2024-05-01

2024年4月,大阪,「福田平八郎」展・「シン東洋陶磁 MOCOコレクション」展

 今回の関西旅行の大きな目的は空海ともう1つ,中之島美術館で「没後50年 福田平八郎」展を見ること。福田平八郎の日本画はずっと前から大好きで,その装飾的かつモダンな世界を通覧できる展覧会には大興奮。いやあ,とにかく楽しかったとしか言いようがない。

 NHK日曜美術館でも紹介されて,来場者も多かったけれども混雑というほどではなく(モネ展の方が長蛇の列でした),「漣」の前では,こんなに手の跡を見ることができるのか,と印刷で見るのとはまったく異なるその「画の力」にしばし足が動かなくなります。

 集英社の「現代日本美術全集 第6巻 福田平八郎」(1981)は私が初めて買った日本画の画集(展覧会図録ではなく)なのです。40年以上前のこと。こうしてまた人生の旅のピースをうめていく!

 大阪ではもう1つ展覧会を。リニューアルオープンした東洋陶磁美術館で「シン東洋陶磁 MOCOコレクション」展。美術館のエントランスやカフェが新設されてとても気持ちのよい美術館に生まれ変わりました。展示室そのものの見た目は従来と変わりませんが,今回はとにかくオールスターの展示。工事中に泉屋博古館で見たコレクション展の記憶が生々しいので,おっ,またお会いしましたね!みたいな気分で展示室を回り,カフェにも寄って大満足。春の関西小旅行はこれでおしまい。

2024年4月,奈良,「空海 密教のルーツとマンダラ世界」

 GWの前に,人混みを避けて奈良と大阪に弾丸旅行。完治しない腰痛が不安で(とほほ度マックス),予定していた旅程は短縮して展覧会も3つに絞りました。まずは奈良国立博物館で「空海 密教のルーツとマンダラ世界」展を。

 思ったより混んでなくて,ゆっくりじっくり展示を見ることができました。マンダラ世界を体感できる五智如来像の立体展示がとにかく感激。大日如来を中心に東西南北の配置で,まさに金剛界が眼前に広がっているかのよう。

 少し古い本ですが「マンダラの仏たち」(頼富本宏著,東京美術 1985)がとてもわかりやすく鑑賞の手を引いてくれました。この本は西安に旅行する前に購入して読んだもの。そう,西安では空海が修行した青龍寺も訪れたのでした。歳を重ねて,いろいろな旅がこうしてパズルのピースを埋めるように繋がってくるのがとても楽しい。唐やインドネシアからの出陳物も興味深く拝見しました。

2024-04-13

2024年4月,東京田端,映画「カムイのうた」・「アイヌ神謡集」(知里幸恵)


 公開当初から気になっていた映画「カムイのうた」をようやく田端のミニシアターまで見に行く。「アイヌ神謡集」を編んだ知里幸恵をモデルとした,これは真実の物語なのだろう。2月に読んだ「和人は舟を食う」や,ジョン・バチラーの伝記「異境の使徒」でも言及される,おばの金成マツと幸恵との魂の交歓の記録とも言えるのかもしれない。

 差別を受ける場面は胸が苦しくなるが,ユーカラを記録するために幸恵がマツからローマ字を教わり,神謡を必死で書き留める場面が尊い。東京の兼田教授(金田一教授)宅で原稿を書き上げていく姿には,この仕事が彼女の成し遂げる全仕事の端緒であってほしいと願いたくなる。叶わないことと知りながら。

 この映画を見た後で「アイヌ神謡集」(知里幸恵編訳 岩波文庫 1978)を改めて手に取る。「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました。」で始まる序文(pp.3~5)を読むだけで,幸恵の深い想いに触れることができるようだ。そして金田一京助による「知里幸恵さんのこと」(pp.159~162)の末文はあまりに哀しい。

 登別に「知里幸恵 銀のしずく記念館」というのがあるらしい。次の北海道への旅では是非立ち寄ってみたい。

読んだ本,「アフリカンプリント 京都で生まれた布物語」


  アフリカンプリント布は大好きで,好きな柄のカンガなどを見つけてエコバッグを作ってみたり(型紙さえあれば簡単なものは作れます(ドヤ顔)),面白い柄のボトムスはシンプルなシャツなどに合わせると楽しいのでいくつか持っています。

 で,書店の手工芸本のコーナーで「アフリカンプリント 京都で生まれた布物語」(並木誠士・上田文・青木美保子著 青幻舎 2019)を見かけたときは,ファッション本かと思ったのですが,京都工芸繊維大学が監修した学術的な内容も含む楽しい一冊でした。

 アフリカンプリントに興味を持ち始めた頃は,すべてアフリカ製のものが輸入されているかと思っていたのですが,オランダ製や安価な中国製など様々な製造地があることにも気づきました。そしてこの本を読んでびっくり。京都でも製造されていたとは! そしてそれらがアフリカに輸出されていたとは!

