2014-05-31

2014年5月,東京駒沢,「禅画・禅籍を楽しむ」展

  駒澤大学の構内にある「駒澤大学禅文化歴史博物館」で開催中の企画展「禅画・禅籍を楽しむ」を見てきました。副タイトルは「大学の知られざる逸品」。普段はなかなか見ることのできない,大学所蔵の貴重資料が公開されているとのこと。そういえば,東京国立博物館で見た「栄西と建仁寺」展にも駒大所蔵の「正法眼蔵」(道元筆)が出展されていました。土曜日のお昼時,学生さんたちの若さが眩しい(!)キャンパス内を博物館へと向かいます。

 正門の脇で美しい花をつけているのは「栴檀(センダン)」。これは白檀のことで,インド伝来なのだそう。大好きな香りの白檀が,こんな可憐な花をつける木だったとは。

 博物館の展示は1階が常設,2階が企画展ですが,2階の展示スペースは広くありません。1階と2階の展示を合わせて,貴重な資料が公開されていると考える方がよさそうです。

 1点ずつの解説がとても詳しく,浅学の身にはとてもありがたい。 「禅問答(公案)と禅籍」のコーナーには現代語訳,「中国と日本の禅籍」を並べたコーナーでは印刷技術の紹介も,といった具合。

 そして展示の中で一番興味深かったのが「絵入牧草(えいりうしかいぐさ)」(1669)。これは「江戸時代初期に流行した仮名草子の文体を模して十牛図になぞらえたもの」だそう(展覧会図録P.16)。昨夏,京都の高麗美術館で朝鮮の十牛図を興味深く見たので,それが日本に伝わったものだと思うと,展示室の自分の周りの時間と空間が一気に広がっていくようなくらくらした感覚を味わう。

 十牛図については,面白そうな本を購入したものの,積ん読状態。そのうち,と言っていたら人生の残り時間がいくらあっても足りなくなりそう。

2014-05-25

読んだ本,「わが悲しき娼婦たちの思い出」(G・ガルシア=マルケス)

 「わが悲しき娼婦たちの思い出」(G・ガルシア=マルケス著,木村榮一訳 新潮社)を読む。「ガルシア=マルケス全小説」シリーズの1冊。このシリーズはカバー装画が私のハートにドンピシャ(昭和っぽい)とくる。かなり前にワタリウムでグループ展を見た作家だが,Silvia Bachli(ワタリウムのHPでは,シルヴィア・ベッヒュリと表記されている)のシンプルなドローイングはまるで水墨画のようだ。日本のマルケス読者の好みに合うに違いない,と新潮社の装丁室が選んだのだろうか。まさに術中にはまったというか,読んだことのある本もこのシリーズで揃えたくなる。
 この小説は90歳の主人公が,自分の誕生日に「うら若い処女を狂ったように愛して,自分の誕生祝いにしようと考え」るところから始まる。こんな怪しげな小説があるだろうかと思いながら,あきれるほど元気なこの主人公に振り回されるようにして一気に読み終えた。
 
 物語の設定から想像される秘密めいた淫靡な世界とはまったく異質の,前向きでたくまざるユーモアにあふれた老人小説ではある。なぜガルシア=マルケスは77歳にしてこの小説を書いたのだろう?
 
 と,読み終えて訳者あとがきを読んで愕然とする。1985年に書かれた「コレラの時代の愛」とこの作品に関する詳細な分析がある。私はこの長編は未読だ。そしてこの分析には、「コレラ...」の詳細なあらすじ(結末を含めて)が記述されている!
 
 それはないだろう,と思う。同じ作家の他作品や,他の作家の作品と読み比べるのがラテンアメリカ小説を楽しむ愉悦のはず。「コレラ...」を読む楽しみが半減してしまったなあ,と一つ溜息をついた。それにしても,老人のこんな独白は,まるで自分に向けられているようで,いつまでも脳裏に残る。
 
 「彼女のおかげで,九十年の人生ではじめて自分自身の真の姿と向き合うことになった。私は,事物には本来あるべき位置が決まっており,個々の問題には処理すべきときがあり,ひとつひとつの単語にはそれがぴったりはまる文体があると思い込んでいたが,そうした妄想(オブセッション)が,明晰な頭脳のもたらす褒賞などではなく,逆に自分の支離滅裂な性質を覆い隠すために考え出されたまやかしの体系であることに気がついた」(p.74より引用)
 
 「五十代は,ほとんどの人が自分より年下だと気づいたという意味で,決定的であった。六十代は,自分にはもう誤りを犯すだけの時間が残されていないと考えたせいで,密度の高いものになった。七十代は,これが最後の十年になるかもしれないというので,不安な思いを抱いた」(p,119より引用」

