2017-12-17

読んだ本,「孤独な散歩者の夢想」(ルソー),「武蔵野夫人」(大岡昇平)

 この2冊のタイトルでピンと来たら,かなりの雅彦ファンと言えるかも。先週のこと,日本文学振興会が主催する「人生に,文学を。」という連続講座を聴講してきた。講師は島田雅彦氏。講演のタイトルは「歩け,歩き続けよ」。場所は駒場の日本近代文学館。空気が冴え,寒さもまた一興の絶好の散歩日和だった。
  講義のタイトル通り,人類は直立歩行によって脳が発達したというところから真面目に始まる。好奇心というものを得たホモサピエンスは,「『これは何だ』という疑問を持ち,『この花はきれいだ』などとグレたことを言うようになった」というあたりから島田読者のハートが騒ぎ出す。

 そして,人間のほっつき歩く習性・本能をテーマに,話はオデュッセイアからドストエフスキーやカントへと飛び,課題図書であるルソーの「孤独な散歩者の夢想」について。青柳瑞穂訳の新潮文庫は200頁足らずの薄さだが,それほど読みやすい内容ではない。しかし。島田氏はこう言うのである。「社会から満場一致で締め出されたオヤジのグチと気付きのメモであり,私小説」。

 課題図書というから必死で眠気と戦いながら読み通したのに,とグレたくもなる。真面目に付箋をつけた個所も後で読み返すとオヤジのグチかと思うと少々むなしい。そんな一部分から。

 「僕は長い一生の有為転変の中にあって気づいたのだが,最も甘美な享楽と,最も甘美な快楽の時代というものは,その追憶が僕を最も惹きつけ,感動させる,そういった時代では案外ないものである。あの夢中と熱狂の短い時間は,それがどんなに激しかろうとも,また,その激しさそのもののために,実は人生という線の中のまばらな点々にすぎないのである。」(p.101より)

 大岡昇平の「武蔵野夫人」については,日本近代文学における「(西洋式の)風景」の発見という役割を担った小説であるという。戦争から帰った若者(勉)の視点として,「戦争に敗れた」=「神は死んだ」あとに残ったものとしての武蔵野の自然が描かれているのだが,ひねくれた登場人物たちの毒がこもった独白が私には印象深い。そんな一部分から。

 「秋山の眼は窓外に富士を探していた。彼は風景を愛してはいなかったが,彼がここを選んだのは,実は「はけ」から見える富士を眺めながら,「はけ」の人々に不実を働くという奇妙な悖徳趣味からであった。」(p.116より)

 2冊の本と,島田雅彦氏の語りの「地」の部分とが絶妙に交差して,自作を語る場とはまた異なる楽しい時間だった。散歩=徘徊とはテーマを持って思考を紡ぐのとは別のオープンな状態なのだ,と言い,都市や街を歩くことはそこに刻まれたデータを読むことであって,本を読むより面白いと締めくくった。いいのか。作家がそんなことを言って,と思わずツッコミたくなる。

 蛇足ながら,芸術家の晩年を語る中で,ベートーベンのピアノソナタ32番の2楽章について,「ジジイになったベートーベンの知性が雑多に,ゆるくなっていった」曲と評していたのが可笑しかった。もう一つ,「徘徊」はペルシャ語で「チャランポラン」と言うのだとか!

2017-12-03

2017年12月,東京世田谷,「あこがれの明清絵画 日本が愛した中国絵画の名品たち」

 泉屋博古館分館で開催中の「典雅と奇想」展の連携企画という「あこがれの明清絵画」展を見に世田谷の静嘉堂文庫美術館を訪ねました。12月17日までの開催です。「典雅と奇想」展のチラシは八大山人の魚図が中央に配置されていますが,静嘉堂のチラシは沈南蘋(しんなんびん)のネコ。2枚並べるとネコが魚を狙ってるのだとか?(ホントか??)チラシは少し騒々しいデザインですが,ハンドブックはシンプルな装丁です。
 「典雅と奇想」展と作家は重なりますが,この展覧会は「日本人が憧れた明清絵画」という視点なので,日本の画家たちの手になる模本や跋文なども展示されていて,なるほど「若冲,応挙,谷文晁も,みんな夢中になった…」というコピーに頷けます。
 
