2019-11-17

読んだ本,「三人の逞しい女」(マリー・ンディアイ)

  立て続けに女性作家の翻訳ものを読んだ。「三人の逞しい女」(マリー・ンディアイ,小野正嗣訳 早川書房2019)を読了。作者はセネガル人の父とフランス人の母を持つのだという。耳慣れない名前はMarie NDiayeと綴る。
  三人の女性たち(Ⅰ部のノラ,Ⅱ部のファンタ,Ⅲ部のカディ)の物語は緩やかに繋がり,共通のモチーフとして「鳥」が登場する。三人は「逞しい」という言葉から連想されるような「生命力の強さ」を湛えているわけではない。
 
 悩み,苦しみ,辱めさえ受けて生きている彼女たちの物語は,時には目をそむけたくなるような現実を描き出す。しかし読者は,ンディアイの文章の迫力にぐいぐいと導かれ,「自らの存在」を決して否定しない,むしろ強い誇りと自負を持って生きていく彼女たちの姿を目の当たりにするのだ。
 
 この小説を日本語で読めること(小野正嗣の訳のすばらしさ!)は,私にとって読書の悦びというだけでは足りない。思い通りにいくことばかりではない人生の途上で,これは奇跡の出会いなのだ,とさえ思う。 
 
「しかし,思い出にふけりながらも,ラミーヌが自分を騙そうとしていたとは決して考えたりしないだろう。そして彼が示してくれた気遣いを思い出すたびに胸に広がるぼんやりとした悲しみは,カディ自身よりも彼に向けられたものだったのかもしれない―この若者の運命を思うと胸が苦しくなって,目からはめったに出ない涙がぽろぽろこぼれるほどだった。ところが,自分の人生を思っても,さしたる感慨もわかず,ほとんど他人事のように感じられた。あたかも,カディ・デンバはおのれの人生に対して,ラミーヌが自分の人生にいだいていたほどの希望をいだいたことがなく,ゆえにすべてを失ってしまったところでまるで嘆くにあたらないかのようだった。/大したものを失ったわけじゃない。カディはそう思うだろう。そして,あの計り知れない自負,あの控えめながらも揺らぐことのない自信を感じながら,やはり思うのだ―わたしはわたしよ,カディ・デンバよ。」(pp.311-312)

2019-11-15

読んだ本,「掃除婦のための手引き書」(ルシア・ベルリン)


  ルシア・ベルリンの短編集「掃除婦のための手引書」(岸本佐知子訳 講談社 2019)を読了。あちこちの書評で絶賛されていたのと,美しい装丁に惹かれて読み始めた。しかし,すぐに後悔した。この書物が孕む世界に共感のひとかけらも感じられない。
  ルシア・ベルリン自身の体験をもとにしたフィクションだという。「わたし」は結婚・離婚を繰り返し,自らアルコール依存症に苦しむ四人の息子のシングルマザーである。掃除婦や看護師,高校教師などで生計をたてる。
 
 なぜ高校教師になれるのかという根本的な疑問はある。しかし,読者のそんな疑問など「わたし」の人生に何の関係があるの?と言わんばかりの熱量に圧倒されて,途中で投げ出すこともできない。
 
 そして,24の短編を読み進め,22番目の「さあ,土曜日だ」を読み終えたときにこう思った。ああ,投げ出さなくてよかった。刑務所の文章のクラスが舞台となり,老齢の白人女性が囚人たちに課題を与え,彼らは文章を書き,朗読し,講評しあう。
 
 「…先生は言った。べつの日には,犯罪者の頭と詩人の頭は紙一重だ,とも言った。『どちらもやっていることは,現実に手を加えて自分だけの真実をつくり出すってことだから。あなたたちには細部を見る目がある。部屋に入って,ものの二分ですべての人と物を見極める。嘘を鋭く嗅ぎわける力がある』」(pp.246-247) 

2019年11月,横浜美術館市民のアトリエ,サイアノタイプ

 10月の台風で延期になっていたフォトグラムの体験ワークショップに参加してきました。横浜美術館市民のアトリエにて。随分前になるのだけれど,3か月くらいの写真ワークショップに参加したことがあって,とても濃い時間を過ごした場所。講師の方は当時の講座でもお世話になったので,再会に心躍ります。
 
