2013-04-29

2013年4月,東京恵比寿,アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密展

 東京都写真美術館でアーウィン・ブルーメンフェルドの写真を見てきました。ヴォーグなどのファッション誌を中心に活躍した「ファッション・ポートレイト全盛期の旗手」(展覧会チラシより)という写真家です。

 「ハーパース・ハザー」や「ヴォーグ」誌などを飾った美しいカラー写真は,カラー復元されたリプリント版の展示です。凝った構図や技法が,まさに甦った色彩に彩られてとにかくかっこいい。プリントをぐるりと見せたあとで,それらが表紙に使われた雑誌を細い回廊のような展示で見せるなど,展示もとても洗練されている印象でした。

 そしてヴィンテージ・プリント,自叙伝の展示へと続くのですが,モノクロのヴィンテージはカラー写真とがらりと印象が変わり,写真家の深い思索の世界へと導かれます。

 圧巻は最後の「私のベスト写真100選」My One Hundred Best Photos。華やかなファッション・ポートレイトは彼の仕事の一部であって,ユダヤ人として生まれて二大戦に翻弄された写真家の人生の仕事の全体像を目の当たりにして心が震えます。写真とはまさに,「選び」そして「組む」「並べる」行為だと実感します。そしてこの100枚は彼の編んだ「詩集」に他ならないのだ,と。

 写真集My One Hundred Best Photosは英語版が1981年にRizzoliから出版されていますが,入手は難しそう。何とか手に入れたいものだ,と燃えてきました。

2013-04-28

2013年4月,東京五反田,五反田アートブックバザール

 五反田の南部古書会館で開催されていたアートブックバザールにでかけてみました。年2回開催,今回が第10回目ということ。2日間の開催最終日はGWの初日。気持ちのよいお天気の昼下がり,会場は本好き・アート好きの人たちで想像以上のにぎわいです。行楽地にでかけるわけでもなく,古本探しをする人たちが同志(!)に見えてきました。 
 入口で手荷物を預けて身軽に会場内を廻ることができます。個性的な10店舗がそれぞれの棚を構成していて,どの棚も面白い。初日はより魅力的な品が多かったのだろうけれど,十分な品ぞろえで,値段が安い印象。もちろん,手の出ないお値段の魅力的な写真集や画集もたくさんありましたが。
 
 酒井忠康氏や池内紀氏の古い美術評論は読み物としてとてもおもしろそう。ほかに雑誌SWITCHの100号記念号の表紙にはROBERT FRANKとKURIGAMI KAZUMIの文字が美しく並ぶ。カンディンスキーの「点・線・面」。グレン・グールドのインタビュー集などなど。

2013-04-27

古いもの,下鴨神社古本まつりで買ったもの,1820年代の彩色銅版画

 これは昨年の夏,京都の古本市で買った銅版画の植物画。1820年代の手彩色のもので,花はラナンキュラスのようです。ルドン展で見たアルマン・クラヴォーの植物画譜が面白かったので,取り出して眺めています。

 すぐに額装しようと思いつつ,1冊の本から分かれた紙の色あせた質感も気に入っていて,そのままになっています。花の濃い紫色も洒落ています(大絶賛)。この花の姿をじっと眺めていたら,不思議な生き物たちの平行世界を覗くことができるような気がしてきました。

2013-04-25

2013年4月,東京西新宿,オディロン・ルドン 夢の起源展

 損保ジャパン東郷青児美術館で「オディロン・ルドン 夢の起源」展を見てきました。第1部「幻想のふるさとボルドー 夢と自然の発見」に展示されているアルマン・クラヴォーの植物学素描にまず圧倒されました。ルドンに植物学の手ほどきをしたという人物で,版画家ブレスダンとともに彼の画家人生に大きな影響を与えたことが,その裸子植物や藻類の標本画からも窺えます。

 よく古書市などで販売されている手彩色の版画の緻密で繊細な植物画とは少し趣が違って,生々しいというか,ルドンが描く不思議な生き物たちの生態に通じるものを感じます。

 さて,第2部「黒の画家 怪物たちの誕生」ではルドンのおなじみ(?)の不思議な黒の世界を堪能しました。チラシにもなっている異形の生き物は不敵な笑みをこちらに向けています。うへへ,という怪しい笑い声が聞こえてきそう。

 石版画集「夢想」は「わが友アルマン・クラヴォーの思い出のために」という副題がついていて,自死したというこの植物学者に捧げられています。短い詩行の添えられた幻想世界は,ルドンの見た夢なのか,それともルドンが実際住んでいた世界なのか。

