2013-09-30

2013年9月,東京渋谷,「葵上」

 セルリアンタワー能楽堂に櫻間会例会「葵上」を見にでかけました。ほかに独吟「鞍馬天狗」,仕舞「善知鳥(うとう)」という番組。
  題名は「葵上」ですが,正面に置かれた小袖が病に臥せる葵上を表現し,葵上本人は舞台に登場しません。ちなみに,この物語自体が「源氏物語」に忠実というわけではなく,六条御息所は生霊のはずですが最後は成仏得脱することになっているし,「照日の神子」(物の怪の口寄せをするシャーマン)のような独自の登場人物がいたりします。

 と,予備知識を仕入れたところで静かに舞台が始まります。照日の神子に呼び寄せられた六条御息所は,葵上に「後妻打ち」(!)というおそろしい振る舞いをして連れ去ろうします。そこに横川の小聖が呼ばれて加持祈祷を行うと,六条御息所の怨霊が「般若」の面を着けて登場し,小聖と対決したのち,ついには二度と現れないことを誓って成仏する,という展開。

 鬼女となった六条御息所からは,「うらみ」と,貴婦人としての「恥じらい」とのすさまじい葛藤が痛々しいほど伝わってきます。シテ櫻間右陣さんの動きはいつもながら気品があって,「怨念の美」を体現しているようです。

 そしてこの葛藤のすさまじさをさらに視覚的に増幅させているのが「般若」の面なのでしょう。脇正面,橋掛かりのすぐ横に座っていたので,身もだえする御息所が橋掛かりから乗り出さんばかりに迫ってきたときは,思わず立ち上がって逃げ出したくなりました。
 
  実は幼いころ,よく父に連れられて行ったデパートの工芸品売り場に般若の能面が飾ってあり,それが怖くて仕方ありませんでした。いつも半泣きになるものだから父がそれを面白がって,またしょっちゅう連れていく,という悪循環(虐待じゃないか…)。眼が怖い。口が怖い。金色の角まで生えてる!

 ところで,般若は女性の怒りを表現するポピュラーな面なのかと思いきや,実際にこの面を使う演目は四つしかないのだそう。(ほかは「黒塚」「道明寺」「野宮」。)ということは,「般若もの」を見ることができたのは貴重な体験だったわけです。とはいえ,大人になっても怖いものは怖い。

2013-09-27

2013年9月,東京渋谷,「世界一美しい本を作る男:シュタイデルとの旅」

 渋谷のイメージフォーラムで上映中の「世界一美しい本を作る男:シュタイデルとの旅」(How to Make a Book with Steidl, 2010,ドイツ)を見てきました。「シュタイデル」社は写真集や美術書などを作るドイツの小さな出版社。経営者のゲルハルト・シュタイデルの本づくりにかける情熱を「旅」という視点で追いかけたドキュメンタリー映画です。
  「ここは会社というよりも研究所なんだ」と語るシュタイデル氏はたしかに白衣姿がよく似合う。彼はクライアントであるアーティストたちとの打ち合わせのために,ニューヨーク,ロサンゼルス,パリ,カタール…と世界中を旅します。「直接会って打ち合わせれば,2, 3か月かかる仕事が4日で終わる」と言い,紙の種類,作品の選定,微妙な色の調整などなど,「作家の分身」を具現化するために情熱を注ぎます。

 ニューヨークとノバスコシアで打ち合わせをするロバート・フランクは幾分老いた印象を受けますが,シュタイデル氏から「もう1枚写真を選んで」と言われて膨大なポラロイドを繰るシーンには感動すら覚えます。写真家が1枚の写真を選ぶとき,彼の手の中には全世界が存在する。

 筆で自分の名前と本のタイトル(「ブリキの太鼓」!)を書くギュンター・グラス,気のよいおじさん,といった感じのロバート・アダムス。ジョエル・スタンフェルドの「iDubai」(アイ・ドバイ)という写真集が出来上がるまでの工程は全編を通して描かれていて,とてもスリリング。

 シュタイデル氏の仕事にかける情熱,真剣なまなざし,プロとしての自信とスタッフへの信頼。それらは圧倒的であり,日々惰性で生きている自分とは別の地平に生きる人とも思えるのですが,むしろ羨望の感覚というか,「人生はなんて美しい!」と思えてきて,とても気持ちのよい映画でした。いやあ,面白かった。イメージフォーラムを出て思わず空を見上げる。246の向こう側のビルの屋上。

