2017-10-29

2017年10月,東京上野,素心伝心展

  東京芸大美術館で開催されていた「素心伝心ークローン文化財 失われた刻の再生」展を見てきました。BSのシルクロード番組で紹介されていた敦煌莫高窟内部の復元をどうしても見ておこうと,ぎりぎり最終日に駆け込みました。
   冒頭の法隆寺の部屋の壁をぐるりと囲むのは金堂壁画。香が焚き染められ,ちょっとしたトリップ気分になります。ああ,こういう姿だったのかという得心と,美しい仏たちが炎に包まれていく恐ろしい幻影にちょっと足がすくみます。

 現地で非公開の敦煌莫高窟第57窟に足を踏み入れると,「素心」という言葉の意味を体感できます。眼前の「復元」された仏は7世紀の仏の心をそのまま湛えているかのよう。それは「復元」という作業ではなく「再生」をこそ願う人の手によるものなのだ,と感動。

 高句麗古墳の展示も面白かった。ソウルの国立博物館で見た四神図の展示を思い出します。2016年のアフガニスタン展の際にも紹介されていた,バーミヤン東大仏天井壁画の再展示もあって,ああ,楽しかった!平山郁夫シルクロード美術館の収蔵品もいくつか展示されていて,一度行ってみたい。会場が暗くて写真はピンぼけです。撮影可の展覧会というのは,どこでも撮影会場のようになってしまうものですな。(自分のことは棚にあげる)

2017-10-22

2017年10月,東京初台,「単色のリズム 韓国の抽象」展

  初台のオペシティアートギャラリーで「単色のリズム 韓国の抽象」展を見た。チラシの李禹煥にノックアウトである。ただ,彼の作品群を「韓国の単色画」として見たことはなかったので,こういうグループ展(と言っていいかどうかわからないが)の中の一人の作家の作品として見ると,新鮮な感激を覚える。
  「単色画(ダンセッファ)」という用語があることも知らなかったが,2015年にヴェネチアで開催された大規模な展覧会がきっかけで再評価されているのだという。そして,国内では寺田コレクションの中核の一つとしてまとまったコレクションがあるというのは全く未知のことだった。
 
 会場では,このギャラリー空間にぴったりと収まる作品群に圧倒される。「極限までそぎ落とされたミニマルな美しさ」とチラシにあるが,「そぎ落とされた」ものとは何だろう。どの作家の作品もそれぞれ魅力的で,こういう抽象画に対峙していると,作家の内面世界,そしていやでも「自分」に意識が向かっていくのを感じる。
 
 久しぶりに,心地よい緊張を味わった展覧会だった。家に帰り,李禹煥の著作を探す。書棚にあったのは古色蒼然としたこの2冊。「立ちどまって」(書肆山田 2001)は数年前に京都の古書市で買った詩集である。
 
 「しばらく空を眺めてから/君を見たり/本を見 樹を見ると/みんな空の色だ//しばらくして再び空を眺めると/君が見え/本が見え 樹が見えて/みんな自分の色だ//目を閉じて思うのだが/空の色でものを見/ものの色で空を見ている/私はどんな色だ」(しばらく空を眺めて pp146-147)
 
 オペラシティアートギャラリー2階では「懐顧 難波田龍起」展を。近くの文化学園服飾博物館では「更紗のきもの」展。



2017年10月,東京渋谷,神楽公演・國學院大學博物館

 10月の忘備録として。九州の神楽公演を渋谷の國學院大學百周年記念講堂に見に行きました。以前からお神楽には興味があったけれど,なかなか実際に見る機会がなかったのです。宮崎と福岡の合同公演で,時間の都合で福岡の京築神楽だけ鑑賞。
 
 御福と御先という二つの演目は,いずれも迫力満点。御先鬼の持つ鬼杖に触れるとご利益があるとのことで,会場を一周してくれるサービス付きでした。舞台で見てこの迫力なのだから,里山で実際に神社への奉納の機会に見ることができたらさぞ,素晴らしいだろうなあ。見ている方もある種のトランス状態へと誘われます。
 