2014-05-18

読んだ本,「疎外と叛逆 ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話」(寺尾隆吉訳)

 「疎外と叛逆 ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話」(寺尾隆吉訳,水声社 2014)。亡くなったばかりのガルシア・マルケスの追悼文をあちらこちらの読書欄や書評欄で見かけるタイミングで,2014年3月に発行されたばかりのこの本を注文して読んでみた。
 親友同志だったというマルケスとジョサだが,1976年に映画の試写会という公の場で久しぶりに再会したとき,ジョサはマルケスの顔面にいきなり強烈なパンチを浴びせたのだという。訳者あとがきによれば,ラテンアメリカ文学史上,もっとも衝撃的な場面と言われているらしい。あまたの読者と同様,この本の訳者もまた「一体何があったのだろうか?」という疑問を呈示している。
 
 とはいえ,この本がその謎の単純明快な解答を指し示しているわけではない。二人の(巨人)作家の文学論や人生観を,その対話を通して垣間見ることができるだけであり,そこから読み取るには読者としての力量が求められる,そんな本だと言えそうだ。
 
 私は読み通すのにかなりのエネルギーが必要だった。そして解答はこれからずっと,二人や他のラテンアメリカ文学作家の作品を読みながら考え続けるだろうという,予感とも諦念とも言い難い感情に囚われている。
 
 「文学,とりわけ小説には一つの機能があることがわかってきました。幸か不幸か,その機能は破壊的とでも言えばいいのか,ともかく,私の知るかぎり,優れた文学が既成の価値観を称揚するようなことは皆無なのです。優れた文学は常に,既成のもの,当然として受け入れられているものを破壊し,新たな生活形態,そして新たな社会を打ち立てよう,言ってみれば,人間生活を改善しようと志向するのです」(ガルシア・マルケスの発言;pp18-19より引用)

2014-05-17

2014年5月,東京上野,「キトラ古墳壁画」展

 東京国立博物館では「キトラ古墳壁画」展も見てきました。会期終了も近く,待ち時間は2時間近くという表示が続いています。先週の休日の夕刻を狙ってみたところ,それほど待ち時間は長くなく,覚悟して出かけたわりにはスムーズに展示を見ることができました。
今回の壁画は四神のうち「朱雀」「白虎」「玄武」と十二支像のうち「子」「丑」の展示です。切り取られた壁画の形に合わせた保存ケースがガラスケースの中に鎮座していて,それを「立ちどまらないでください!」という声に促されながら覗き込むことになります。

 できればガラス越しじゃなくて一点ずつじっくり眺めて古代のロマンに浸りたいものだなあ,と思いながらも,自分もこの混雑を構成する一人なわけで。短い時間ではありましたが,はっきりとその奇怪な姿で21世紀の私たちの前に現れた「玄武」を見ていると,時間の流れとその堆積というものに思わず感激。 

 古墳内部へは入れなくても,明日香という場所で見るとまた違う感慨があるだろうなあ,奈良なんて中学の修学旅行以来行ってないなあ,と表慶館で併催されていた明日香村の紹介コーナーで旅行パンフレットなどもらって博物館を後にしました。

2014年5月,東京上野,「栄西と建仁寺」展

 久しぶりに上野にでかけて,東京国立博物館で開催中の「栄西と建仁寺」展を見てきました。栄西は「えいさい」じゃなくて「ようさい」と読むのか,とそんなところからでしたが,会場の展示には大興奮。

 四頭茶会(よつがしらちゃかい)を再現する空間と,その茶会の様子の映像には思わず前のめりになります。茶道の原形という茶会ですが,客の差し出す茶碗に立ったまま右手の茶筅で茶を立てる僧の姿にびっくり。「禅と日本文化」(鈴木大拙)の茶道の項で確かめよう,と心にとめる。

 前半の展示は,栄西や建仁寺ゆかりの僧たちの肖像や墨蹟などなど。後半の「建仁寺ゆかりの名宝」はがらりと趣が変わり,禅寺の象徴としての「お宝」の数々に圧倒されます。

 もちろん,今回の展覧会のイメージになっている俵屋宗達「風神雷神図屏風」の迫力は圧倒的ですが,中国や朝鮮半島渡来の書画も素晴らしいものばかり。なかでも「架鷹図」という八幅のうち四幅にくぎ付けでした。鷹が止まる台(何というのだろう,これから調べてみます)に貼られた布の文様がとても美しい。「中国明時代または朝鮮・朝鮮時代 15世紀」とあります。来歴がはっきりしないというのも,なんとなく心惹かれます。

2014-05-13

読んだ本,「夢のなかの夢」(アントニオ・タブッキ)