 第3部「色彩のファンタジー」の世界もまた,後年のルドンが住んでいた世界に他ならないのでしょう。岐阜県美術館が所蔵する「眼を閉じて」の前で足を止めます。2006年に東京オペラシティアートギャラリーで開催された「武満徹 Visions in Time」展で魅了された1枚。彼の「閉じた眼」の源泉となったルドンの「眼を閉じて」はたくさんのヴァージョンがあるのですが,私にはこの夢幻の世界を漂うような色彩にあふれた1枚が,武満徹の幻想的な曲想と分かち難く結びつきます。

 帰宅して久しぶりに「閉じた眼」や「ピアノ・ディスタンス」,「遮られない休息」などを収めた武満徹のマイ・ベストCDを探し出して,ゆっくりと耳を傾けることに。実は今,自分の力ではどうにもならない心配事を抱えているのだけれど,しばし現実世界から逃避して時間を過ごす。

2013-04-22

2013年4月,東京西新宿,コクーンタワーをジオラマで撮ってみる

 寒の戻り,というのでしょうか。それにしても寒かった週末,西新宿にでかけてオディロン・ルドンの展覧会を見てきました。損保ジャパン美術館はビルの42階にあります。チケットカウンターから展示室入口へのアプローチ,窓の外にはコクーンタワーが面白いように近くに迫っているのに初めて気づく。カメラのアートシーンを「ジオラマモード」に切り替えて撮ってみました。

 あまり模型っぽくない写真になってしまいました。このビルは「東京モード学園コクーンタワー」が正式名称らしい。2008年竣工,設計は丹下都市建築設計ということ。

 ロンドンのシティでよく似たビルを見たなあ,と思って写真を探してみたら,尖った先端部分が似ているだけだった。こちらは2004年竣工,ノーマン・フォスター設計のビルで,正式名称は30 St Mary Axe。通称gherkinガーキンはピクルスに使うキュウリのことだとか。ビルの隙間から覗くガーキン(2010年撮影)。
 大脱線しました。オディロン・ルドン展を見るについては次稿にて。

2013-04-19

読んだ本,「貴婦人と一角獣」(トレイシー・シュヴァリエ)

 もうすぐ「貴婦人と一角獣」の展覧会が始まります。書店で「フランスの至宝,奇跡の初来日 名宝タピスリーに秘められた禁断の愛の物語」という帯の惹句を見て,予備知識を仕入れるのにちょうどよさそうと思って購入。白水社から出ている「海外小説の誘惑」シリーズの1冊です(木下哲夫訳)。
 読み始めてすぐに,ん?となる。美術史的な解説とか来歴ではなく,「この物語は虚構ではあるけれども,タピスリー《貴婦人と一角獣》に関する妥当な推測に基づいている」(著者注,p331より引用)というフィクションでした。
 
 訳者あとがきを読むと,著者のトレイシー・シュヴァリエは,映画にもなった小説「真珠の耳飾りの少女」の作者ということ。なるほど,この「貴婦人と一角獣」も映画化されると面白そう。絵師ニコラの女たらしぶりや,貴族の娘クロード,工房の娘アリエノールのキャラクター設定も,わずかな史実だけをもとにして,よくぞこれだけのストーリーを組み立てられるなあ,と感心する。登場人物それぞれが一人称で物語を紡いでいくのですが,ニコラの章は少々お行儀(!)が悪いようでございます。
 
 とはいえ,中世の織物の制作方法や,工房と組合の関係,教会の行事などなど,「教養小説」の趣も備えていて,あっと言うまに読み終えました。国立新美術館で始まる展覧会が楽しみ。
 

2013-04-17

2013年4月,東京恵比寿,マリオ・ジャコメッリ写真展

  マリオ・ジャコメッリの写真を見てきました。東京都写真美術館の地階を使って,ドラマチックな展示の写真展。2008年に同じ写真美術館で初めて見た写真家です。ハイコントラストのモノクローム写真が鮮烈な印象で,前回の写真展はとても高い評判だったように思います。
 
 今回は前回紹介されなかったシリーズを加えて「作品数を218点と大幅に増やし作家の本質へ切り込む展覧会」(展覧会チラシより)とのこと。印象深い「神学生」のシリーズはもちろんのこと,抽象的な写真のシリーズも「白」と「黒」の世界が圧倒的に美しい。小島一郎の写真を見たときも思ったのだけれど,暗室でこうした写真を作りこむ行為は,言葉をそぎ落として詩を作る行為に似ているのかもしれない。ここにも一人の写真家の「抒情の果て」=詩があるのだなあ,とそんな風に思う。
 