  キャンパスに隣接した國學院大學博物館では企画展「モノの力 ヒトの力」展(10月9日で終了)を見ました。余計な解説を省いた展示は,「日本人の美意識を取り巻く感性世界の確認」(チラシより)という場で,惹かれるものがたくさんありましたが,一つ選ぶなら,使い込んだ濱田庄司のこの土鍋。
  初めて訪れたこの博物館,思った以上に規模が大きく,考古資料や神学関係の展示の充実ぶりには大感激。常設展示の美しい考古資料の数々。

  また,相互貸借特集展示として,西南学院大学博物館所蔵資料「転びキリシタン」展も興味深いものでした(こちらは11月10日までの会期)。この夏,「沈黙」(遠藤周作著 新潮文庫)を読んだこともあって, 小説世界とはまた違う,現物史料のもつチカラに圧倒されました。

2017年10月,横浜桜木町,ヨコハマトリエンナーレ2017 島と星座とガラパゴス

  びっくりするくらいグロテスクなこの作品,カルヴィーノの「蟹だらけの船」をここに引用した次の日に横浜美術館で遭遇したので,それこそびっくりしてしまった。アイ・ウェイウェイの「河の蟹」というインスタレーション作品。ヨコハマトリエンナーレの横浜美術館会場にて。
 
 こういう偶然の符合みたいなものは,あくまで主体が自分だからびっくりするのであって,アイ・ウェイウェイにも美術館の人にとっても,これはあくまで一つの作品だ。観客である私の私的な読書体験が,カルヴィーノを勝手に連想させただけのことである。でも,と思う。私にとってはアイ・ウェイウェイとカルヴィーノが分かちがたく結びついた瞬間なのであって,よくいう「現代アートの意味をそれぞれが解釈する」行為の面白さを身をもって確認した一日となった。
 
 トリエンナーレは過去数回でかけたけれど,今回が一番面白かった。まあ,上述のような特別な出来事は,それはそれ。充実した展示にすっかり気分があがる。フォトジェニックな作品も多かった。アン・サマットの「酋長シリーズ」はエスニックと思わせて工業製品などが編み込まれている。そしてそれぞれの作品に性別がある!パオラ・ピヴィのカラフルな熊は「芸術のために立ち上がらなければ」と呟いている!

  そして,この日を選んで出かけたのは,畠山直哉・平野啓一郎・小林憲正(宇宙生物学者)の三氏による公開対話「ヨコハマラウンド」を聴講するのが目的だった。「時間」や「複数性」というテーマのもとに,深く興味深い話を聞くことができた。

 畠山直哉氏の,言葉を選んで鋭く慎重に語る姿はとても印象深いものだった。「『僕たち』は『僕』の複数形ではない」,「忘却とは違う時間の流れ」,「『当事者性』を,通訳はpositionalityと訳した」など印象的な言葉も多く,時間をかけてメモを読み直している。蛇足ながら,半分葉が茂り,半分が立ち枯れたクルミの木の写真を示して,カルヴィーノの「まっぷたつの子爵」に触れたときには,おお,またカルヴィーノ。と軽く興奮。
  畠山直哉の陸前高田の写真は,トリエンナーレの会場全体をぴりりと引き締めている印象。この写真の日付は2014年8月15日。彼岸からの声に満ち満ちた気配に,思わず涙ぐむ。

2017-10-20

2017年10月,東京赤羽橋,三好耕三写真展 On the Road Again

  冷たい雨の降る夕刻に赤羽橋のPGIへ向かい,三好耕三の写真展を見てきた。タイトルのOn the Road Againが示すように,彼は「ロード・トリップ」を1970年代から40年以上も続けてきたのだという。展覧会のリーフレットには「ロード・トリップはメディテーション。ただフロントガラス越しの視界と対峙して,最低限の約束を肝の片隅に預けおき,あとは確と座するだけ。」とある。

 16×20インチの大判カメラを用いているのだそう。美しいプリントは,しかし,修行僧の厳しい美意識という一面も確かに漂わせつつ,どこか達観した余裕みたいなものがある。ロードを無心で走りつつ,空腹になればそれを満たすためにカフェにも立ち寄る。カフェの店員が温かいまなざしを向ける1枚は,写真家と被写体の魂の交感みたいなものさえ感じさせる。
 