 2013年に京都工芸繊維大学資料館で開催された「大同マルタコレクション」の展示資料の成り立ちや意義の詳細な分析がとても面白い。合わせて豊富な美しい図版,実用的なショップ案内など,楽しい読書の時間を過ごして大満足。

2024-04-09

読んだ本,「掠れうる星たちの実験」(乗代雄介),「フェルナンド・ペソア短編集 アナーキストの銀行家」(フエルナンド・ペソア)

 
 乗代雄介が「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会 2021)の中でペソアの短編集を取り上げていて,その書評自体に惹かれたし,導かれて読んだ「フェルナンド・ペソア短編集 アナーキストの銀行家」(彩流社 2019)もとても刺激的な1冊だった。

 乗代雄介はこのペソア短編集の冒頭の「独創的な晩餐」についてこのように書く。「(略)彼が『独創的な晩餐』を,うっかり完成されてしまった完璧なものの不完全なコピーと考えていたことは想像に難くない。着想と書かれ始めた文章の間にはずれがある。異名者という形式が忘我の賜物だろうと責任逃れの手続きだろうと,それは着想をする『自分』と『書く者』のずれに由来するはずだ」(p.72)

 なるほど,ペソアは詩とか断片でしか馴染のない(タブッキの小説の中に現れる姿は別として)読者である私にとって,そうか,ペソアにはこういう短編があるのか,というのがまず驚きだったし,ペソアと書き手である異名者(「独創的な晩餐」の場合,アレクサンダー・サーチ)の関係性をこのように簡潔な言葉で表してくれるのは何より有難い指南だ。

 そうした前提を踏まえて,「独創的な晩餐」はあまりにも衝撃的なラストに言葉を失う。
ほかにも,この短編集には読者をすんなりとどこかへ誘う物語は1つもない。とりわけ「夫たち」は男性本位の世界に対して声をあげる女性の声を生々しく描き,現代的と言ってもよいのかもしれない。ペソアの文章がはらむ「ずれ」を「正しく」理解することは難しいが。

 なお,乗代雄介の「掠れうる星たちの実験」にはサリンジャー論である表題作と,書物の大部を占める書評と,9編の短編(目次には「創作」とある)が収められている。「旅する練習」や「それは,誠」に昇華する着想や断片なのかな,と思いながら面白く読んだ。「八月七日のポップコーン」は「独創的な晩餐」と比するくらいの衝撃的なラストだ。

2024-04-04

2024年3月,東京竹橋,「中平卓馬 火|氾濫」

 

 国立近代美術館に中平卓馬を見に行く。雑誌や写真集に発表された仕事のオリジナルの誌面の展示が新鮮で,それらを通して時代の空気をまとった写真と写真家の眼を丹念に辿る。初期から晩年まで約400点の作品・資料が展示されているので,かなり時間をかけて会場を回ることになる。

 プリントの展示では何といっても1974年の「15人の写真家」の出品作の原作品を見ることができて感激。ただ,2018年のモダンプリント作成時の展示は見に行ったので,その一つ一つの作品は既視感のあるものだ。モダンプリントも手前の部屋に展示されていて,否応でもオリジナルと複製について考えさせられる。

 サーキュレーションの復元展示もなるほどこういう感じだったのか,というのはおもしろかったけれど,ほんの数枚の当時のオリジナル写真の放つ圧倒的なオーラには叶わないな,とそんなことを考える。これらのオリジナル写真は横浜美術館の原点回帰展でも見たはず。

 そう,初めて見る資料ももちろん多かったけれども,白状すれば既視の作品の前では確認作業のようになってしまったのも事実。やはり横浜美術館で初めて「中平卓馬」を知ったときの衝撃があまりに大きかった。

 そういう意味で,今回驚いたのは中平卓馬の記録日記の存在だった。ホンマタカシの映画で睡眠時間などを記録した短い日記の存在は知っていたけれど,日常の出来事とそれに対する心情や製作への思考などが緻密に綴られた日記の展示に驚いた。