 李士達(りしたつ)の代表作という「秋景山水図」や,美しい余崧(よすう)の百花図巻など,時間を忘れて見入ります。そして陳曽則(ちんそうそく)の「蘭竹図」の前では思わず釘付けに。さりげないというのでも洒落ているというのでもない,見る人を惹きつけてやまない静かな威厳みたいなものにすっかりノックアウト。
 
 江戸時代の著名な文人たちが所有したとかで,「石は篆書に似て,蘭は隷書に似て,竹は行書に似て,落款は草書に似ている」という跋文にも,なるほど,書画の世界はこうやって楽しむのか!と目から鱗が落ちる思い。
 
 しかし。。すっかりのぼせていたのでこれは誰の跋文なのか(頼山陽だったか。。),ちゃんとメモをしてこなかったオマヌケに我ながらがっくり。これは会期中にもう一度足を運ばなければなりませぬ。

2017-12-01

2017年11月,富山環水公園,富山県立美術館

 先週末のこと,所用で冷たい雨の北陸へ。北陸のこの季節は好きではありません。空が低く,暗く,そして寒い。でもこの日は今年開館した富山県立美術館を訪れて,とにかくびっくり。快晴の日には立山連峰を見渡す素晴らしい眺望らしいのですが,この日はまるで北欧にいるかのよう(行ったことないけど)なモダンで洒落たデザインの空間が灰色の空に映えて大感動。建物は運河に面し,それだけで日本じゃないみたい。
  一番楽しみにしていたのが瀧口修造コレクション。富山県立近代美術館が閉館・移転すると聞いたとき,その扱いがどうなるのかと思っていたら,こんなに美しい空間に収まるとは!書斎にあふれる漂流物が静かに雄弁に語りかけてきます。奥にはデカルコマニー「私の心臓は時を刻む」から二十点ほどが並び,いつまでもいつまでも立ち去りがたい。(写真左。ピンボケです。雰囲気だけ。) 
  企画展は「素材と対話するアートとデザイン」展で,この美術館の核となる理想が観客に伝わってくる気持ちのよい作品ばかり。エマニュエル・ムホーのCOLOR OF TIMEはスケールの大きい美しいデザイン。(写真右)
 
 他に,コレクション展の椅子の展示の様子。ミュンヘンのピナコテーク・モデルネのデザイン展示を連想して,ますます日本じゃないみたい気分が盛り上がります。ここのところ家族の事情で全然海外旅行に行けてないので,ナイスな気分転換となりました。

読み返した本,「夜想曲集」(カズオ・イシグロ)

  カズオ・イシグロをどんどん読み返す。「夜想曲集」(土屋政雄訳 早川書房 2009)は短編集で,実は初読の印象が残っていない。どんな本だっけ,と思いつつ手に取って埃を払う。そしてあっという間に読了して,こんなに面白かったっけ,と思う。
  「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副タイトルが語る通り,音楽と夕暮れを背景に,どの物語も男女の危機が描かれる。それぞれ独立した物語が微妙に絡まり合う状況を読者は楽しむ。そして長編「充たされざる者」への緩やかなつながりを思わせる第四編のように,カズオイシグロの世界へと導かれていく感覚を味わった。読みやすくて読後感も気持ちよいので,初めて読む人にはこの本を勧めるかもしれない。

  「ヘレンが電話を切る直前,おれは「愛してるよ」と言った。夫や妻が電話の最後に決まってつけるあの早口の一言だ。数秒間の沈黙があって,ヘレンも同じ口調で同じことを言い,電話を切った。いったいどういう意味だったのだろう。ともあれ,包帯がとれるのを待つ以外,いまのおれには何もすることがない。とれたらどうなる?リンディの言うとおり,頭を切り替える必要があるのだろう。人生は,ほんとうに一人の人間を愛することより大きいのだろうか。」(「夜想曲」 p.208より)

2017-11-26

2017年11月,東京駿河台,秋のラスキン講演会「漱石とラファエル前派」

 上野でJ.W.Waterhouseや「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を見た直後ということもあり,ラスキン文庫が主催する講演会「漱石とラファエル前派」展を楽しく聴講してきました。会場は中央大学駿河台校舎です。ラスキン文庫そのものは銀座のミキモトビルに入っているらしい。
  「夏目漱石の美術世界」展を見てからずっと「漱石はどの『シャロットの女』を見たのか」が疑問だったわけですが,講師の一人が芸大美術館の古田亮氏ということ。著作を探してみると2014年に岩波現代全書から「特講 漱石の美術世界」が出版されています。第1講によれば,2013年の上記展覧会の図録所収の論文などもベースになっているようで,図録を買いそびれてしまった私には非常にありがたい1冊。