読んだ本,「スコットランドの漱石」(多胡吉郎)

  知人から拝借した「スコットランドの漱石」(多胡吉郎著,文春新書)を読了。漱石はロンドン留学中,スコットランドにも足跡を残していたのか,とまずは驚きます。そしてその後の作家生活に与えた影響についての興味を著者と共有することになるのですが,丁寧な取材と親しみやすい語り口は一本のドキュメンタリー番組を見るようです。それもそのはず,著者の多胡氏は元NHKのディレクターだそう。
  ただ,漱石が滞在したピトロクリの屋敷での主人との対話をはじめ,著者の想像と現実の境界がやや曖昧で(テレビなら,現実のインタビューと回想シーンとの区別は鮮明に視聴者に伝わるところだけれど),「え,なになに?」となってしまう箇所にも幾度か遭遇(私だけだろうか…)。また,p81の「草枕」の英訳についての記述の中で,「不人情」をdetachmentと訳している,という記述は「非人情」でないと意味がおかしいのではないかと思っていたところ,amazonのレビューで同じことを指摘している人がいて,ちょっと安心。誤植だと思います。

 それはさておき,グレン・グールドが「草枕」の英訳を愛読していたという事実,メンデルスゾーンと漱石の関係,「シングルモルト」を初めて口にした日本人が漱石だった(かもしれない),などなど興味深い内容が満載で刺激的です。グールドについては,亡くなったときに枕元にあったのは聖書と「草枕」だったとか。

 著者は漱石と同じくらいグールドという人物にも魅かれているようで,厚手のオーバーを着込んで,スコットランドの深い森の中を「田園」を口ずさみながら歩いているグールドの姿を思い浮かべる箇所(P.75)などは,その映像が生き生きと頁から立ち上がるようで,思わず引き込まれます。「草枕」はもう随分前に読んだきり。グールドを聴きながら読み返してみることにしよう。年を重ねて,どんな風に読めるのか楽しみでもあります。
 

2013-09-22

読んだ本,「双頭の船」(池澤夏樹)

 池澤夏樹の「双頭の船」(新潮社)を読む。「鎮魂と再生の祈り」という出版社の惹句を目にすると,しんどいな,と正直なところ,思う。「3.11」からもう2年半,ではなく,たったの2年半しか経っていない。辛いのだ。「あまちゃん」も面白いけれど,ふと辛くなる。

  あの日からの「状況」と「気持ち」に「言葉」を与えようと作家が紡いだ物語は寓意に満ちていて,巨大化していく船や,人間がオオカミに掟を教える場面など,ほとんど神話的と思える。いつしか物語の世界にぐいぐい引き込まれていることに気付く。

 盆踊りの夜,フォルクローレのグループが「泣きながら Llorando se Fue」を演奏する場面は,「現実と向き合う」ことの重さを教えてくれて,いつまでも心に残る。

 舳先(へさき)と艫(とも)の区別のない舟は,あの世とこの世を繋ぎ,海へ向かい陸へ向かい,過去と折り合いをつけて,未来へと向かう。少しの勇気を出して,今読んでよかった,とそんな風に思う。
 

2013-09-21

2013年9月,東京恵比寿,「しかしそれだけではない。 加藤周一 幽霊と語る」

 過日,日仏会館で開催された加藤周一記念講演会にでかけてきました。第1部が映画「しかしそれだけではない。 加藤周一 幽霊と語る」の上映と澤地久枝氏のコメント,第2部に奥平康弘氏による講演会「加藤周一と日本国憲法」という構成。秋バテ(という言葉があるのだそう)ですっかり体調を崩してしまい,前半の映画上映のみに参加して中座しました。なので,映画を見にでかけた,というのが正しいところ。
  この映画は2009年の公開時から見てみたいと思いつつも,何かとても高い壁のようなものが厳然と私の前にそびえ立ち,ためらううちに時間ばかりが過ぎていったのでした。

 「決して意見が変わらない」幽霊たちと語り,カメラを見据えて言葉を発する加藤周一氏の眼差しは鋭く,怖ろしい。しかし,何も知らず/学ばずに無為に年齢を重ねている観客である私を,決して見捨てることはせずに厳しい言葉で導いてくれているような気がします。

