2013-08-31

2013年8月,東京恵比寿,米田知子写真展「暗なきところで逢えれば」

 東京都写真美術館で米田知子の写真展を見てきました。予備知識はほとんどありません。会場に入ってすぐ,風景写真が淡々と続くように見える展示を前に,きれいな写真だな,くらいにしか思えなくて自然と歩く速度が上がってしまう。そして外国の駅らしいプラットフォームを真横からとらえた1枚の前で,これはどこなのかと何気なく出品作品リストに目を落とした瞬間,そこに書かれた文字にくぎ付けになりました。

  「プラットフォーム-伊藤博文暗殺現場,ハルビン・中国」というタイトルを見た途端,その端正な構図の静かな駅の風景は,一転して血に染まったおぞましい政治の現場へと姿を変えたのです。私という写真を「見る人」の眼によって。否,眼の中で。

 あわてて会場入り口まで歩を戻し,作品リストと照らし併せながら1枚1枚を見ていくと,そこにある「写真」は数分前と何も変わっていないのに,「特攻出撃の基地」だったり「サイパン島玉砕があった崖に続く道」の「写真」の前で胸がしめつけられるように感じてしまうのでした。

 故人となった作家の眼鏡を通して本人の直筆原稿を写したシリーズのタイトルは,いみじくも「見えるものと見えないもののあいだ Between Visible and Invisible」です。この写真家の写真を見るということは,「見えるもの」と「見えないもの(=不在のもの/記憶)」のあいだに放り出されるという体験であり,そこに何があるのかはまったく個人の経験に他ならないのだろう,とひどく漠然とした思いにとらわれて,あっという間に時間が過ぎていきました。

 ほかに台北の日本家屋を写した「Japanese House」,ゾルゲ事件の密会場所をとらえた「パラレルライフ」,「サハリン島」,「積雲」などのシリーズ。印象的な展覧会タイトルになっている「暗(やみ)なきところで逢えれば」は10分弱の映像作品。

2013-08-29

読んだ本,「ニッチを探して」(島田雅彦)

 島田雅彦の新刊です。先月7月29日には新宿紀伊国屋ホールで講演会もありました。「作家デビュー30周年&『ニッチを探して』刊行記念」と銘打ったその会は,スライドショーあり,オペラ独唱あり(!),サイン本購入者には「ニッチ犬ミニタオル」のプレゼントあり,サービスたっぷりの「雅彦祭り」。会場は若い女性が多いかと思いきや,男性読者の姿も多く,会場に充満する奇妙な連帯感に包まれて楽しい時間を過ごしました。

 大手銀行に勤務する52歳の藤原道長が,背任の容疑をかけられて妻と娘を残して失踪し,生き延びるためのニッチ(「隙間」という意味と「生息域」という二つの意味がある)を探すサバイバル小説。講演ではジョイスの「ユリシーズ」とホメロスの「オデュッセウス」への言及や,東京という都市の「今」も未来に書き残しておきたかった,と語っていたのが印象的でした。 

 下町の酒場や公園の炊き出し,段ボールハウスなど実体験に基づくサバイバルは,思わず真似をしたくなる人が続出するのではないか(少なくとも雅彦ファンは),と思えるような痛快さです。紀伊国屋ホールの講演会チラシには「会社を辞めたい人,すべてを捨てて失踪したい人,居場所を探している人,必読!」と書いてあります。必読,と言われてあっという間に読み終えた私はさあ,どこへ向かおうか。

 「もうこれ以上の発展も,進化も,成長もないと見切ったら,あとは堕ちてゆくだけである。問題はその堕ち方だ。努力空しく,騙され,出し抜かれ,敗北して,堕ちてゆくくらいなら,自らすすんで,緩やかに,フェードアウトしてゆく方が百倍ましである。」(p.58より)

2013-08-27

2013年8月,龍岩素心,季節外れの開花

 留守にしている間に,春蘭「龍岩素心」につぼみがついていました。この熱暑にまさかの初めての開花。春先にあれほど花芽を待ちわびていたのに,水やりも温度管理も放置していた間に開花するとは,もちろんうれしいけど,ちょっと複雑な心境です。「放っておいてちょうだい。自分で咲くから」とでも言いたげな2つの可憐な花。黄緑色の花弁が美しい。