 そして,結論から言えば上記の疑問もこの本の丁寧な解説で納得。そう,確証はないのです。しかし,漱石の脳内美術館に所蔵され,のちに文学作品へと引用された絵画なのだから,きっとこれに違いないだろう,という推論は成り立つわけ。そういう理論でいけば,漱石が「薤露行」で描いたシャロットの女のイメージソースは,きっと展示されていたWaterhouseのリーズ美術館所蔵の作品だろうといえるわけです。

 すっきりした気分で講演を聴講しました。3人の講師のそれぞれの内容が興味深く,河村錠一郎氏の漱石がロンドンに滞在していた時期の美術館博物館の変革期の説明も面白かった。なるほど,ミレーのオフィーリアを漱石はTateではなくNational Galleryで見ていたわけなんだ。DulwichのPicture Galleryにも行ってみたい。

 それぞれ独自のペースを死守(?)するものだから,かなり予定の時間をオーバー。そして最後に高階秀爾氏がコメンテーターとして参加されて,さすがの手腕で会をきっちりまとめていらっしゃいました。

 <戯曲ハムレットにはオフィーリアの「死の場面」はない。「オフィーリアは死んだ」という言葉はある。ミレーの描いたオフィーリアの死のイメージが,漱石の頭の中に収納された><漱石が好む「水」「銀」のイメージからつながる「月」のイメージ。漱石のメランコリックな好みがラファエル前派とつながる>などなど。書き散らしたメモより。

2017-11-23

2017年11月,埼玉北浦和,「ディエゴ・リベラの時代」展

 上野から鶯谷の書道博物館へ廻って「あの人,こんな字!」展(中国編)を見て,この秋はすっかり中国美術を堪能だな,と思いつつ,まだ昼前だった(「怖い絵」展の行列のために早朝から活動してた)ので,そのまま京浜東北線に飛び乗って北浦和へ向かいました。
 
 開館35周年記念「ディエゴ・リベラの時代」展が開催中です。埼玉県とメキシコ州は姉妹都市なのだそう。広報誌のzocalo「ソカロ」はメキシコシティーの広場を指していたとは初めて知りました。
 
 ディエゴ・リベラの展覧会と言っても,壁画を持ってくるわけにはいかないのだし,写真や下絵が中心の展覧会かと思いきや,若いころの作品やパリのキュビズム時代,その後の壁画以外の作品などなど盛り沢山。そして「…の時代」というだけに,同時代のメキシコの様々な美術が取り上げられていて大充実の内容でした。
 
 リベラの「ひまわりと裸婦」や「とうもろこしをひく女」はその質感と迫力に圧倒され,フリーダ・カーロの哀切な小品の強烈なオーラにも釘付けに。モドッティの壁画写真も面白かったし,記憶に新しいアルバレス・ブラボの写真をまとめて見ることができたのも望外の幸せ。
 
 静かな北浦和公園には秋の日差しが降り注ぎ,幼い子らの歓声があふれていました。

2017年11月,東京上野,「怖い絵」展

 展覧会を見るために何時間も待って,いざ会場に入ったら大混雑というのはもはや修行みたいなものですね。根がアマノジャクなので,「〇時間待ち」という評判の展覧会は大体パスしてしまうし,入っても後列からすすーっと流してしまうのが常なのですが,今回だけは頑張った。
 上野の森美術館で開催中の「怖い絵」展にJ. W. Waterhouseの「オデュッセウスに杯を差し出すキルケー」を見に行ってきました。展覧会自体はドラローシュの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」が目玉です。ロンドンで見たはずだけど,まったく記憶にないのだからピンと来なかったということなんだろう。
 
 Waterhouseはそうはいきません!バルガス・リョサの「悪い娘の悪戯」(作品社 2011)を読んだとき,その小説世界を視覚化したようなこの絵を採用した表紙カバーにやられてしまって,いつか絶対,実物を見たいと思っていたのです。しかし。所蔵のGallery Oldhamはマンチェスターの近郊のようで,そんな遠くに行くことを考えると,上野で2~3時間行列する方がよっぽど現実的。
 