 ショップに立ち寄ると,図録や写真集に混ざって「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子,文春文庫)が置いてあり,おやと立ち止まる。手に取ってページをめくると第2章にあたる「銀の夜」の冒頭に,ジャコメッリの神学生のシリーズの1枚が登場し,タイトル「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」(展覧会の表記による)がダヴィデ・マリア・トゥロルドの処女詩集の冒頭部分であると書かれています。
 
 帰宅して急いで書棚の前で,時が経つのを忘れて須賀敦子の本を何冊もひっくり返す。「コルシア書店の仲間たち」に引用されているダヴィデの詩句は「わたしには手がない/やさしく顔を愛撫してくれるような…」となっています。
 
 須賀敦子はダヴィデを,「よくも『わたしには手がない』なんていえる,と友人たちがからかった,農民の父母からうけついだ,野球のグローブみたいに大きな手」とユーモアのある美しい文章で表現し,やがて疎遠になっていくその修道僧であり詩人である人の思い出を語るのです。
 
 須賀敦子の訳による「イタリアの詩人たち」(青土社)にこの詩人が紹介されているかな,と思いましたが残念ながら,ウンベルト・サバやジュゼッペ・ウンガレッティなどの中にダヴィデの名前はありませんでした。図録を購入していないので,ジャコメッリとダヴィデの関係や親交はよくわかりません。写真展を見て,思いがけず須賀敦子とイタリアの詩人たちの詩を夢中で読み返していた時間,私は無邪気に踊る神学生たちと同じ表情をしていたかもしれない。

2013-04-10

2013年4月,東京市ヶ谷,エドゥアルド・メンドサの講演

 エドゥアルド・メンドサの講演を聴きに,初めてセルバンテス文化センターを訪れました。市ヶ谷と麹町のちょうど中間くらい。スペイン語の振興と教育,そしてスペイン及びスペイン語圏文化の普及のためにスペイン政府により設立されたもので,本部はマドリードにあり,東京支部は世界に70以上ある支部の中で最大規模なのだそう(同センターHPより)。

 定刻より早めに地下オーディトリアムへ。すでに席に着いている人たちが手にしているメンドサのスペイン語原書(!)ばかりが目に入る。開始時間が近づいてくると,スペイン語の陽気な挨拶があちらこちらで。私は席で同時通訳のレシーバーを握りしめる。ステージはシンプルで美しい設え。にこやかに登壇したメンドサは白い椅子に座りました。
 
 作家の仕事とは「本の存在を完成させること」と語り始めました。いかにも同時通訳の日本語なのだけれど,とてもしっくりきます。小説とは「語るべき物語」がそこにあるから書かれるのだとも。
 
 話題は彼の小説における「ユーモア」や「前向きな登場人物」,現代社会における「権力」などなど,早口の同時通訳についていくのに必死です。「都市」について,「あらゆる都市はフェノミナムであり,そこに住む人は「彼自身」と「市民としての彼」の2つの顔を持っている」と語ったのが印象的でした。
 
 最後に彼は,「小説を執筆中に他者の意見を聞くということはしない。完成するまでは自分だけの世界。パスワードでロックしたパソコンの中に閉じ込める」と表現したのですが,にこやかに手で弧を描き,何かを閉じ込める仕草をしたとき,本当にこの夜,セルバンテス文化センターの地下にこの小説家の世界そのものが存在したような気がしました。
 
 残念ながら,出版されている邦訳は「奇蹟の都市」のみです。「サボルタ事件の真相」や「名もなき探偵」シリーズなど,話題にのぼった作品の邦訳が出版されるとよいなあ,とか,今からスペイン語を勉強するのは無謀というものだよなあ,とか考えながら春の夜風を受けて麹町の駅へ向かいました。 


2013-04-09

読んだ本,「奇蹟の都市」(エドゥアルド・メンドサ)

 エドゥアルド・メンドサの「奇蹟の都市」(鼓直,篠沢真理,松下直弘訳,国書刊行会 1996)は,田舎からバルセロナに出てきた一人の少年オノフレの成長の物語。1887年と1929年の二つの万国博覧会に挟まれた,区切られた時間の中で少年の成長と都市の成長が描かれています。

 となると,あたかも明るい青春物語のように思えてしまうのですが,オノフレは下宿代を払うためにアナキストのグループの仕事を手伝うところから,やがて暗黒街の「顔」へとのし上がっていきます。