 「一個人の意識が全世界に意味を与えるのだ。一人の人間に何ができるのか,どうせろくなことはできやしない,などということはない,全世界に意味を与えるんだ」と語るとき(記憶を辿りました,氏の言葉そのままではありません),鼻の奥がつんと痛くなる感覚に陥る。

 氏の膨大な著書を読みこなすことなど到底かなわず,朝日新聞に連載されていたコラム「夕陽妄語」を理解するのも精一杯。ジャクソン・ポロックの「美」から語り起こした1999年のコラムの切り抜きは今も大切に保存しています。「富士山とマッターホルンのどちらが美しいか。その答えは,山の形の分析からは出て来ない。異なる歴史的文化の高山に対する態度のちがいが,またそれだけが,高山の美学的性質を決定し,それぞれがそれぞれのし方で美しいのである。美的経験こそは,人を文化多元主義の方へ導くだろう。」
 

2013-09-16

2010年12月,ベトナム追想/古いもの,青花山水文合子

  数年前にハノイを旅したときは骨董屋をのぞくのもほんとに楽しかった!手の出るものを二つばかり購入しました。これは前掲のベトナム陶磁展でもたくさん展示されていましたが,黎朝の山水文合子です。径6.5㎝くらい。

  この合子を買った店のあるホアンキエム湖北側に広がる旧市街は,入り組んだ路地に現地の人たちの日々の営みと観光客相手の洒落た雰囲気の店が入り混じります。まるで異界に迷い込んだような錯覚に陥る場所。
  ミュージアムとして保存されている旧家に足を踏み入れる。入口で安くない入場料を払って順路をたどるうちに,いつしか細長い家の奥にある厨房に迷い込んでしまう。「さあ,食事の支度よ,料理を器に盛ってちょうだい」と女主人が強い口調で言う。棚に並んだ皿を1枚手にしながら,もう二度とこの街から,いや,この家から外へ出ることはできないのだろう,とぼんやり考える。現実のような白日夢。白日夢のような現実。

 帰国後,この写真を見た年上の知人が,「こんなところで客死したいものだね」と呟きました。この人とはなんとなく波長が合うな,と感じたものでした。

2013年9月,東京町田,ヴェトナム陶磁の二千年展

  町田市立博物館で,ベトナム陶磁の展覧会が開催中です。前期・後期で全点入替の展示。陳朝14世紀~黎朝18世紀の白磁・青磁・鉄絵・青花などで構成された後期展示「海を越えて」を見てきました。
  ベトナムの焼きものといえば,茶道を通じて日本人にもなじみが深い安南染付(青花)がすぐに思い浮かびます。町田市立博物館で2001年に開催された「ベトナム青花:大越の至上の華」展もとてもすばらしい展示でした。

 今回は陳朝末の青磁や鉄絵もまとめて見ることができて,まさに眼福。端正な形状と,静謐な色合いの碗や鉢は,他のどこの国のものともちがう落ち着いた気品があって,その器の宇宙に吸い込まれるようです。

  面白かったのが,一つの種類の鉢や碗が,「青磁・緑釉・鉄絵・白磁」などの色違いで並んでいるところ。陳朝後期には異なる釉色でほぼ同じ形や文の器がたくさん作られたということですが,並べ方も色の調和も美しく,このままセットでほしいなあ,とそんなことを思ってしまう。
 静かな雨に打たれるホアンキエム湖(2010年12月)。湖面の色は,青磁の青にも,緑釉の緑にも似ています。

2013-09-11

読んだ本,「死語のレッスン」(建畠晢)

 楽しみにしていた建畠晢の最新詩集「死語のレッスン」(思潮社)を読む。出版社で在庫が少なかったのか,注文してから2週間ほど待って入手しました。期待度満点で読み進める。
  「死語のレッスン」とは一体何を意味するのか,扉に詩人の言葉があって読み手を導いてくれる。「死語の誕生とは言葉が迎えるもっとも根源的な出来事であるだろう……。私はあえてその夢想の光景を追うことにする。以下の連作は,そのためのささやかなレッスンである。」(p.27)

 「娼婦」「刺客」「燐寸」「老嬢」「出奔」…。死語が誕生する,というまるで言葉遊びのような矛盾。とらえどころのない言葉と同様に,詩人の夢想の光景はどこまでも広がっていく。「老嬢満載のトラックが横転」したのは一体いつの出来事だろう,「小走りで出奔した」フキボルという地名は世界のどこかに実在するのか。