 図録によれば,1978年から90年前後までの膨大な日記が今回の展示の準備のために遺族から国立近代美術館に貸与されたのだという。経緯やその意義を知りたくて分厚い図録を購入。論考「中平卓馬『記録日記一九七八年』について」は倉石信乃氏による。

 詳細な分析と論考を時間をかけて読む。膨大な写真と膨大な言葉。その意味を考えながら。そして論考の最後に引用されている稲川方人の書評(「新たなる凝視」についての)の出典が「彼方へのサボタージュ」(小沢書店 1987)とあるのにちょっと驚く。書棚に眠っていたこの本に,そんな書評が含まれていたとは。次から次へと導かれるようにして読書の日が続く。

2024-03-31

2024年3月,東京池袋,「リア王」

 池袋の東京芸術劇場で「リア王」を観劇。段田安則のリア王,エドマンド役は玉置玲央。今年の大河ドラマに夢中なのでこの二人の生のお芝居を見てみたかったのです。ショーン・ホームズ演出の素晴らしいとしか言いようのない舞台。緊張感にあふれる3時間弱,古代英国が舞台のはずなのに,リア王をめぐる老人と兄弟姉妹の物語が孕む問題は,私たちが生きる現代社会が直面するそれと同じではないか。

 四大悲劇の1つなのだから,希望のある結末を期待する方が間違っているわけで,しかしながらあまりにも悲惨すぎる。学生時代に読んだきりなので,久しぶりに復習しなくちゃと岩波文庫を探し出す。野島秀勝先生の訳と解説が,講義を受けているよう。

 コーディリアの「申し上げることは何も。」には脚注として「原語は‛Nothing’の一語。この一語は全幕を通じてさまざまな劇的文脈で,こだまのように繰り返される。(以下略)」と言った具合(p.20)。そうだ,こういう話だったと思い出しながら,繰り返されるNothingを辿りつつ,観劇の余韻に浸る。



 

2024年3月,東京上野毛,「中国の陶芸展」

 上野毛に出かけて美しい中国の陶芸を堪能してきました。五島美術館で3月31日までの開催ということで慌てて駆け込む。体調がまだ完全には回復してないのですが,美しいものに慰められるというか。たくさん歩いたのに,本当に元気になってくるから不思議です。

 それにしてもこれだけの逸品がすべて館蔵ということで,蒐集の審美眼には感服という他ありません。どれか一つ持ち帰ってよいと言われたら(帰る前に心臓が止まりそうだけど),磁州窯の梅瓶かな,それとも唐の三彩万年壺かな,などと妄想全開。青と緑の釉薬が美しい唐三彩は,東博のもっと小さな類品が記憶にあるのだけれど,釉薬の色といい流れ方といい今の気分にどんぴしゃときました。同時公開の館蔵古鏡コレクションの特集展示も圧倒的な展示。

 こういう展覧会を見たあとは,古本屋や古書市で手に入れた古い書籍を繰るのが良き。平凡社の陶器全集「磁州窯」は昭和41年刊。つい,書棚に並べた後は埃をかぶってしまいがちだけど,時間も気持ちも余裕のあるときにゆっくりと眺めるのは至福の一時です。 

2024-03-23

読んだ本,「散歩哲学」(島田雅彦)

 島田雅彦の新刊「散歩哲学 よく歩き,よく考える」(早川書房 2024)読了。島田雅彦の散歩論といえば,2017年の日本近代文学館での講演「歩け,歩き続けよ」が真っ先に思い浮かぶ。あの講演の内容が1冊の本にまとめられたのかと思うと,参加したことが読者としてちょっと(かなり)嬉しい。

 講演では課題図書になっていたルソーの「孤独な散歩者の夢想」を詳しく取り上げていたけれど,本書ではほとんど記述なし。なぜだろう? 社会から締め出された親父のグチ,なんて言ってたから,もっと有益(?)な図書の紹介に努めたのか,などど勘繰りたくなってくる。

 第2章「散歩する文学者たち」も面白いし,都心や郊外の実際の飲み歩き散歩コースの詳細な記録も思わず辿ってみたくなる(こんなに呑めませんが。)。最初のページのこんな一節に快哉。「移動の自由はたとえ国家や社会,支配者からそれを制限されたとしても,決して譲り渡してはならない権利である。私たちは飢餓や暴力の恐怖に晒されたら,今いる場所から逃げ出す権利を持っている。差別やいじめに遭ったら,その不愉快な境遇から抜け出す自由を持っている。散歩はその権利と自由を躊躇なく行使するための訓練となる。」(p.3「プロローグ」より) 

2024-03-19

2024年3月,東京四谷,「壬寅進宴図屏のなかの朝鮮王室の踊りと音楽」

 