2013-08-25

2013年8月,岐阜白川郷,夏の終わり

 
 金沢からの帰路,立ち寄った白川郷。早朝から世界遺産散策を楽しむたくさんの人たちで賑わっていました。ここに暮らす人たちには「普段のくらし」というのはあるのだろうか。カメラ片手に歓声をあげる自分を棚にあげて,そんなことを考えながら,小さな秋(ベタですね)を発見して今年の夏休みはおしまい。


2013-08-24

2013年8月,金沢(2),オヨヨ書林せせらぎ通り店

 金沢の中心部,武家屋敷の残る長町にオヨヨ書林せせらぎ通り店を訪れました。竪町に本店を構えるオヨヨ書林の支店というのか,のれん分けというのか,そのあたりの事情はよくわからないけれど,ここの店長は素敵な雰囲気のある女性です。古書店業は力仕事だから女性には大変というのをどこかで聞いた覚えがあり(本を運んでいて肋骨骨折した人もいるのだとか),それ以来女性の古書店主に対しては一種畏敬の念を抱いてしまいます。看板も潔くておしゃれ。

 大正6年築の元鉄工所という建物の1階。天井が高いので,背の高い書棚も圧迫感がなく,本の多さの割にすっきりした感じを受けます。ゆっくり店内を眺めて3冊購入しました。稲川方人の詩集「君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習」(書肆山田,1997)。吉増剛造の「燃えあがる映画小屋」(青土社,2001)は緑色のインクを使った署名が入っている。

 そして,数年前に夏葉社から復刊されてとても面白く読んだ「レンブラントの帽子」(バーナード・マラマッド著,小島信夫ほか訳)がレジの近くの平台に置いてあります。思わず手にとったら,「その本の原書がありますよ」とのこと。
  Rembrandt's Hat,Bernard Malamud(Farrar, Straus and Giroux, 1973)には表題作のほか,Talking Horse(「喋る馬」は柴田元幸訳でスイッチパブリッシングから出ている)など,夏葉社版には含まれていない短編を含め計8編が収められていて,これはゆっくり読んでいくのが楽しみです。装幀がとても美しく,しばらくは書棚のよい位置に面出しで置いておこう。そのままインテリアと化す可能性,きわめて大(!)ではある。

2013-08-22

2013年8月,金沢(1),アンティークフェルメール

 京都の夏を存分に楽しんで,金沢に向かいました。淡々と用事を済ませたら,あとは趣味の時間に突入!今夏も新竪町のアンティークフェルメールで楽しい一時を過ごしました。夏休みでお客さんも多く,素敵なものたちを前に興奮ぎみの私はお店にとって騒々しい客だったかも。

 あれこれ手にとって見ていると,あまりに魅力的なものが多すぎて,だんだんわけがわからなくなる。先客が選んだものを見せてもらったり,とても手が出ないようなものも棚から取り出して眺めてみたり。「博物館クラス」とはよく耳にするけれど,実際に大英博物館に陳列されているようなローマングラスの逸品を手にしたときは,思わずぞくぞく。落としたら大変だ。
 
  そしてさんざん悩んでこの2つを連れて帰る(?)ことにしました。どちらもすっぽりと手に収まるような小さなもの。スタンプボックスは縦4㎝,横5.5㎝くらい。ちょうど切手が収まるサイズです。St. Morizという文字と花はエーデルワイスのようだから,スイスのものかもしれない。ちゃんと聞いてきませんでした。

 金属製の写真立ては高さ5.5㎝くらい。これはイギリスのものだろうけど,ちょっとパリの雰囲気もあるね,ということ。スタンド部分が折りたためるようになっていて,旅行などに持ち歩いたものではないか,とも。誰の写真を入れようか,としばし思いを巡らしながら,かなりロマンチックな妄想(あくまで)にふける。この夏の旅はいつのまにかオスカー・ワイルドに取りつかれているので,ドリアン・グレイの肖像などがぴったりかと。