 「さしたる諍いがあったわけではない。過ぎ去らぬ声が疎ましかったわけでもない。小屋の中では固有名のない影がただ穏やかに揺れていた。むしろその平穏こそが,時代に遅れた出奔を促したのであった。それから先の偽りの固有名こそが,死語の出奔の哀しくもあいまいな体験なのであった。」(p.59「フキボルまでは,小走りで」より)
 
 ゆっくりと数篇ずつ読み進めたこの数日間,満員電車の乗客をかきわけてホームに降り立つたびに,フキボルへ,フキボルへ,と声に出さずに幾度も呟いてみた。

2013-09-08

2013年9月,東京下北沢,SWANNY公演/nonsenseで買ったもの

 初秋の空気に入れ替わったと早とちりして,衣服のチョイスを完全に間違えた休日の午後,知人の紹介で劇団SWANNYの公演「パーフェクト奥様」を見る。下北沢駅前の小さなスペースは100人入るかどうか,折りたたみの椅子が折り重なるように並べられています。そこで繰り広げられたのは歌って踊ってのミュージカル。まさかの至近距離。

 主宰の千吉良悠子さんのオリジナル脚本は,「結婚」がテーマで,ファンタジーと現実,現在と過去,日常と非日常,善と悪などなど重層的な展開。後半の着地点がもう少しコンパクトでもよいのでは,などとにわか演劇評論家のような感想を抱くも,下北沢の小演劇なんて,それこそ非日常の世界をしばし楽しみました。
 
 さて,せっかく下北沢に来たので,書店B&Bをゆっくり見てから茶沢通りをまっすぐ南下。埃っぽい昔ながらの古道具店や,おしゃれな雑貨と古書を扱う店などひやかしながら,アンティークショップnonsenseも覗いてみました。北欧家具や食器の店かと思ったら,時代や国にとらわれない雰囲気のあるものをセレクトしているということで,日本の昭和初(たぶん)の福字文の高台皿を1枚求めました。
 
 径14センチ,高さが5センチくらいで.ちょっと安南赤絵ふうの雰囲気もあってよい感じ。渋い緑が合いそうなので苔玉でも置くと映えるかも。この日は北澤八幡神社の祭礼の日で,店の中にも祭囃子が聞こえてきて,通りすがりの買い物もなんだか妙に浮き浮きします。

2013-09-07

古いもの,天秤はかり

 この夏,実家の物置から発掘してきました。祖父が使っていたものです。ほこりにまみれ,背面のガラスははずれてセロテープで紙が貼ってありました。家人からは「そんなもの何に使うのか」と詰問(!)されるも,びびびっと来たので大事に持ち帰って,木部を亜麻仁油で磨き,背面には透明アクリル板をはめ込んだら,見違えるほどすてきになりました(と,思う)。出窓に飾って,引出部分は小物入れとして使えそう。
 
 プレートには「東京神田 守谷定吉造」という文字が読めます。検索してみたら,いくつかオークションサイトにアンティーク品として出品されていました。アンティークとして楽しむご同輩の存在を確認してちょっと嬉しくなる。引き出しからは,分銅などの部品や,計量用の皿などと一緒に細かい数字がびっしり書かれたメモ用紙が何枚も。
 およそ理系は苦手な孫娘が,嬉々としてはかりを磨いてメモ用紙の数字に目をこらす未来を,祖父は想像したことがあっただろうか?


2013-09-06

読んだ本,コルタサル短編集「悪魔の涎・追い求める男」(コルタサル)

 フリオ・コルタサルの短編集を読む。岩波書店創業百年記念フェアとして「読者が選ぶこの1冊」に選ばれている。池澤夏樹個人編集の世界文学全集(河出書房新社)の第3集「短編コレクションⅠ」にも収録されている「南部高速道路」は何度読んでもその不思議に歪んだ時間と空間の描写に引き込まれていく。
  渋滞して流れが止まった高速道路上に奇妙な共同体が形成され,秩序が生まれ,命が生まれ,人が死ぬ。そして突然車が流れ出すラスト。「ひたすら前方を見つめて走り続け」(p215)る猛スピードの車列を目のあたりにして,ここまで夢中でページを繰ってきた私は,ほっとする反面,あの共同体の奇妙な崇高さが永遠に続けばよかったのに,とも思えてくる。呆然と見送るしかない。