 実際は1時間弱の行列で中に入り,遂に人込みの中で見ることができました。おお,これが。画家Waterhouseのキルケーはリョサの読者にとってのニーニャ・マラであって,濃い色の眼,厚い唇。壮絶な愛の物語が蘇ってきて立ち去りがたい。
 
 Tateの「シャロットの女」の大画面を想像していたので,意外と小さいな,という印象。「漱石の美術世界」展で見た「人魚」や「シャロットの女」(リーズ美術館蔵)と並ぶと壮観だろうなあ。日本でWaterhouse展が開催される日を夢見つつ。
 
 蛇足ながら,「怖い絵」展はルドンやホガースの版画も量としては多く,「どう,怖いでしょう」と言わんばかりの展示には「はあ,何で?」と答えたくなりました。アマノジャクなので。

2017-11-12

読んだ本,「充たされざる者」「女たちの遠い夏」(カズオ・イシグロ)

   カズオ・イシグロを2冊,読了。「読んだ本」とはせずに「読み返した本」と書きそうになったが,「充たされざるもの」(古賀林幸訳 早川epi文庫 2007)はもう何年も書棚でほこりをかぶっていた未読の本。「女たちの遠い夏」(小野寺健訳 ちくま文庫 1994)はたぶん一読したけれど,はるか忘却の彼方,という1冊。
  「女たちの遠い夏」は原題がA Pale View of Hillsで,のちに早川から再販されたときには「遠い山なみの光」と改題されている。そういう後付けの知識は読書には不要だけれど,原題に忠実な「遠い…」はいかにも地味な印象,「女たちの…」の方がインパクトがあると,当時の訳者や編集者が考えたのだろうな,と邪推もしたくなる。のちにこのイギリス在住の作家がノーベル文学賞を受賞することになるなどと,出版当時に想像した人が一人でもいただろうか。
 
 悦子というイギリスに住む日本人の女性が自分の過去を回想するストーリーだが,近くに住む佐知子という不思議な女性との交流,複雑な家族の関係,娘の自殺など,不穏な出来事が端正な文章と破綻のない見事な構成で語られる。読み進むうち,これが英語で書かれた小説の日本語訳であることを忘れてしまいそうになる。悦子も佐知子も原文ではEtsukoでありSachikoであったはずなのに。
 
 「充たされざる者」The Unconsoledは文庫本で939頁の厚さ。愛読者と言いながら,未読だったこの本を読む気になったのは,やはりノーベル文学賞がきっかけだったわけだから,なんとなく後ろめたい気はする(誰に対してというわけでもないが)。
 
 「木曜の夕べ」に出演するピアニストのライダーが,ある町を右往左往する。それがすべて。文庫カバーの惹句には「実験的手法を駆使し,悪夢のような不条理を紡ぐ問題作」とある。確かに,この本を抱えるようにして読んでいた間,何度も悪夢を見てしまった。しかし,頁を繰るのももどかしく,一気呵成に読み終えて,ああ面白かった!という感想しか浮かばない。
 
 読者はどこに立っているのか。どこか高みからライダーと町の人たちの悲喜劇を俯瞰しているような,そう,この不条理の世界を神の視点から見ているような錯覚を覚えて千ページに及ばんとする読書の迷宮を彷徨うのだ。
 
 「なあ。いつも最悪に思えるのは,それが起きているときさ。だが過ぎ去ってみれば,何であれ思っていたほど悪くはないものだ。元気を出しなさい」(p.934)

2017-11-11

2017年11月,東京六本木,「典雅と奇想 明末清初の中国名画展」

 六本木の泉屋博古館分館で「典雅と奇想 明末清初の中国名画」展が12月10日まで開催されています。(展覧会詳細はこちら)。先週のこと,夕暮れ時に地下鉄駅から屋外エスカレーターで泉屋博古館分館へ向かいました。少しずつ,日常が下界へと遠ざかっていく感覚を楽しみながら。

  中国の書画は理屈を超えて惹かれます。東京国立博物館に行くと必ず東洋館の中国書画展示に足を運ぶし,数年前に台北に行ったときには2日間,国立故宮博物院に通って至福の時間を過ごしたりしました。
 