 久しぶりに展覧会に出かけてきました。他にもいろいろ見たい展覧会があるのですが,会期最終日だったので四谷の韓国文化院で「壬寅進宴図屏のなかの朝鮮王室の踊りと音楽」展を。こじんまりとした会場のすっきりと充実した展示に感動。まるで韓国の博物館の一室がそのまま再現されているよう。描かれた舞踊を再現した動画も美しい。奥のスペースは楽器や衣裳の展示でした。

 この図屏は韓国国立国楽院の所蔵だそう。2015年に訪れたソウルの国立古宮博物館でも楽器の展示が充実していたことを思い出し,たくさんの博物館めぐりをした初めての韓国旅行が懐かしい。韓国国立国楽院はノーマークだったな。またゆっくり行きたいな,とそんなことを思う午後。

2024-03-14

読んだ本,「ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男」(鈴木晶)

 

 「ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男」(鈴木晶,みすず書房 2023)読了。バレエ・リュスの「牧神の午後」のプログラムのイメージが好きすぎて,そこからニジンスキーに入っていったというと彼のファンには怒られそうだ。

 兵庫県立芸術文化センターの「薄井憲二バレエコレクション」のプログラム現物資料をいつか見に行きたいとずっと思っていたところ,今年1月には京都で「踊るバレエ・リュス」というイベントが,そして兵庫県立芸術文化センターでは3月10日までこのイベントの特別展である「レオン・バクストの衣裳」展が開催されていた。体調が悪くて,神戸も京都も行くことが叶わず,あまりに残念で痛恨の極み。

 そこでこのずっしりと読み応えのあるニジンスキーの伝記にじっくり取り組んでみたという次第。ダンサーであり振付家であるその生涯がとにかく詳細に描かれる。とりわけ南米公演に向かう途中の突然の結婚によってディアギレフからバレエ・リュスを解雇されるくだりや,一時的に復帰してもやがて狂気に陥り,ロンドンで死に至るまでの緊張感など,濃密な映像作品を見るように読み進め,読了後はしばし呆然。

 特に第5章の「振付家ニジンスキー」を興味深く読んだ。「牧神の午後」の振付に影響を与えたであろうルーブルの古代ギリシャの壺や,彼自身が記録した「舞踊譜」の図譜としての美しさなど,豊富な図版によりイマジネーションが刺激される。

 ディアギレフとの関係や,レズビアン的嗜好をもつ妻との関係など複雑な性向についても詳しいが,冷静で淡々とした筆致で語られていて信頼して読むことができた。なお,ディアギレフを中心とした共同体については海野弘の著作も併せて読んでみた。初めての知見が多くてこちらも読後は呆然。

2024-03-04

これから読む本,「十牛図 自己の現象学」

 十牛図にはずっと関心があって,随分と前に下鴨神社の古書市で手に入れた「十牛図 自己の現象学」(上田閑照・柳田聖山,筑摩書房,1982)を読もう読もうと思いつつ,なかなか進まないまま。

 まずはごく基礎的な知識を,と思って探してみたらこの本を見つけた。「あなたの牛を追いなさい」(枡野俊明・松重豊,毎日新聞出版, 2023)。序章に「十牛図は禅の入門書のようなもの」とあるので,まずはその入門の入門を,というわけ。

 枡野氏の禅の読み物はわかりやすくて読みやすく,「禅の言葉」「無心のすすめ」などを愛読。平明な言葉で十の図像の意味を学ぶことができたので,今度こそ腰を据えて読書に取り組もう。松重豊が禅の教えを自分の俳優業に展開していくのも一興,面白かった。(私は「孤独のグルメ」の大ファン。)

 

2024-02-23

読んだ本の記録,「和人は舟を食う」他

 長くこの場所を放置してしまっていた。思いがけず病床に伏して,時間はあっても思考はほとんど停止し,少し気分が良い時に頁を繰った本を忘備録として記録しておこう。内容についていずれ改めて文章にすることもあるかもしれない。

 「和人は舟を食う」(知里真志保 北海道出版企画センター 1985)。知里幸恵の生涯を描いた映画(カムイのうた)が公開中で,体調が恢復したらこれはぜひ見に行きたい。この本は確かアイヌの写真展を見に行ったときに参照図書として展示されていたもの。タイトルに惹かれ,池袋の古書市で見かけて嬉しくて入手したことを思い出す。1冊の古書には自分の物語があるのだ。