 「悪魔の涎」は,翻訳家の主人公がパリの公園で撮った写真の1枚が突然動き始め,現実の裏側の世界を指し示す短編。コルタサルと写真の関係については,訳者の木村栄一による巻末の解説に詳しい。コルタサルが写真と短編について語っている部分は,なるほど!と頭に電球がともる。解説から孫引きします。

 「写真家,あるいは短編作家は,意味深いイメージなり出来事を選び出すと,それだけを写すか,語ることになる。その場合,イメージ,あるいは出来事はそれ自体価値のあるものであり,しかも写真なり短編のなかで映像,もしくは言葉によって語られている挿話をはるかに越えたところに存在するあるものへと,見る人,読む人の知性と感受性を向かわせる一種の導入口,刺激剤としての役割を果たし得るようなものでなければならない」(p.290)

2013-09-03

2010年12月,ハロン湾追想,映画「インドシナ」/「旅をする裸の眼」(多和田葉子)

 数年前ベトナムを旅したとき,ハノイから日帰りでハロン湾にでかけました。朝早くホテルを出発し,交通規則というものはこの国には存在しないのか,と思えるスリル満点の約3時間強のドライブを経て,湾内に浮かぶ観光船に乗って沖へと静かに進み出します。薄曇りの空に浮かぶ島々は,まさにガイドブックが言うところの「水墨画の世界」でした。
  熱暑がぶり返して気力も萎える休日の夜,BSの映画番組で「インドシナ」(1992)を見る。あまりにも美しいカトリーヌ・ドヌーヴがドラゴン船に乗って登場するところから始まります。一言で言ってしまえば,フランス統治時代のベトナム(旧インドシナ)を舞台にした一大歴史ロマン。ハロン湾とそこに浮かぶ島が重要な舞台となり,歴史の残虐さも伝える幻想的な光景が映し出され,数年前にカメラ片手に興奮していたあの場所の記憶が蘇りました。旅行の前に見ておけばよかった。

 多和田葉子の「旅をする裸の眼」(講談社文庫 2008)は,カトリーヌ・ドヌーヴの出演映画を追うベトナム人女性(ヨーロッパに拉致されている)が主人公の物語。13の章からなり,それぞれ一つの映画を「観る」主人公の語りによって構成されています。その第5章がこの「インドシナ」。

 主人公自身がフランス語を理解できないために,スクリーンを「観る」ことだけで読者に映画の意味を伝え,読者は文字を「眼」で「読む」ことによって映画の意味を知るという体験をします。そのことは多和田葉子の小説の本質に近いところにあるのだろうけれど,やはり映画は字幕とか吹き替えとか,ほんとに「言葉」って助かるなあ,というのが実感。「旅をする裸の眼」は実は一読したときにあまり理解できなくて,映画を見てから再読してやっと面白さがわかりかけた気がします。

2013-09-01

2013年8月,東京恵比寿,「写真のエステ 写真作品のつくりかた」展

 写真美術館で3期にわけて開催されている「写真のエステ」展の第2部にあたる「写真作品のつくりかた」展を見てきました。担当の学芸員が写真美術館のコレクションの中から選ぶという企画で,第1部の「五つのエレメント」展よりもおもしろいと感じる写真が多かったということは,私の感性が今展の企画者により近いのだろう,というのが展覧会を見た結論。

  美術館の膨大なコレクションから自分の感性で選ぶなんて,こんなに楽しい仕事もないのではないか,と思えてしまう。いいなあ,私もやってみたいなあと思いつつも,29000点から130点を「選ぶ」のはいかほど困難なことだろう,とも思う。今回は「アングル」「焦点」「光のあつかい」「暗室作業」という,わりと抒情を排した(ように思える)視点でのセレクション。

 単純に,おお,これは私も好きだ,と思える写真をじっくり見ながら(それ以上のことは考えないで)会場をぐるぐる歩き回る。ハリー・キャラハンは「フィレンツエ」と「デトロイト」。ロバート・フランクの「聖なる牛Holy Cow」にはがつんとやられる。中山岩太「上海から来た女」。アジェのパリ。東松照明「三等車」。あいかわらず支離滅裂な嗜好です。

 そういえば,前回もハリー・キャラハンHarry Callahanの「エレノア」がとてもよかった。彼の写真をまとめて見たいものです。どこかで「ハリー・キャラハン展」が開催されることを祈りつつ。