  ただ,「中国書画を見る」と一言で言っても,あまりにも広大な海に小舟で漕ぎ出すがごとし。「ああ,いいなあ」とか「これ好き」と感じるのがせいいっぱいで,例えば北宋・南宋から明清の絵画への流れとか,文人画とは,とか基本的な知識はいくら本を読んで頭に詰め込んでも,「見る」という身体的な感覚としては無力感を味わうことが多いのが常なのでした。
 
 でも,この展覧会は鑑賞者に対して素晴らしい導きを用意してくれていて,私にとっては中国絵画を心から楽しむひと時を過ごしました。その導きとは「倣古」「新奇」「我法」の3つのキーワード。充実した図録の「明末清初の名画 鑑賞のためのキーワード」(板倉聖哲東洋文化研究所教授著)に詳しいですが,目から鱗が落ちるとはこのこと。
 
 この日は板倉氏の解説を聞きながら会場を回ることができて,感激でした。ここに挙げたい作品がありすぎで途方にくれますが,私の一番は会場冒頭の徐渭の「花卉雑画巻」(1575・1591)。東博と泉屋博古館の所蔵の2巻が同時に展覧されるのは板倉氏の夢だったとか。
美術館より特別に写真撮影の許可をいただいています。
  激しい筆致に圧倒されていると,徐渭は狂気の人で妻を殺したという逸話が語られ,思わず足がすくみます。知らなければ,花の美しさに目を奪われて終わりだったかもしれない。富貴の象徴である牡丹は自身の「卑賎の身」と対比して描かれている!(図録p.12)
美術館より特別に写真撮影の許可をいただいています。
  石濤 「黄山図巻」, 米万鍾 「柱石図」などいつまでも記憶に残る作品群と,個人的に思い入れがある八大山人の「安晩帖」などなど,時間がいくらあっても足りない展覧会でした。画帖の画面展示替えも多いので,何度も足を運びたくなります。充実の図録は東京美術から一般書として出版されています。
 
 そしてこの展覧会は静嘉堂文庫の「あこがれの明清絵画 日本が愛した中国絵画の名品たち」という展覧会と連携しているとのこと。異なった視点から明清絵画の魅力を楽しめるとのことで,こちらも楽しみです。この秋は楽しみがつきない!

2017年11月,東京日本橋・上野毛,「驚異の超絶技巧」展・「光彩の巧み」展

 日本と中国の工芸の,二つの展覧会を見てきました。一つは「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展を日本橋の三井記念美術館で。なぜかチラシには山口晃画伯が登場して,ユーモアたっぷりのコメントをいつものタッチで描いています。

 柴田是真の漆工に「遊びは本気で」とコメントしてるのが至言ですね。並河康之の七宝は,庭園美術館の展覧会をまあ,いいかとパスしてしまったのを後悔するような美しさ。『紫陽花図花瓶』には「目でなで回したい」というコメントが。こちらも全くその通り!という何だか山口礼賛の展覧会になってしまったけど,鑑賞の手引きをしてもらったみたいでとても楽しいひと時でした。印象としては影響を受けた現代アートの超絶感の方が強烈だったかも。

 で、七宝つながりで上野毛の五島美術館で「光彩の巧み」展を堪能。こちらはちょっと襟を正す感じの展示です。人の手が「もの」に力を与え,その力は人の領域を超えてもはや神へと近づく。そしてその「もの」を所有することで人は権威をまとう。そして時を経て,人(=私)はその美術館におさまった神秘を目にして,言葉にならない「美」を見出す。
溜息しか出てこない美を前にして,日々の煩雑な思いを忘れます。ところで,ああ,七宝っていいなあと思いながら,そういえば20年くらい前に初めてシンガポールに行ったとき,ふらりと寄った古道具屋で小さな瓶を買ったのを思い出しました。書棚の片隅に眠っていた私の七宝。まあ,お土産品だけど,よく眺めるとそれなりに美しい。美術館の前の石畳。