「詩人の旅」(田村隆一 中公文庫 2019)。既読のような気もしていたけれど,それは「インド酔夢行」だった。「詩人の旅」を読むことは「旅する詩人」を追いかける旅。

「新書版 性差の日本史」(国立歴史民俗博物館監修 インターナショナル新書 2023)。タイトル通り,展覧会を新書で見せるという書物。展覧会図録以外でこれだけ展覧会を楽しめるのは新鮮な驚きだった。

 小説は既読のものを何冊か読み返した。病める肉体には「知っている物語」が安心できる,ということなんだろうか。初読の小説は2冊のみ。「しをかくうま」(九段理江)と「共に明るい」(井戸川射子)。2人とも芥川賞を受賞したまさに「才気溢れる」若手女流作家だ。「しをかくうま」は面白かった。初めて多和田葉子を読んだときの驚きをちょっと思い出した。
 ここのところだいぶ恢復してきて,少しずつ思考も前向きになってきた。書は捨てないけど,外にも出よう。 

2024-01-10

読んだ本,「思い出すこと」(ジュンパ・ラヒリ)

 「思い出すこと」(ジュンパ・ラヒリ著 中嶋浩郎訳 新潮社, 2023)読了。ジュンパ・ラヒリの最新作は「創作と自伝のあわいにうまれた一冊の『詩集』」なのだという。ローマのアパートで見つけた「ネリーナ」のノートを、ラヒリが発見者として序文を書き,マッジョ博士が監修を依頼されて注をつけるという体裁の作品。ネリーナもマッジョ博士もラヒリの構想した人物であるから,この本はラヒリが「一人三役を演じている」(訳者あとがきより)わけである。

 複数の人格で作品を書き分けるというのとは違い,1冊の詩集を3人の人格で書き上げ,しかもそれが自伝的な内容なのだから,面白くないわけがない。とはいえ,そういった作品としての面白さ・完成度とは別のこととして,読み始めてしばらくはこの「ネリーナの詩」はいったい「詩」なんだろうかと思えてくる。

 普通に行を分けずにつなげていけば,散文として何の疑いもない文に思えてしまう。というか,これはイタリア語を母語としない女性の書いた「詩」としてラヒリが意図的に創作したということなんだろうか。それとも日本語への翻訳段階での違和感なのだろうか。

 もやもやとしながらも,終盤の「遍歴」「考察」の章にいたると,それらはまさに美しい詩篇であり,だとすればやはりラヒリはネリーナの成長を描こうと意図したのかとも思えてくる。一筋縄ではいかない作家の自伝なのだ。

 ネリーナの詩には興味深いモチーフもたくさん登場する。「語義」の中の一篇〈Invidia 妬み〉。「もしもバカンス先で/三日続いた曇り空のあと/海に太陽が降り注いだら,/それもわたしの出発間際に。」(p.78)

2024-01-09

2024年1月,東京恵比寿,「即興 ホンマタカシ」展

 東京都写真美術館で「即興 ホンマタカシ」展を見る。ホテルの部屋をカメラ・オブスクラ状態にして撮影された作品だけで構成されている。メインのビジュアルになっている《New York》は画面が4分割されていて,その境界線のあたりが赤くなっているのが意図したものなのか,絶妙のセンスだなあと思っていたら,空港の手荷物検査のX線でネガフィルムが変色してしまったのだという(ニァイズ155号より)。

 「即興」であり「偶然性」を取り込んだ写真たちを前に,「写真」を疑う「写真家」の想いが伝わってきて,少なからず衝撃を受けた写真展。正月に見た日曜美術館の特番内でホンマタカシが,「写真には攻撃的で暴力的な一面がある,それをやめて逆の立場に立ってみた」というような発言(正確には覚えていません)をしていたのが印象的だった。

 インタビュー記事にはこんな発言もある。「『笑って,笑って』と被写体に言うのは,事件を起こすってことじゃないですか。それをしない。そう考えると縛りが多いですね。面倒な技法や機材を使い,画面には水平垂直の縛りをし,決定的瞬間を狙わない。」(「アイズ2023」115号pp.3-4)

新年のご挨拶


 新しい年の始まったその日に起きた災厄に心が痛む日々が続きます。北陸の地の皆様の苦しみ哀しみはいかばかりか,お見舞い申し上げます。今は祈るばかりですが,落ち着いたら現地で少しでもお手伝いができればと思う日々。はるか昔日のこと,珠洲のおばあちゃんちに行くことがとても楽しみだった。奥能登芸術祭にでかけてその跡地を見て懐かしい想いに浸ったのが昨日のことのよう。