 三好耕三の写真を初めて知ったのは,もう20年近く前になるかもしれない。東京国立近代美術館フィルムセンターで見た写真の通史の展覧会で強烈な印象を受けた。その時の写真がSee Sawというシリーズの1枚で,たぶん高架下の建造物にあたる光と影のコントラストが強烈な1枚。そして,その1枚もどうやらロード・トリップの副産物だったということを,時を経て知った。

 それがどうした,という話かもしれない。しかし,写真を見続けることに「意味」を与えるとするなら,私にとってはかなり親密な事件ではあった。

読んだ本,「魔法の庭」(イタロ・カルヴィーノ)

  秋を通りこしてやってきた冬の寒さにすっかり気分も滅入る。梅雨時に雨が続くのは嫌いではないが,天高い時期に冷たい雨が続くのは反則だ。休みの日も出歩くよりは家で読書,という気分になる。

 書棚を整理していると,我ながら積読の多さに愕然とする。本を買うのは未来を買う行為とは言え,未来の限りをそろそろ自覚するこの頃,どうにかしなくちゃという気になっている。それと同時に,あれ,こんな面白そうな本を買ったのだったかという小さな悦びも。「魔法の庭」(イタロ・カルヴィーノ 和田忠彦訳 ちくま文庫 2007)を読了。

 カルヴィーノの短編集と言えば,「むずかしい愛」(和田忠彦訳 岩波文庫 1995)をまず思い出す。たしか荒川洋治が書評で絶賛していた,女が水中で泳いでいる美しい場面の描写はまるで映画を見ているようだった。

 この「魔法の庭」に収められている11の短編はどれも大人の社会の中の「異なる存在」をどこかユーモラスな視点で描くものだが,やはり映像が目に浮かぶような感覚を堪能した。

 「…そして水際には蟹がうじゃうじゃと,ありとあらゆる形や大きさの蟹が何千匹も,その折れ曲がった輻射状の四肢をつかってぐるぐる動きまわりながら,鋏をちらつかせたり,無表情な鈍い目を突き出すようにしていた。その蟹の平らな腹に寄せる海の水は,音もなく鉄の壁の四方を洗っていた。この船倉中がもそもそ蠢く蟹でいっぱいなのかもしれず,だとしたらある日,この船は蟹たちの四肢に乗って動きだし,海の中を歩きはじめるかもしれない」(p.12「蟹だらけの船」より引用)

2017-10-15

読んだ本,「とどめの一撃」(ユルスナール)

    随分長い間,積読になっているのに気付いていたけれどもなかなか手に取ることがなかった1冊(岩崎力訳,岩波文庫 1995)。たしか,平野啓一郎がいつかどこかに面白かったと書いていた記憶がある。

 ユルスナールは須賀敦子の著書「ユルスナールの靴」(1998)が印象に残る作家で,それ以上でもそれ以下でもなかった。読後,その時空を超えた「愛と死」という壮大なドラマに読書の至福を味わう。エリックとコンラート,そしてソフィーの生き方と愛の表現に自分の共感を重ねていく作業は,なぜ小説を読むのか,という問いの答えの一つだろう。

  「断罪された者の首に巻きついた紐の結び目をしめあげるのに,運命ほど秀でたものはないという。しかし私の知るかぎり,運命が得意とするのは紐を断ち切ることのほうである。人が望もうと望むまいと,結局運命が問題を解決するためにとる手段は,すべてを厄介払いすることなのだ。」(p129より引用)

2017年10月,東京恵比寿,「シンクロニシティ」展・「長島有里枝」展

  ここのところ,時間に追われる案件が一段落して,あちこち展覧会にでかけています。東京都写真美術館で見た2つの展覧会を忘備録として。
「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と,愛を少々。」というちょっと変わったタイトルの写真展を見に行く。And a Pinch of Irony with a Hint of Loveは何か出典があるのだろうかと,図録をパラパラ見たけれど,言及が見当たらない。よく読めばよいのか,と思ったものの,そこまで情熱がわかない。いわゆる「ガーリーフォト」の人が中堅写真家になった,という第一印象が会場の最後まで続く。祖母が撮ったつるバラの写真をスイスの自室の壁にピンナップした1枚がよかった。それは写真家の本意からは大きく外れているのだろう,と自分の的外れな「写真の見方」を自覚しつつ。