2013-08-21

2013年8月,京都(3),下鴨納涼古本まつり

 今年も下鴨納涼古本まつりに行ってきました。糺(ただす)の森に足を踏み入れてまぶしいばかりの樹木の緑を見あげたり,静かな小川の流れに耳を澄ますと,心が洗われる気がします。「ただす」は「直澄」(ただすむ)が由来という説もあるそう(BSの紀行番組で見たばかり)。
 古本まつり初日の日曜日,開場時間の少し前だというのにすでにたくさんの人,人,人。この暑さの中,みんなよく来るなと半ば呆れながら,自分こそ遠路はるばるやってきてることにはたと気づく。昨年の後日談として団扇とタオルと虫除けスプレーが必需品だと教えてもらい,今年は完全装備(?)で参戦しました。
 
 均一価格の文庫本や新書,古い展覧会図録などもいろいろ買ったのですが,家に帰ってから冷静に眺めると,掘り出し物と言えるのはこれくらいかなあ,という感じ。辻邦生の「パリの手記」は1巻だけは持っていたのですが,5冊揃でびっくりのお買い得価格。ラテンアメリカ文学関係はガルシア・マルケスの短編集と「越境するラテンアメリカ」(野谷文昭著,PARCO出版)。小学館の「世界の文様」は200円均一コーナーから。
 そして植物図譜を今年も1枚。これは彩色の石版画です(たしか18世紀と書いてあった気がする)。これだけ極彩色に近いものは普段なら手にしないと思うのだけれど,真夏の太陽のもと,びびびっと来ました。熱帯夜にグロテスクと紙一重の花の絵を見ていると,これもオスカー・ワイルド言うところのthe true mystery of the worldの一つではないか,とそんな気がしてきます。

2013-08-20

2013年8月,京都(2),修道院カフェ

 冷たいものでちょっと一息。カフェ「日杳(ひより)」で一日限定(8/10)で開催されていた「修道院カフェ」に行ってきました。左京区の京都造形芸術大学の校舎の近くにある一軒家のカフェ。この日だけ全国の修道院から取り寄せた美味しいお菓子のメニューを楽しめるとあって,カフェの入口は順番待ちの列ができています。入口脇の小窓。

 例えばイタリアの山間の村とか(行ったことないけど),そういうところにある修道院ならば,なんとなくその世界を思い描くこともできるけれど,「日本の修道院」となるとちょっと話が違う。一体どんな女性が,どんな決意でそこに暮らしているのだろう。そしてどんな日々を過ごしているのだろう。
 
 「多治見の修道院」のゼリーをいただきながら,日本の修道院といえば函館のトラピスチヌ修道院しか思いつかない私にとって,「多治見」に「修道院」という世界があるんだ,ということが驚きなのでした。
 この催しは今秋に発刊される「修道院のお菓子と手仕事」(大和書房)という書籍のプロモーションを兼ねているそう。書店で見かけたら,手に取ってみよう。お土産にいただいた聖母子の小さなカード(御影というのだろうか)。失くさないように大切にしまって,入口で順番を待つ人たちにちょっと会釈をしてお店をあとにしました。

2013-08-18

Books & Thingsで買った本,African Sculptureと花の写真集

 京都の夏は夕刻になっても猛烈な暑気。高麗美術館をあとにして,5月に初めて訪れてBlumenfeldの写真集を手に入れた古書店Books & Thingsを再訪しました。前回とても気になった本と,最近お店のHPで紹介されていて気になった本の2冊をゆっくり手にとって見てみたい。
 
  1冊はAfrican Folktales and Sculptures(Pantheon)。前半にアフリカの民話のテキスト,後半にアフリカ彫刻の図版という構成の本ですが,この図版の撮影をしているのはWalker Evansほか数名の写真家です。それぞれの写真にクレジットはついていませんが,Indexを見ると“photo by Evans”のように撮影者がわかるようになっています。
 
