2014-11-23

2014年11月,横浜港の見える丘公園,須賀敦子の世界展

 少し前のことになります。港の見える丘公園のすっかり秋色に染まったイングリッシュガーデンを通り抜けて,神奈川近代文学館へ「須賀敦子の世界展」を見にでかけました。「見に行った」と同時に「読み,そして感じた」展覧会。
  イタリアの海岸で幸せそうな微笑みを浮かべるセピア色の写真を用いたポスターが印象的で,彼女の人生の誠実さがその写真からあふれているようです。原稿は早い段階からワープロやPCを使っていたということで,自筆文書の展示は書簡が中心でした。愛する家族へ,友へ,編集者へ。

 展示されていた夫のペッピーノ宛ての書簡は,便箋3枚にタイピングして自筆サインが入っています。タイプは絶対オリベッティだろうな,とかそんなことを考えてしまう。

 ダビデ・トゥロルド神父と並んで写った写真の前では,マリオ・ジャコメッリの写真を思い出す。ああ,これが須賀敦子と時間を共有していたダビデ神父の姿なんだ。ジャコメッリのレンズの向こうにいたモノクロームの形態が,突然動き出してにっこりと私に微笑みかけているような錯覚を覚える。展示室のガラス越しに。

 日本に帰国後の大学教員としての日々を丹念に辿るコーナーも興味深いものでした。上智大学で英語で日本文学や世界文学の講義をしていたということで,テスト問題の展示も。

 展示の最後は「須賀敦子の愛したもの」として,フィレンツェ大学やイタリア文化会館に寄贈された蔵書の一部も展示されています。いつまでも立ち去りがたく,須賀敦子という人生を形成した本たちを眺めて時間を過ごしました。

 この冬はゆっくりと須賀敦子の本と彼女の訳したイタリア文学を読み返すことにしよう,と心に決めて坂道を下ります。このあとはバスに乗って関内へ向かい,神奈川県立博物館で「白絵」展を見て帰りました。

2014-11-03

2014年11月,東京上野,「国宝展」/「東アジア陶磁名品展」

 東京国立博物館にでかけて「国宝展」と「東アジア陶磁名品展」を見てきました。福岡市博物館所蔵の金印が11月18日から展示されるということで,きっと大行列になるだろうなと読んで早めにでかけることに。金印は福岡でじっくり見てきたし(えへん)。
  とにかく右も左も全部国宝というわけで,キャプションを読んで実物を見て「おお,これが」を繰り返しているうちにあっという間に時間がたってしまった展覧会。まさかの仏足石や玉虫厨子が博物館の展示室にあるわけで,「祈り,信じる力」というテーマ云々よりも,そこに「在る」という事実に圧倒されてテンションもあがります。
 
 そして11月3日までの限定展示の正倉院宝物11件の特別展示には興奮もマックス状態(国宝ではないけど)。「鳥毛立女屏風」や螺鈿の琵琶の前ではただただ「本物だ!」と感激する。「緑地彩絵箱」はその時空を超えた美しさにほとんど呆然となる。
 
 ふと考えるに,旅先のモナリザやマハラジャの宝物にこれほど感激しただろうか。やはり脈々と流れる日本人の感性というものがあって,今ここに立っているのだなあと遠い目になってしまいます。
 
 本館で開催中の「東アジアの華 陶磁名品展」もすばらしい展示。日中韓国立博物館合同企画特別展と銘打つ展覧会で,韓国国立博物館所蔵の白磁壷のその完璧な美しさといったら!韓国にはなかなか行く決心がつかない(キムチが苦手)のだけれど,博物館だけでも行かねば,と心に決めた午後。
 
 ところで,淡交社から出ている「なごみ」という茶道の雑誌の10月号が東京国立博物館の特集です。山口晃の漫画が抱腹絶倒で,館内のあちらこちらでその場所に関するエピソードを思い出してにやにやしながら歩いてしまった。

2014-11-02

2014年10月,皇居東御苑,宮内庁楽部雅楽演奏会

 2012年の公演に続いて今年も秋の雅楽演奏会の応募はがきが当選!大手門から皇居東御苑に入り,宮内庁楽部へと向かいました。開演の1時間ほど前に門をくぐったものの,楽部に到着したときにはすでに場内は満席。うろうろして1階にようやく一席発見,次の機会があったらもっと早く着くようにしよう。
  管弦は盤渉調(ばんしきちょう)の「盤渉調音取」「千秋楽」「越天楽残楽三返」「劔気褌脱」の四曲の演奏です。優雅な演奏が始まると,体調万全(?)で臨んだはずなのに,途中で意識が飛んでしまう(泣)。休憩時間に気合を入れ直します。

 舞楽は中国系の左方の舞が「左方 還城楽(げんじょうらく)」,朝鮮系の右方の舞が「蘇志摩利(そしまり)」です。蛇の小道具を使う「還城楽」は,6月の雅鳳会の演奏会でも見ましたが,さすがに宮内庁楽部の舞台は次元が違います。大太鼓がお腹にどーんどーんと響くのが心地よい。迫力の舞に時間がたつのを忘れます。