2017-10-29

2017年10月,東京上野,素心伝心展

  東京芸大美術館で開催されていた「素心伝心ークローン文化財 失われた刻の再生」展を見てきました。BSのシルクロード番組で紹介されていた敦煌莫高窟内部の復元をどうしても見ておこうと,ぎりぎり最終日に駆け込みました。
   冒頭の法隆寺の部屋の壁をぐるりと囲むのは金堂壁画。香が焚き染められ,ちょっとしたトリップ気分になります。ああ,こういう姿だったのかという得心と,美しい仏たちが炎に包まれていく恐ろしい幻影にちょっと足がすくみます。

 現地で非公開の敦煌莫高窟第57窟に足を踏み入れると,「素心」という言葉の意味を体感できます。眼前の「復元」された仏は7世紀の仏の心をそのまま湛えているかのよう。それは「復元」という作業ではなく「再生」をこそ願う人の手によるものなのだ,と感動。

 高句麗古墳の展示も面白かった。ソウルの国立博物館で見た四神図の展示を思い出します。2016年のアフガニスタン展の際にも紹介されていた,バーミヤン東大仏天井壁画の再展示もあって,ああ,楽しかった!平山郁夫シルクロード美術館の収蔵品もいくつか展示されていて,一度行ってみたい。会場が暗くて写真はピンぼけです。撮影可の展覧会というのは,どこでも撮影会場のようになってしまうものですな。(自分のことは棚にあげる)

2017-10-22

2017年10月,東京初台,「単色のリズム 韓国の抽象」展

  初台のオペシティアートギャラリーで「単色のリズム 韓国の抽象」展を見た。チラシの李禹煥にノックアウトである。ただ,彼の作品群を「韓国の単色画」として見たことはなかったので,こういうグループ展(と言っていいかどうかわからないが)の中の一人の作家の作品として見ると,新鮮な感激を覚える。
  「単色画(ダンセッファ)」という用語があることも知らなかったが,2015年にヴェネチアで開催された大規模な展覧会がきっかけで再評価されているのだという。そして,国内では寺田コレクションの中核の一つとしてまとまったコレクションがあるというのは全く未知のことだった。
 
 会場では,このギャラリー空間にぴったりと収まる作品群に圧倒される。「極限までそぎ落とされたミニマルな美しさ」とチラシにあるが,「そぎ落とされた」ものとは何だろう。どの作家の作品もそれぞれ魅力的で,こういう抽象画に対峙していると,作家の内面世界,そしていやでも「自分」に意識が向かっていくのを感じる。
 
 久しぶりに,心地よい緊張を味わった展覧会だった。家に帰り,李禹煥の著作を探す。書棚にあったのは古色蒼然としたこの2冊。「立ちどまって」(書肆山田 2001)は数年前に京都の古書市で買った詩集である。
 
 「しばらく空を眺めてから/君を見たり/本を見 樹を見ると/みんな空の色だ//しばらくして再び空を眺めると/君が見え/本が見え 樹が見えて/みんな自分の色だ//目を閉じて思うのだが/空の色でものを見/ものの色で空を見ている/私はどんな色だ」(しばらく空を眺めて pp146-147)
 
 オペラシティアートギャラリー2階では「懐顧 難波田龍起」展を。近くの文化学園服飾博物館では「更紗のきもの」展。



2017年10月,東京渋谷,神楽公演・國學院大學博物館

 10月の忘備録として。九州の神楽公演を渋谷の國學院大學百周年記念講堂に見に行きました。以前からお神楽には興味があったけれど,なかなか実際に見る機会がなかったのです。宮崎と福岡の合同公演で,時間の都合で福岡の京築神楽だけ鑑賞。
 
 御福と御先という二つの演目は,いずれも迫力満点。御先鬼の持つ鬼杖に触れるとご利益があるとのことで,会場を一周してくれるサービス付きでした。舞台で見てこの迫力なのだから,里山で実際に神社への奉納の機会に見ることができたらさぞ,素晴らしいだろうなあ。見ている方もある種のトランス状態へと誘われます。
 
  キャンパスに隣接した國學院大學博物館では企画展「モノの力 ヒトの力」展(10月9日で終了)を見ました。余計な解説を省いた展示は,「日本人の美意識を取り巻く感性世界の確認」(チラシより)という場で,惹かれるものがたくさんありましたが,一つ選ぶなら,使い込んだ濱田庄司のこの土鍋。
  初めて訪れたこの博物館,思った以上に規模が大きく,考古資料や神学関係の展示の充実ぶりには大感激。常設展示の美しい考古資料の数々。