 あらためて図版のページをめくると,Evansの撮影したものと,いかにも美術館の図録写真のような写真とでは明らかに写真の力が異なっているのがわかります。店主の小嶋氏がとても丁寧に説明をしてくださり,Evansの他の写真集もたくさん見せてもらいました。そして最終的にこの本を購入することに。表紙がIfeの頭像なのも心が動いた理由の一つ。
 
 
 もう1冊はNaked Flowers Exposedというタイトルの美しい写真集。おもにファッション写真を撮影する写真家100人が参加した花へのオマージュ写真集です。Herb Rittsの撮影したセピア調の美しい1枚がこの本の白眉。
 
 見開きの右ページに写真,左ページにはタイトルや写真に関連した文章などが配置されています。Walter Chinという写真家の撮影した1枚(アマリリスを頭に飾る妖しい美しさの男性のポートレイト)にはThe true mystery of the world is the visible, not the invisible.というオスカー・ワイルドの文章が寄せられていて,ちょっとぞくぞく。
 
 ところでお店のHPの紹介文には,この本に用いられているタイプフェイスに関する言及もあり,Futuraという名称のこのタイプフェイスは「ドイツのグラフィック・デザイナー Paul Renner が1927年にデザインしたシンプルで美しいタイプフェイスである」(Books and ThingsのHPより)とのこと。書籍や写真に対する店主の深い知識と美意識が隅々にまであふれる気持ちのよい店内で,外の暑さも忘れて時間を過ごしました。

2013-08-17

2013年8月,京都(1),高麗美術館

 京都に行くと必ず高麗美術館に立ち寄ります。小さな美術館ですが,年間を通してテーマを絞った企画展が開催されていて,いつ行ってもはずれがないというか(失礼な物言いですね),新しい発見があって大好きな美術館です。堀川通りをまっすぐ北上して,賀茂川中学前というバス停からすぐのところにあります。入口に佇む武官像。
 
  8月11日まで開催されていた「朝鮮の絵画と仏教美術」展も心に残る展覧会でした。「仏教絵画を中心とした朝鮮絵画と仏像や金工品の名品」(展覧会チラシより)が1階展示室に静かに並んでいます。実は仏像はそれほど惹かれないのですが(「仏像ガール」の皆さまごめんなさい…),こういう「朝鮮美術」というくくりの中で見ると,その素朴な表情や佇まいが本当に美しいなあ,と思う。

 そして今回,「十牛図」(19世紀)の素朴な画面にすっかり虜になりました。「十牛図」は「禅宗において行者が悟りの境地に至るまでの心理を,牛を追い求める姿に喩えた説法図」(展覧会チラシより)。展示されているのは赤い服の少年の「尋牛見跡図」と,ありがたいお顔の老人の「入鄽垂手(にってんすいしゅ)図」の2点。

 調べてみると,「十牛図」は中国伝来のものや日本の室町以降の禅僧の手によるものは絵のみのものが多いということですが,今回展示されているのは頌が加わり,円景の中に描かれた画とのバランスが美しく,とてもかっこいい(畏れ多い)。画は素朴で,朝鮮の民画の雰囲気そのものです。

 なんともタイムリーなことに,翌日訪れた下鴨神社古書市で「十牛図:自己の現象学」という面白そうな古書を発見。すぐに買えばよかったものを,増え続ける荷物を一旦駐車場に置いて戻ってきたら,どの店かわからなくなってしまいました。諦めきれずに,帰宅後某古書ネットで注文しました。届くのが楽しみ。 
 

2013-08-16

2013年盛夏,残暑お見舞い

 厳しい暑さが続いています。この夏休み,京都と金沢にでかけてきました。今年も下鴨納涼古本まつりを楽しみにでかけましたが,ほかにも楽しいイベントが目白押しの夏でした。古書や古いものもどっさり収穫(?)してきました。少しずつ整理しながら,アップしていきます。
 
  金沢からの帰路,東海北陸自動車道を利用して白川郷にも初めて立ち寄りました。早朝の合掌づくりの村はとても気持ちのよい風景でした。清々しい色の蓮の花。

2013-08-06

古いもの,花のブローチ

 金沢のアンティーク・フェルメールがとても素敵なHPを更新していて,「選ぶ眼」を持つ人の「選んだもの」を見たり読んだりするのは,店舗で漫然と見ているのとは別の次元の楽しさがあります。鳥のモチーフのブローチなど,こんな素敵なものがお店にあったのか,と是非次回,見せてもらおうと楽しみになります。
 