 アントニオ・タブッキ「夢のなかの夢」(和田忠彦訳 岩波文庫)を読む。訳者あとがきによれば,この二十の連作短編断章はタブッキが愛娘から贈られた手帖に綴ったものだという。本書の扉には作家のこんな言葉が静かにたたずんでいる。「わが娘テレーザに  きみが贈ってくれた手帖からこの書物は生まれた」。このエピソードにまず,ぐっときてしまう。
タブッキは他人の夢を3人称で語る。しかもひとりの芸術家のある特定の夜を選んで,その精神世界を物語にするという行為。タブッキの批評家としての深い仕事の一つなのだろう。

 カラヴァッジョ,ゴヤ,ランボー,そしてペソア。テレーザの手帖に描かれた,タブッキが夢見た彼らの夢,という幾重にも層を成す物語をなぞっていく。何といってもおもしろかったのがフェルナンド・ペソアの夢。

 タブッキは彼を「詩人にして変装の人」と呼ぶ。南アフリカにカエイロを訪ねていくペソア。「カエイロはため息をもらし,それから微笑んだ。長い話になるが,とかれは切り出した。(略)きみなら理解してくれるだろう。これだけは知っておいてほしい,わたしはきみだということを。/わかりやすく話してください,とペソアは言った。/わたしはきみの心の一番奥深い部分なのだ,とカエイロが言った。きみの闇の部分なのだよ。」(p.103より引用)

 カエイロはペソアが造り出した多重人格者のなかで大きな比重を占める人物で,訳者あとがきによると,カエイロがペソアのなかに誕生した日が1914年3月8日。そしてこの夢の物語の書き出しはこんな一行だ。「1914年3月7日の夜のこと,詩人にして変装の人,フェルナンド・ペソアは目覚めの夢を見た」(p.101)。

 タブッキが描いたペソアの「その日の夢」に誘われ,読者である私は,自分が今どこにいて何を見て何を読んでいるのか,もはや判然としない感覚に陥る。

2014-05-06

2014年5月,東京駒場,「《終わりなきパリ》,そしてポエジー」展

 東京大学駒場博物館で開催中の「《終わりなきパリ》,そしてポエジー」展を見てきました。これはアルベルト・ジャコメッティとパリの版画展です。ジャコメッティの版画集《終わりなきパリ》連作を,「同時代の詩人たちの言葉との響き合いの空間に解き放つ」展示(チラシより)。博物館ファサードの装飾が美しい。
  版画がぐるりと展示された壁の一面に,プロジェクションで詩人の言葉が映し出され,ときおりパリの街の音が駆け抜けていくという演出です。かしゃ,という音とともに映し出される詩篇をじっくりと眺めてしまう。フランス語詩の翻訳は会場入り口で配布されます。

 ボードレールやランボー。レイモン・ラディゲの「親愛なる友よ,ただちに錨をあげよう。インク壷は海のように悲しい」。ジャコメッティ自身の言葉,「いたるところこの限りない豊かさ,いたるところ」は壁面の版画のストイックな描線とまさに「響き合い」ます。

 この展覧会のチーフ・キュレーターは東大教授の小林康夫氏。アシスタント・キュレーターの桑田光平氏が詩句のパッセージの選定と訳を担当したということ。小林教授のちょっと柔らかめ(?)のコメントが展示室のあちこちに掲示されていて,とても楽しい。パリ・パサージュのコーナーはマネのオランピアの版画に始まり,ゴーギャン,ニコラ・ド・スタールなど。今井俊満や菅井汲の作品もあって盛りだくさんです。

 関連書籍のプリントには「光のオペラ」(小林康夫著,筑摩書房 1994)もラインアップされています。「ジャコメッティ的凝視」という論考が所収されているとのこと。実はこの本は著者署名本(しかも献呈!)を持っているのです(えへん!)。しかし,中身は忘却の彼方。早速読み返すことにします。

2014-05-04

2014年5月,鈴蘭の花,古いポストカード

 4月から職場が変わり,いっぱいいっぱいの日々が続いています。連休でちょっと息をついているところ。この場所もほとんど更新できずにいましたが,少しずつアップしていきます。新しい職場の近くには,よく雑誌でもとりあげられるお洒落な古書店もあり,ちょっと面白い本も手に入れました。そんな話題もいずれまた。
 5月に入って,すずらんが開花しました。とてもよい香りです。5月1日にすずらんを贈ると相手が幸せになる,と聞いたことがあります。自分へも贈ってみよう。幸せになりたい(切実すぎる?!)。
 
 かなり前に,金沢のアンティーク・フェルメールで買った鈴蘭のポストカード。1940年の消印が押してあります。可憐な写真にちょっとアンバランスな無骨な文字が躍ります。オランダ語かな?黒インクの筆跡が素敵で,私もインクを使って誰かに手紙を書きたくなってきます。