 別のフロアでは「シンクロニシティ」展を見る。「TOPコレクション 平成をスクロールする」の秋季展。「シンクロニシティ」と言えば,30年近く前に菅啓次郎が訳した著書が話題になったなあ,と思い出す。調べてみたら,1989年に出版されたF.David Peatの著書だった。それは昭和の終わり,平成の始まりの頃の話だ。

 で,この写真展はタイトル通り,「平成をたどる」写真で構成されていて,同時代ではなく「平成回顧」の展覧会。もちろん,それが狙いなのだろうけれど,蜷川実花の鮮やかなカラー写真や金村修の東京モノクロ写真を見ていると,なんだか切実ではないのだ。遠くから眺めているような。今,写真美術館は平成を回顧する必要があるのだろうか,という身も蓋もない思いがわいてくる。

2017年10月,横浜根岸,「馬の美術 150選」

 桜木町からバスに乗り,根岸森林公園にある「馬の博物館」に行ってきました。「馬の美術 150選」というなかなかマニアックな展覧会に足を運んだのは,この展覧会が「山口晃 「厩図2016」完成披露」だからなのです。なぜ「2016」かと言えば,昨年の展覧会時に仕上がらなかったそうで。(すずしろ日記No.141に詳しい)
 
 運よく山口晃のトークショーにも当選して(倍率4倍だったらしい),いそいそとでかけました。想像通りのオモシロイ人で,何やら脱線の連続のトークも可笑しかった。肝心の「厩図」はさすがの一作です。会場のしつらえにもこだわったと言い,消火器や空気清浄機がピタッときたとかで,こんな感じ。
 トーク終了後,館の人が「サインなどご自由に」というのだけれど,誰もセッティングをしてくれないので会場の人たちはみな躊躇しているようです。そこで!私が先頭を切ってサインをお願いしてしまった。しかも,持ち込みの「すずしろ日記」に!(他の人たちはもちろん,購入した図録でした。)しかも,持参したサインペンはかすれ気味!なんだかおかしな雰囲気が漂うなか,厚顔無恥のオバサンは逃げるように会場を後にしたのでした。

読み返した本,「浮世の画家」(カズオ・イシグロ)

  カズオ・イシグロのノーベル文学賞の受賞のニュースには驚いたものの,じんわりと喜びに浸されている。最新作(「忘れられた巨人」)は私にはピンとこなかったけれど,寡作の新作を楽しみに読んできた作家の受賞は,身震いをするような感じとでも言えばよいだろうか。

 とは言え,10年以上も前に読んだ初期の作品の記憶は曖昧で,書棚から引っ張り出して再読を始める。まずは「浮世の画家」An Artist Of The Floating World(早川epi文庫)から。最初の邦訳は1988年に中央公論社から出て,1992年の中公文庫のあと,2006年に早川から再販されている。

 どのタイミングで読んだのかまったく覚えていない。「記憶」を描く作家の読者として許してもらえるだろうか。NHKで再放送された白熱教室でも,カズオ・イシグロは「自分の中の日本の記憶をとどめるために」小説を書き始めた,と言っていた。

 記憶の中の日本を舞台にした第1作「遠い山なみの光」A Pale View of Hillsに続き,この作品の舞台も戦後の日本である。ただ,この二作を書いたあと,自分は日本を描く作家だと思われないように「日の名残り」を書いたのだが,「日の名残り」と「浮世の画家」は舞台が違うだけで内容は同じなのだ,と語っていたのが印象に残る。

 年老いた画家が回想するのは過去のゆるぎない信念であり,語っている今,直面しているのは時代の新しい価値観である。自己の存在はそのとき,揺らぐのか否か。そしてそのとき,画家が立っている「場所」とはどこなのか。

 イシグロは「作品の舞台を設定するのにものすごく時間をかける」と語っていた。その「場所」は日本でありイギリスであり上海であり,しかしどこでもない。読者である私はイシグロを読みながら,追い続けるのだ。作家を。主人公の生きる場所を。そして自分の「場所」を。 

2017-10-07

2017年10月,龍岩素心の開花

  久しぶりの更新です。今年はなぜか開花が初秋になりました。夏の多湿が原因みたいです。9月に入って水やりを控えたら花芽が2本出てきました。緑がかった白というのは,なんて美しい色だろう。