  コレクションなどと言うもの恥ずかしいですが,少しずつ私の手元に集まった古いものたちは,花のモチーフが多いかもしれない。花のブローチたち。右の二つはフェルメールで買ったもの。左の二つは昨年,ロンドンのアレクサンドラパレス・アンティークフェアで買ったもの。実用として身につけることもありますが,抽斗にしまって時折取り出して眺めて楽しむことの方が多いかも。

 古いものは,それぞれが長い時間をかけて距離的にも心理的にも遠い遠いところから私のところへ来てくれた,という思いがあって,いつまでも眺めて見飽きるということがありません。

2013-08-04

2013年8月,ミューザ川崎,神奈川フィルのマーラー

 「フェスタサマーミューザKAWASAKI」,8月1日の神奈川フィルハーモニー管弦楽団のマーラー交響曲第1番「巨人」を聞きにミューザ川崎にでかけました。長く休館していましたが,リオープンしての夏フェスです。プログラム表紙には「オーケストラの夏が帰ってきた!!」という文字が躍ります。

  クラシックは気に入ったCDを繰り返し聴くばかりで,コンサートにでかけるのも久しぶり。今回もマーラーを聴きたいというよりは,指揮者の金聖響さんとコンサートマスターの石田泰尚さんの演奏を見たい(?)という,かなりミーハーかつ不純な動機です。

 ミューザ川崎はステージが低いので,1階の正面席に座ると弦楽器奏者と同じくらいの高さに自分の眼と耳が位置する感じ。トランペットも上へ向かう音がまず自分の真正面に飛んでくるようで,ちょっと面食らう。「突然の嵐を思わせる」(プログラムより)最終楽章はその迫力にぽかんと口が開いてしまって,鳴り止まない拍手と歓声に包まれた終演後にはっと我に返る。
 誰もいなくなったステージ。ホールには余韻が充満しています。これぞカタルシスという気分を味わって,もっと頻繁にクラシックのコンサートに足を運ぼうと心に決めた夏の午後。


2013-08-03

写真集,「Circulation」(中平卓馬)

 金村修氏がトークで言及した中平卓馬のCirculationは,とても大切にしている写真集です。1971年にパリ青年ビエンナーレに参加したときの《Circulation: Date, Place, Events》が金村修の手によるプリントで1冊にまとめられ,2012年にオシリスから出版されたもの。
  当時,中平卓馬はパリの街で無差別に撮影した写真をその日のうちに現像・展示するという手法を選択。日々増殖する写真は壁から床へと張り巡らされていきますが,最終日を待たずに主催者と決裂,写真家は写真を剥がして帰国してしまいます。

 その後の写真家の人生も含め,伝説的なエピソードに引きずられて見てしまいがちなのだけれど,ページをめくるごとに目の前に現れるパリの街,車,テレビの画面,印刷物の表面,何もかもが均質な現実世界であり,強烈な磁場のような魅力をたたえていて,もはやこれらの写真は私にとって好きとかお気に入りという言葉の範疇を軽々と超越してしまう。

 2003年に横浜美術館で開催された「中平卓馬 原点復帰-横浜」展の図録に掲載されている倉石信乃氏による解説文には,この作品について次のように言及している部分があります。

 「中平によれば,毎日200枚,合計約1500枚の写真が展示されたという。中平は本作について,『一枚一枚の写真はぼくの内的イメージの表出ではない。それは現実を指示する記号なのだ。(略)』と記している。こうして,眼に映る次元の異なる事物/情報を,すべて二次元の平面に置き換え並列するという,無差別的・等価値的な写真原理を鮮やかに具現化して見せた。あらゆる価値のヒエラルキーを等価に均すこの作品では,現代社会を規定する写真(映像)の無秩序な氾濫という『陥穽』を逆用して,写真による即物的・アナーキズム的な『対社会的反撃』も含意される」(p.134)