2019-03-31

2019年3月,桜の季節

  満開の桜の季節。今年も,建畠晢氏の詩集「そのハミングをしも」に所収の「反・桜男」を想って花の下を歩きます。以前,ここで引用したのは2013年だから,それからもう6年も経っていることにびっくり。毎年,平積みにされた大量の桜男たちの出荷が繰り返されるこの社会の片隅で,反・桜男として生きていくのはとても難しいこと。しかし!私もまた詩人の顰に倣って,彼らを注釈する側には立つまい!

 もう1つ,思い出すのは鈴木理策の吉野桜。一体,桜を見ている私はどこにいるのか,写真家がレンズの向こうに見たのは此岸の世界なのか,それとも彼岸の世界なのか。にぎやかな笑顔やかわいい子供たちの声があふれる公園をそぞろ歩きながら,こんなヘンテコなことを考えてしまうのは,反・桜女の証拠なのだ,と開き直ってしまおう。

2019-03-24

2019年3月,埼玉北浦和,「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」

  久しぶりに北浦和へ向かう。埼玉県立近代美術館で開催中の「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」展はとてもスリリングだった。実現しなかった建築の展覧会である。展覧会イメージでは「インポッシプル」の上に線が引かれている。削除?それとも強調?
 
  建畠晢館長のインタビュー(ソカロ2・3月号)を読むと,「『インポッシブル』の語をタイトルに持ちながらも,一種の可能性への意識をはらんだ展覧会の構想になっているのです。(略)『ポッシブル』と緊張関係にある対の概念として『インポッシブル・アーキテクチャー』のタイトルがふと思い浮かんだわけです。インポッシブルは,ポッシブルに対する批評的オルタナティブであるといってもよいでしょう」とある。

 なるほど,あり得たであろうもう一つの建築史をたどることができる。入口はタトリンの「第3インターナショナル記念塔」で,最後はザハ・ハディドの「新国立競技場」だ。通常の(というべきか)建築展は,完成した建物の写真の展示が重要な構成要素だけれど,この展覧会にはそれがない分,見る者の想像力が試される。

 やはり最後のザハ・ハディドの展示は息が詰まるような緊張感に包まれている。建築家の早逝という悲劇も重なって哀しい。そうかと思えば,会田誠と山口晃の機知溢れる作品には思わず脱力。

 そして今展で一番ツボだったのは川喜田煉七郎の「霊楽堂草案」。山田耕作「音楽の法悦境」に書かれた理想の奏楽堂の実現案として立案されたものらしく,演奏には「絶対の孤独と沈黙」が必要だという理念に基づくのだという。

 実はこの展覧会を見る前日の夜,代々木上原でアドリアン・シュミットのピアノリサイタルを聴いた。すばらしいショパンだったのだけれど,およそ「孤独と沈黙」とは程遠い聴衆の態度が気の毒だったし,残念だったのだ。そんなわけで,「霊楽堂草案」に思わず喝采というわけ。 

2019年3月,東京初台,「石川直樹 この星の光の地図を写す」

 世界中を旅する写真家,というイメージの石川直樹の写真展を見に行く。最終日も近く,会場内は混雑していた。若い人も年配の人も男性も女性も石川直樹の撮った世界に見入っている。すべてフィルム撮影だという。
 南極も北極も,ポリネシアもヒマラヤも,写真家が見つめる世界はもちろん美しく情熱的で観客の心を捉えるものばかりだ。ただ,ふと思うのは,彼は何に導かれて「そこ」へ行くのだろう,ということ。干してあるシロクマの毛皮や一面の氷の世界,先史時代の壁画,そうかと思えばポリネシアの漁をする人々の逞しい肉体。
 
 共通するものは,地球への愛なのか?というおよそ安易で単純な答えを用意して,展示の最後の「石川直樹の部屋」に足を踏み入れたとき,頭をガツンとやられた。愛読書の本棚が展示されている!そして「僕の旅は本から始まる」という自筆のメモ!
 
 ああ,そうか。1冊の本を読んで次から次へと導かれていくあの興奮,それがそのままこの写真展を見る悦びになっている! 
 