 今回はサイアノタイプの体験ということで,おお,これは是非に!と思って申し込んだ次第。当日は先生が用意してくれた薬品を塗布済みの印画紙に1枚,自分で塗布した印画紙に2枚の都合3枚をプリント。
  で,哀しいかな(泣),成功したのは1枚だけ。透明なワイングラスは光が通りすぎてしまってぼんやりした画像しか定着しませんでした。。このシダはアナ・アトキンスを真似した,もとい,リスペクトした(!)ものです。オリジナリティはゼロ。でもきれいに定着して大満足。額装して飾っちゃおう。

 一日がかりのワークショップだったので横浜美術館で開催中の展覧会を見れたのは昼休み時間だけ。企画展と常設展はまたゆっくり再訪することにして,アートギャラリーの「絵でたどるペリー来航」展を見ました。ダゲレオタイプなどの古写真が魅力的な展示。

2019年11月,東京日本橋,「高麗茶碗」展・誠品書店

 例によって,というか支離滅裂的にいろんな展覧会にでかけたり本を読んだりしているのだけれど,振り返る時間が全然追い付かない日々です。
 
 日本橋に出かけて三井記念美術館で「高麗茶碗」展を楽しんできました。韓国で高麗青磁や李朝白磁をたっぷり楽しんできたけれど,日本でいう三島手にあたる「粉青沙器」以外は,「高麗茶碗」という分類に出会うことはほとんどなかったかも。つまりは「高麗茶碗」というカテゴリーは一体何なのかをよくわかっていなかったのです。
 で,この展覧会はまさにその多種多様な高麗茶碗を時代を追って分類し,解説してくれるとても貴重な体験でした。淡交社から出ている「高麗茶碗のはなし」(谷晃 2014)が教科書とすれば,その実地見学,みたいな感じ。
 
 ふむふむ,と一通り歩き回って,高麗美術館や東洋陶磁美術館で「朝鮮のやきもの」を見るのとはまったく違うベクトルで「朝鮮産のやきもの」を堪能してきました。
 
 日本橋では,室町テラスに開店した台北の誠品書店もぶらぶら。中国語の本のコーナーも面白い。雑貨類も充実していて,一度だけ行ったことのある台北の魅力的な街並みを思い出しました。おいしい台湾茶の王徳伝のショップも。 

2019-11-04

2019年11月,東京渋谷・港区,「第三夫人と髪飾り」・「桃源郷展」(大倉集古館)

 この夏以来,なんとなく塞ぎがちだった気分がだんだん外向きになってきてる感じ。お天気のよい休日にまずは渋谷bunkamuraでベトナム映画「第三夫人と髪飾り」(アッシュ・メイフェア監督)を見てきました。19世紀の北ベトナム・チャンアンが舞台です。あまりに哀しい女たちのストーリーなのだけれど,湿潤なまぶしさを湛えた緑,赤いランタンの灯,女たちのアオザイの色彩。トラン・アン・ユンが美術監修を手掛ける美しい映像世界を堪能しました。またベトナムに行きたい。

 哀しい余韻を引きずりながらも,次も東洋の美を堪能しようと向かった先は,リニューアル特別展「桃源郷展」が開催されている大倉集古館。新収品の呉春の「武陵桃源図屏風」が展示の中心で,師の蕪村へのオマージュがわかりやすく解説されていて,一遍のドラマを楽しむよう。
  中国美術に表された桃のモチーフの逸品も楽しい。東博や静嘉堂文庫からも出陳されていました。「名品展」には国宝の普賢菩薩騎象像や,前庭には朝鮮文人像や五重塔なども。

 ところで,大倉集古館を初めて訪れたのは一体いつのことだったか,もはや記憶も曖昧なくらい前のことです。当時,建物内部はなんだか薄暗いし,展示ケースも年期が入ってちょっと埃っぽいというイメージだったのだけれど,今回のリニューアルで大変身。建物の外観には手を加えていないとのこと。伝統を継承しつつ生まれ変わった美術館のこれからの企画が楽しみ。