  また,相互貸借特集展示として,西南学院大学博物館所蔵資料「転びキリシタン」展も興味深いものでした(こちらは11月10日までの会期)。この夏,「沈黙」(遠藤周作著 新潮文庫)を読んだこともあって, 小説世界とはまた違う,現物史料のもつチカラに圧倒されました。

2017年10月,横浜桜木町,ヨコハマトリエンナーレ2017 島と星座とガラパゴス

  びっくりするくらいグロテスクなこの作品,カルヴィーノの「蟹だらけの船」をここに引用した次の日に横浜美術館で遭遇したので,それこそびっくりしてしまった。アイ・ウェイウェイの「河の蟹」というインスタレーション作品。ヨコハマトリエンナーレの横浜美術館会場にて。
 
 こういう偶然の符合みたいなものは,あくまで主体が自分だからびっくりするのであって,アイ・ウェイウェイにも美術館の人にとっても,これはあくまで一つの作品だ。観客である私の私的な読書体験が,カルヴィーノを勝手に連想させただけのことである。でも,と思う。私にとってはアイ・ウェイウェイとカルヴィーノが分かちがたく結びついた瞬間なのであって,よくいう「現代アートの意味をそれぞれが解釈する」行為の面白さを身をもって確認した一日となった。
 
 トリエンナーレは過去数回でかけたけれど,今回が一番面白かった。まあ,上述のような特別な出来事は,それはそれ。充実した展示にすっかり気分があがる。フォトジェニックな作品も多かった。アン・サマットの「酋長シリーズ」はエスニックと思わせて工業製品などが編み込まれている。そしてそれぞれの作品に性別がある!パオラ・ピヴィのカラフルな熊は「芸術のために立ち上がらなければ」と呟いている!

  そして,この日を選んで出かけたのは,畠山直哉・平野啓一郎・小林憲正(宇宙生物学者)の三氏による公開対話「ヨコハマラウンド」を聴講するのが目的だった。「時間」や「複数性」というテーマのもとに,深く興味深い話を聞くことができた。

 畠山直哉氏の,言葉を選んで鋭く慎重に語る姿はとても印象深いものだった。「『僕たち』は『僕』の複数形ではない」,「忘却とは違う時間の流れ」,「『当事者性』を,通訳はpositionalityと訳した」など印象的な言葉も多く,時間をかけてメモを読み直している。蛇足ながら,半分葉が茂り,半分が立ち枯れたクルミの木の写真を示して,カルヴィーノの「まっぷたつの子爵」に触れたときには,おお,またカルヴィーノ。と軽く興奮。
  畠山直哉の陸前高田の写真は,トリエンナーレの会場全体をぴりりと引き締めている印象。この写真の日付は2014年8月15日。彼岸からの声に満ち満ちた気配に,思わず涙ぐむ。

2017-10-20

2017年10月,東京赤羽橋,三好耕三写真展 On the Road Again

  冷たい雨の降る夕刻に赤羽橋のPGIへ向かい,三好耕三の写真展を見てきた。タイトルのOn the Road Againが示すように,彼は「ロード・トリップ」を1970年代から40年以上も続けてきたのだという。展覧会のリーフレットには「ロード・トリップはメディテーション。ただフロントガラス越しの視界と対峙して,最低限の約束を肝の片隅に預けおき,あとは確と座するだけ。」とある。

 16×20インチの大判カメラを用いているのだそう。美しいプリントは,しかし,修行僧の厳しい美意識という一面も確かに漂わせつつ,どこか達観した余裕みたいなものがある。ロードを無心で走りつつ,空腹になればそれを満たすためにカフェにも立ち寄る。カフェの店員が温かいまなざしを向ける1枚は,写真家と被写体の魂の交感みたいなものさえ感じさせる。
 
 三好耕三の写真を初めて知ったのは,もう20年近く前になるかもしれない。東京国立近代美術館フィルムセンターで見た写真の通史の展覧会で強烈な印象を受けた。その時の写真がSee Sawというシリーズの1枚で,たぶん高架下の建造物にあたる光と影のコントラストが強烈な1枚。そして,その1枚もどうやらロード・トリップの副産物だったということを,時を経て知った。

 それがどうした,という話かもしれない。しかし,写真を見続けることに「意味」を与えるとするなら,私にとってはかなり親密な事件ではあった。

読んだ本,「魔法の庭」(イタロ・カルヴィーノ)