 二段組400ページ近くのボリュームで,すいすい読めるわけではないのですが,「歴史小説やピカレスク,暗黒小説や科学小説という多くのサブジャンルが投げ込まれていて,その混在と重合が読み手を眩惑し魅了するという,作者メンドサの狙いどおりの結果が生じている」(p.387訳者あとがきより)。
 物語の終盤,自分の財産を奪われたオノフレと弟ジュアンのやり取り。「(ジュアンはオノフレに,)一生あくせく働いてきて,それか,と言った。なあに,清掃夫や,とオノフレは答えた,物乞いをしたって,やっぱり仕事はきつかったと思う。ただ,みんなが権威を振りかざし,勝手に振る舞っている残酷な社会の本質が,多少分かってきた。若いころの率直なシニシズムが中年の臆病な悲観主義に変わったということだ。」

 この本はかなり前に読もうとして途中で放り出してしまったのだけれど,この4月に作者メンドサが来日すると知って読み通した次第。セルバンテス文化センターでメンドサの講演を聞くについては次稿で。

2013-04-06

2013年4月,東京上野,エル・グレコ展

  いよいよ会期終了も間近というところで,ようやく東京都美術館にエル・グレコ展を見にでかけました。強い風の翌日,ソメイヨシノはほとんど葉桜でしたが,八重の桜の美しい上野公園はまだまだたくさんの人出。エル・グレコ展の会場もかなりの混雑でした。欅の新緑が建物の外壁に映えてまぶしい。


 テレビや各種のメディアで情報や画像をよく目にしていたせいか,会場を歩いていると既視感を覚えて,ついつい足早になってしまう。信仰を持たない身には,やはり意味の「わかりやすい」画が魅力的に映ります。展覧会第1章の肖像画はどれも強烈な存在感。「白貂の毛皮をまとう貴婦人」の美しさは何に喩えればよいのだろう。宗教画では「受胎告知」や「悔悛するマグダラのマリア」などなど。
 
 「瞑想する聖フランチェスコと修道士レオ」はどんな画題なのか知りもせず,しかし,修道士に差し出された髑髏はそのまま絵を観るものに突きつけられているようでもあり,「死を想え」と静かに諭されているようで,胸にひびきます。

 今展のハイライトの「無原罪のお宿り」の意味も今まで知りませんでした。たくさんの人が,まさに「聖なるもの」を見つめるまなざしでこの絵の前に膝をつくように屈んでいたのですが,私はこの絵の前で祈りを捧げる身ぶりをする覚悟を持ち合わせていない。ああ,なんて美しい絵だと遠巻きに眺めて,そして出口へと向かいました。 
 

2013-04-03

2013年3月,東京渋谷,ルーベンス展

 花冷えの週末,渋谷bunkamuraで開催中のルーベンス展を見てきました。展覧会チラシには「バロックの神髄」という文字が躍ります。ルーベンス展は随分と前に池袋にあった西武美術館で見た記憶があるのだけれど,それは「ルーベンスとその時代展」であって,日本で個展が開催されるのは初めてだそう。ちょっと意外な感じ。

 ルーベンスといえば,筋骨隆々というか,言ってしまえばむちむちの肉体が画面に躍動する様子から「肉弾戦」という言葉を連想してしまう。そしてそれが入口から出口までずらっと並んでいるわけです。「冷静」とか「理性的」という言葉はルネサンス美術に用意されたものであり,ここにあるのはまさに「バロックの神髄」なのだと再認識する。

 面白かったのが展覧会構成の第5章「専門画家たちとの共同制作」。日本初公開という「熊狩り」は動物画の専門画家スネイデルスとの競作です。迫力×迫力,みたいな大画面に思わず口がぽかんと開く。第3章「ルーベンスと版画制作」にはエングレーヴィングの「ライオン狩り」も。これはどんな本画なのだろうと調べてみたら,昨年11月に訪れたミュンヘンのアルテ・ピナコテークが所蔵している作品でした。

 しまった。確かにルーベンスの部屋(2階の中央第Ⅶ室。いわば美術館のハイライト的な位置にあります)はぐるっと廻ったけれど,まったくノーマークで記憶の片隅にもありません。「アルテ・ピナコテーク」(エーリッヒ・シュタイングレーバー著,みすず書房 美術館シリーズ4,1990)のフランドル絵画のページをあわてて繰ると,「ライオン狩り」の図版はありませんが,「カバとワニ狩り」の図版に目を奪われる(左ページ上の図版。カバとワニを狩る!)。いつの日か再訪できたら,ちゃんと見てこよう。
 

 展覧会第2章「ルーベンスとアントワープの工房」によると,彼は巨大な工房を組織して,多くの助手やその卵を抱えて作品を製作,その数は2000~3000点にも及ぶということ。一人の偉大な画家の生涯とその膨大な製作の全容を駆け足で体感した展覧会でした。