれない。

 祖母のアパートで蚊取り線香に火をつける場面。「マッチ箱に手を入れて新しい一本を取り,しゅっ,ともう一度擦る。私は空いてる方の手を上げ,火をみつめながら,炎の熱のとどく境界の一線を指さきで薄闇になぞりだしてみる。恒星の引力の影響をうける運命的一線。惑星の崩壊するぎりぎりの生存の破線上を,漂うのだ,虚空に切り裂かれたマッチひと擦り分の光と熱のぎりぎり限界を人はさまよう,それが一生ということだ。」(p.168)

2020-11-20

2020年11月,東京新宿,「世界の藍」展

  文化学園服飾博物館で開催中の「世界の藍」展に行ってきました。入力すると「世界の愛」と変換されてしまった。何にしろ,幸せな気分になる展覧会でした。

 とにかく美しい,としか言いようがない深い深い藍色に染まった衣装や布が紹介されています。日本,アジア,アフリカや中米など約40か国の,それぞれの文化を写す色としての藍色。

 ベトナム サパの黒モン族の女性たちの衣装は,ほとんど黒に近い色。いつか行ってみたいベトナム山岳地帯の風景が目に浮かんでしまう。中国の鮮やかな文様は,数年前に下鴨神社の古本市で買ったINDIGO PRINTS OF CHINAのページを思い出して,うれしい。あの本をこの展覧会場にいる人たちに自慢したいなあ,などと一人にやにやしてしまう。
 会場には,服飾を学んでいるのか,和装の若い男性グループや,熱心にメモをとるおしゃれな雰囲気の学生さんたちがいっぱいでした。思わず気分が華やいできます。

読んだ本,「訴訟」(カフカ)


 光文社古典新訳文庫でカフカの「訴訟」(丘沢静也訳 2009)を読む。「審判」の新訳なのだが,「審判」を読んだのがもはやウン十年も前のことで,内容はおろかちゃんと読み通せたのかどうかも記憶が定かでない。

 なので,解説や訳者あとがきに記された「審判」との違いや,訳者の言うところの「負ける翻訳」の意味を味わうというよりは,カフカの未読の小説を読みやすい訳で楽しんだ,というところ。

 そして,ヨーゼフ・Kはなぜ逮捕されたのだろうか,この審理とは一体何なのか,わけのわからないまま,もやもやとした想いをかかえてヨーゼフ・Kの「終わり」を迎えるのだ。カフカの小説を読むときはいつもそうであるように。

 だが,この小説ではただ一つ,私自身にとって強く腑に落ちる場面に出くわした。「大聖堂で」の章。あっと思わず声を挙げそうになる。そうだ,短編「掟の門前」のモチーフは「審判」の中に出てくるんだった!

 「掟の門前」を短編集の中で読んだとき,大きな衝撃とともに私はこの話を知っている,と思ったのだ。どこかで読んだ,と。そうか,ちゃんと読んだかどうかも覚えていなかった「審判」の中で聖職者がヨーゼフに語っているのだ。そのことに気づいたという事実が,何よりもこの新訳文庫を読み終えた悦びだった。こんな読者がいてもカフカは許してくれるだろう。

 「…『どうして何年たっても,ここには,あたし以外,誰もやってこなかったんだ』。門番には男がすでに死にかかっていることがわかった。聞こえなくなっている耳に聞こえるように大声でどなった。『ここでは,ほかの誰も入場を許されなかった。この入口はお前専用だったからだ。さ,おれは行く。ここを閉めるぞ』」「門番は男をだましたわけだ」とKはすぐに言ったが,この物語に非常に強くひかれていた。「そんなに急ぐな」と,聖職者が言った。「他人の意見を鵜呑みにするものではない。お前には物語を,書かれてあるまま聞かせてやった。だましたなどとはどこにも書いてないぞ」。(pp.322-323)

2020-11-13

読んだ本,「族長の秋」(ガルシア・マルケス)

 「族長の秋」(G・ガルシア=マルケス著 鼓直訳 新潮社 2007)を読了。何度も手にとり,何度も最後まで読んだつもりになり,しかし一体この小説は何なのか,とても言葉にするのが難しい。なんとなく書棚の前に立ち,呼ばれるようにこの本を手にして,秋の数夜を読書の愉悦に浸りつつ過ごした。そう,迷宮に導かれるとわかっていても,この書物を読むことは悦びであることに間違いないのだ。

 複数の語り手の声が錯綜し,「わたし」とは「わたしたち」とは一体だれなのか。1つの文の中でもその声は乱立するばかりか,改行なしに延々と文が続いていく。そして大統領の語る「わし」の声はどこにもとけこまないで迷宮の中をとぐろを巻くようにうねり歩く。

 そもそも大統領はこの小説の中でいつ生まれて,いつ死んだのだろう。私たち読者は何を読んでいるのだろう。答えはどこかにあるのだろうか。私はなぜ,この不思議な書物を何度も手にとるのだろう。

 新潮社「ガルシア=マルケス全小説」シリーズの1冊であるこの本には,「この世でいちばん美しい水死人」など6編の中・短編も収録されている。このシリーズの装丁はとても美しい。
 
 「しかし大統領は,涙のようにも見えるよだれの長い糸を口から垂らしながら,不吉な予感におびえて立ち上がったケッヘル卿を見ても,まばたきひとつしなかった。びくびくすることはない。それよりもわしに説明してくれ,なぜ,死をそんなに恐れるんだ。ホセ・イグナシオ・サエンス=デ=ラ=バラは汗のために型の崩れたセルロイドのカラーをむしり取った。バリトン歌手のようなその顔は醜くゆがんでいた。当然ですよ,とサエンス=デ=ラ=バラは答えた。死への恐怖はいわば幸福の埋火なのです。だからこそ閣下はお感じにならないのです。」(p.385)