 かなり興奮して,本棚を隅から隅まで拝見。楽しかった。ル・クレジオ「地上の見知らぬ少年」には数えきれない付箋が挟んである。「海を見たことがなかった少年」と同時期に書かれたものらしい。スーザン・ソンタグの著書も多い。思わず読んでみたくなる本ばかり。世界と人をつなぐものは言葉なのだ,と何やら満ち足りた気持ちを抱いて会場を後にした。 

2019-03-09

読んだ本,「ある男」(平野啓一郎)

 
   平野啓一郎の「ある男」(文藝春秋 2018)を読了。読み終えて,主人公は城戸章良「だった」のだろうか,と思わず序文を読み返すという奇妙な体験をした。ストーリーは,弁護士の城戸が,戸籍を交換して別人として生きて死んだ「X」の正体を追うというものだが,過去と未来,在日の民族意識,愛とは芸術とは,と羅列していくときりがないほどの内容が詰め込まれている。
 
 いつもながらの平野啓一郎の文体で,登場人物に作家の思索を語らせる。巧みな展開に,寝る間も惜しんであっという間に読み終えた。そして,ひどく疲弊した。私はこの数日間,何を読んでいたのか。今となってはそれは「私という読者の過去」の一部分だ。
 
 平野啓一郎はなぜ,まるで城戸も「X」も実在の人物であるかのように読者に刷り込む「序」を書いたのか。そもそも城戸という主人公の「小説」はどこに存在しているのだろう。うまく言葉にできない。ただ,この作家の背中を私は追い続けるだろうという確信だけが今,ある。城戸が「X」を追いかけたように?
 
 一番印象に残ったのは,ストーリーとは関係のないこんなくだり。「城戸は,広告表現の芸術性といった通念を脳裏に過ぎらせた後に,寧ろ,芸術表現の広告性をこそ議論すべきなのではないか,と考えなおした。(略)芸術とはその実,資本主義とも大衆消費社会とも無関係に,そもそも広告的なのではあるまいか? 例えば,燃えさかるようなひまわりの花瓶がある。草原を馬が走っている。寂しい生活がある。戦争の悲惨さがある。自ら憎悪を抱えている。誰かを愛している。誰からも愛されない。…すべての芸術表現は,つまるところ,それらの広告なのではないか?」(pp.195-196)

2019-03-02

読んだ本,「すべての、白いものたちの」(ハン・ガン)

  「すべての、白いものたちの」(ハン・ガン著 斎藤真理子訳 河出書房新社)を読了。ハン・ガンの著作を読むのは初めて。訳者の斎藤真理子氏の仕事に関してはいろいろなところで絶賛する記事を読んでいたので,期待度満点,そして読み終えてひたすら感服している。ハン・ガンの描く世界に,そして訳者の見事な手腕に。

  原著タイトルの「흰(ヒン)」は「白」を意味する。本の装丁も5種類の白い紙を使った造本もひたすら美しく,哀しい。

 この本は短編集でも詩集でもない。断片的な文章と,ところどころに写真が挿入され,さまざまな「白いもの」が登場する。「白」は産着であり,白装束であり,雪であり,鳥である。「すべての白いものたち」を丹念に集めていく行為は,死者を悼む行為であり,そして死者とともに生きていく行為なのだ,ということを全編を通して読者は知る。

 「白く笑う」など,韓国語独特の表現も覚えた。「途方に暮れたように,寂しげに,こわれやすい清らかさをたたえて笑む顔。またはそのような笑み。」(p.101) なんて美しい日本語訳だろう。

 ただ,ハン・ガンにとっての「死者」の存在はあまりに重く暗く,そして哀しすぎる。読者である私にとっても個人的に辛い想いが被さってきたのだが,ハン・ガンは静かにその存在に別れを告げて,生きていく。ああ,そうだ,生きていけばいいんだ。

 「しなないで しなないでおねがい。/言葉を知らなかったあなたが黒い目を開けて聞いたその言葉を,私が唇をあけてつぶやく。それを力こめて,白紙にかきつける。それだけが最も善い別れの言葉だと信じるから。死なないようにと。生きていって、と。」(p.175「わかれ」)