 右方の「蘇志摩利」は雨乞いの舞とも言われているそう。四人舞で,途中縦一列になって左右が入れ替わる動きなどもあって,静かな右方舞ですが,優雅な動きがとても面白かった。好みで言えば緑色の装束の右方舞の方が好きだわ,と再確認。

 終演後,大手門に向かう途中に売店に立ち寄ると,雅楽舞台の模型が置いてあって,写真を撮る人がたくさんいました(右の写真)。

 この日は出光美術館にも立ち寄って「仁清・乾山と京の工芸 風雅のうつわ」展も鑑賞。色鮮やかな京焼はあまり好みじゃないと思ってたけれど,初めてみる仁清の美しい白釉に感動したり,阿蘭陀写の向付の隣にデルフト焼の碗が展示されていたりと,とても楽しい展覧会でした。どたばたの日常をしばし忘れて,なんとも雅な時間を堪能した秋の一日。

読んだ本(戯曲),「出口なし」(サルトル)

 Huis Clos「出口なし」は「蠅」に次ぐサルトルの二番目の戯曲ということ。サルトルの著作はほとんど読んだことがない。「実存主義」がこの戯曲の通奏低音だとしても,それをああ,なるほどと理解できるわけではない。と,開き直ってしまったらそこでおしまいなので,舞台を見た翌日にとにかく図書館へ直行。
  筑摩世界文学大系89(1977)で伊吹武彦訳の「出口なし」を読む。三段組で22ページの短い作品だが,舞台を見ていなかったら内容を理解するのにさぞかし苦労しただろう,と思う。舞台で印象的だった場面のいくつかを活字で追ってみる。
 
 (エステル)「あたし,おしゃべりをする時は,自分の姿がどれか一つの鏡に写るようにしたもんだった。あたしは,しゃべりながら,自分のしゃべるのを見ていたんだ。みんながあたしを見ているように,あたしは自分を見ていたんだ。すると,頭がいつまでもはっきりしていた。私の口紅!きっと歪んでついている。いつまでも,いつまでも鏡なしでなんか,いられやしない。」(p.291より引用)

 イネスが他の二人に投げかける叫び声は,舞台では序盤に響いたが,戯曲では最終盤に登場する。(イネス)「見てるわよ,見てるわよ。あたしはたったひとりで群衆なのよ。群衆よ,ガルサン。」(p.305)

 そして,その叫び声を引き受けるようにガルサンの長い独白が続く。(ガルサン)「ぼくを食いつくすみんなの視線…ふん,二人きりか。もっとたくさんだと思っていた。じゃ,これが地獄なのか。こうだとは思わなかった…二人ともおぼえているだろう。硫黄の匂い,火あぶり台,焼き網…とんだお笑い草だ。焼き網なんかいるものか。地獄とは他人のことだ。」(p.305)

 「地獄とは他人のことだ」l'enfer, c'est les Autresと終わる台詞のあと,劇はやはりガルサンの「よし,続けるんだ」Eh bien, continuons.で終わる台詞で幕を下ろす。 

 首藤康之が舞踊公演に名付けたOTHERSというタイトルの意味がこの台詞に集約されていることが理解できたものの,サルトルの戯曲そのものは私にはとてもハードルが高い。「劇作家サルトル」(山縣熙著,作品社 2008)の第2章「出口なし」(pp.42-59)が,とてもわかりやすく理解の入口へと導いてくれた。

 首藤康之の肉体を通して,私たち観客はガルサンという「死者」の叫びを聴く。私たちは「地獄で生き続けること」を選択するのか,扉の外へ出ていくことを選択するのか。ガルサンは「死者」だ。しかし私たちは生きるものとして。
 

2014-11-01

2014年10月,神奈川芸術劇場,首藤康之 DEDICATED 2014

 神奈川芸術劇場で首藤康之のDEDICATED 2014を見てきました。今回のテーマはOTHERS「他人」で,「ジキル&ハイド」と「出口なし」の二つの演目です。
 
 最初の「ジキル&ハイド」は首藤康之のソロで,舞台上には姿見よりも一回り大きいくらいの鏡。鏡で自分を見る=他者の視線の介入によって,自己が分裂していくというイメージです。しなやかで官能的な身体の動きは,観客のまなざしに寄り添うよう。そして次の瞬間には彼の身体は獣となって,観客の畏怖の視線を突き放す。観客である私は一瞬もその存在から目をそらせない。
 
 「出口なし」はサルトルの戯曲を「ダンスと演劇の融合」という形で白井晃が演出した作品です。中村恩恵と,女優のりょうが出演しているのですが,りょうの細い身体は首藤・中村の造り出すイメージ世界に不釣り合いで,見ていてつらかった。
 
 約1時間の舞台は鏡のない世界。3人の登場人物がそれぞれ他人の目を通して存在し,関係性を築いていきます。台詞は研ぎすまされていて,演劇というよりは台詞のあるダンスという印象です。ガルサン(=首藤)とエステル(=中村)の絡みは相変わらず官能的で,そこが地獄だということをしばしば忘れてしまう。イネス(=りょう)は二人を見つめて「あたしはたった一人で群衆なのよ」と吐き捨てるように言う。
 
 物語のクライマックス,椅子の上に飛び乗ったガルサンの「地獄とは他人だ!」という叫び声がいつまでも耳と網膜に焼き付いて離れない。