2020年11月,京都,知恩寺・京都国立博物館「皇室の名宝」展

 さて,少し間が空いてしまいました。秋の小旅行の2日目は京都へ。JR奈良駅から東福寺駅で京阪電車に乗り換えて百万遍へ直行。知恩寺の古本まつりに行ってきました。下鴨神社の夏の古本まつりの楽しさを教えてくれた人がこちらも絶賛してたのでずっと気になっていたのです。今年は夏の市は中止になったようだし,この機会を逃すまじ。

 秋晴れの午前中,市は夏の半分かそれより少し少ないくらいの規模でしたが,熱心なお客さんでいっぱい。先日植物画を購入した際にCurtis's Botanical Magazineのことをちょっと調べたりしてたので,まずは欧文堂のテントで版画類を手にとる。

 おお,あるじゃないの。何枚か見つけたカーティスのうち,1796年のプリント,右上のNo202を購入。キンポウゲかな?オレンジ色が鮮やかでかわいい。しかし,こないだのトケイソウと比べると紙がペラペラで薄いんだ。紙質の違う版が何種類かあるということなんだろうか??調べてみよう。ほかに,インドのテキスタイルの洋書や,ウニベルシタス叢書の野島秀勝先生の訳書「宮廷風恋愛の技術」(アンドレアス・カペルラヌス著)など。相変わらず支離滅裂。
 次は旅の最終目的の京都国立博物館「皇室の名宝」展へ。先に昼食をとろうとレストランへ向かったら大行列。展覧会は日時指定だけど.食事はそうはいかない。。空腹をこらえて展示室へ。

 「蒙古襲来絵詞」を見るだけでも,と思っていたのだけれど,とにかく次から次へとまさに「名宝」が現れて,お腹いっぱい。思えば伊藤若冲の「動植綵絵」をこんなに空いてる会場でじっくり見たことなんて初めてかも。人気がありすぎて何となく敬遠してたけど,確かに凄い迫力だわ。と脱帽でした。
 というわけであっという間の小旅行はこれでおしまい。楽しかったなあ。やっぱり旅はよいですね。時間がなくなって省略した京セラ美術館はまたいずれ。しばらくはGo toも様子を見たほうがよさそうだし,ゆっくりとあれこれ計画を立てて楽しむことにしよう。

2020-11-07

2020年11月,奈良(3),奈良国立博物館「第72回正倉院展」

 そして旅の目的,正倉院展にいざ。ここまで早朝から動き回って,ついにたどり着いてほっとして,気が抜けてしまった。。

 会場は混雑もなく,ゆっくり見ることができましたが,如何せん,今年の展示は武器・武具と薬物がまとまって出陳されるのが特徴ということで,なんというか華やかさは今一つ。それに昨年東博で螺鈿の琵琶や瑠璃碗を見てしまったこともあって,今年の展示はちょっと地味に見えてしまったという。。

 とはいえ,美しい螺鈿の鏡や刺繍の幡にはうっとり。そして楽しみにしていた伎楽面の迫力にも大興奮です。

 さて,これで奈良の一日はおしまい。大充実の一日でした。翌日は京都へ向かいます。

2020年11月,奈良(2),春日大社と東大寺


 学園前駅から近鉄奈良駅へはすぐ。まだ正倉院展には時間があるので,シェアバイクを借りて春日大社へ一直線。二之鳥居の前まで自転車で進めるので,らくちんです(もちろん電動自転車)。

 いつか春日若宮おん祭で雅楽の奉納をぜひ見てみたいと思っているのですが,寒い時期なのでなかなか叶いません。今回はゆっくり参拝しよう。国宝御本殿の特別参拝では万燈籠再現を見ることもできて感激。国宝殿では森川杜園の彫刻展を。
 さて,春日大社をあとにして,まだ1時間ほどある。ここまで来たなら,と東大寺大仏殿へ足を延ばすことにしました。中学の修学旅行以来なので,ウン十年ぶりです(!)学生さんがたくさんいて,鹿に追いかけられて楽しそうにはしゃいでる。あんな時代があったなあ,と思わず遠い目。あっぱれの秋晴れです。

2020年11月,奈良(1),大和文華館「墨の天地 中国 安徽地方の美術」展

 
 連休を利用して1泊2日,奈良と京都に短い旅行に出かけました。旅の目的は奈良国立博物館の正倉院展と,京都知恩寺の秋の古本まつり。またGo Toを利用してLet's go!(わりかし単純な人間です。)
 
 正倉院展は,毎年ニュースで混雑の様子を見ているので,予約制の今年は狙い目かも!と考えた次第。早々に申し込んだのですが,希望の日は遅めの時間しか空いてません。新幹線は早い時間しかとれなかった。で,京都から近鉄でまずは学園前駅を目指し,大和文華館を訪ねてみました。

 ちょうど特別展「墨の天地 中国 安徽地方の美術」展が開催中。想像していたよりもずっと立派な(失礼)美術館で,秋晴れの一日,とても気持ちのよい時間を過ごしました。意外と(失礼)たくさんのお客さんの年齢層はかなりお高め。

 展覧会は,2017年に泉屋博古館で見た「典雅と奇想」展を思い出しました。黄山を有する安徽地方は文房四宝の名産地でもあり,墨や硯の展示も。文字通りガラスのような,「玻璃山水」と呼ばれた静謐な山水画の数々にうっとり。清の石濤がよかったな。京都国立博物館所蔵の黄山図冊が展示されていました。前期展示では泉屋博古館所蔵の黄山図巻が出陳されてたらしい。再会かなわず,ちょっと残念。