  秋を通りこしてやってきた冬の寒さにすっかり気分も滅入る。梅雨時に雨が続くのは嫌いではないが,天高い時期に冷たい雨が続くのは反則だ。休みの日も出歩くよりは家で読書,という気分になる。

 書棚を整理していると,我ながら積読の多さに愕然とする。本を買うのは未来を買う行為とは言え,未来の限りをそろそろ自覚するこの頃,どうにかしなくちゃという気になっている。それと同時に,あれ,こんな面白そうな本を買ったのだったかという小さな悦びも。「魔法の庭」(イタロ・カルヴィーノ 和田忠彦訳 ちくま文庫 2007)を読了。

 カルヴィーノの短編集と言えば,「むずかしい愛」(和田忠彦訳 岩波文庫 1995)をまず思い出す。たしか荒川洋治が書評で絶賛していた,女が水中で泳いでいる美しい場面の描写はまるで映画を見ているようだった。

 この「魔法の庭」に収められている11の短編はどれも大人の社会の中の「異なる存在」をどこかユーモラスな視点で描くものだが,やはり映像が目に浮かぶような感覚を堪能した。

 「…そして水際には蟹がうじゃうじゃと,ありとあらゆる形や大きさの蟹が何千匹も,その折れ曲がった輻射状の四肢をつかってぐるぐる動きまわりながら,鋏をちらつかせたり,無表情な鈍い目を突き出すようにしていた。その蟹の平らな腹に寄せる海の水は,音もなく鉄の壁の四方を洗っていた。この船倉中がもそもそ蠢く蟹でいっぱいなのかもしれず,だとしたらある日,この船は蟹たちの四肢に乗って動きだし,海の中を歩きはじめるかもしれない」(p.12「蟹だらけの船」より引用)

2017-10-15

読んだ本,「とどめの一撃」(ユルスナール)

    随分長い間,積読になっているのに気付いていたけれどもなかなか手に取ることがなかった1冊(岩崎力訳,岩波文庫 1995)。たしか,平野啓一郎がいつかどこかに面白かったと書いていた記憶がある。

 ユルスナールは須賀敦子の著書「ユルスナールの靴」(1998)が印象に残る作家で,それ以上でもそれ以下でもなかった。読後,その時空を超えた「愛と死」という壮大なドラマに読書の至福を味わう。エリックとコンラート,そしてソフィーの生き方と愛の表現に自分の共感を重ねていく作業は,なぜ小説を読むのか,という問いの答えの一つだろう。

  「断罪された者の首に巻きついた紐の結び目をしめあげるのに,運命ほど秀でたものはないという。しかし私の知るかぎり,運命が得意とするのは紐を断ち切ることのほうである。人が望もうと望むまいと,結局運命が問題を解決するためにとる手段は,すべてを厄介払いすることなのだ。」(p129より引用)

2017年10月,東京恵比寿,「シンクロニシティ」展・「長島有里枝」展

  ここのところ,時間に追われる案件が一段落して,あちこち展覧会にでかけています。東京都写真美術館で見た2つの展覧会を忘備録として。
「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と,愛を少々。」というちょっと変わったタイトルの写真展を見に行く。And a Pinch of Irony with a Hint of Loveは何か出典があるのだろうかと,図録をパラパラ見たけれど,言及が見当たらない。よく読めばよいのか,と思ったものの,そこまで情熱がわかない。いわゆる「ガーリーフォト」の人が中堅写真家になった,という第一印象が会場の最後まで続く。祖母が撮ったつるバラの写真をスイスの自室の壁にピンナップした1枚がよかった。それは写真家の本意からは大きく外れているのだろう,と自分の的外れな「写真の見方」を自覚しつつ。

 別のフロアでは「シンクロニシティ」展を見る。「TOPコレクション 平成をスクロールする」の秋季展。「シンクロニシティ」と言えば,30年近く前に菅啓次郎が訳した著書が話題になったなあ,と思い出す。調べてみたら,1989年に出版されたF.David Peatの著書だった。それは昭和の終わり,平成の始まりの頃の話だ。

 で,この写真展はタイトル通り,「平成をたどる」写真で構成されていて,同時代ではなく「平成回顧」の展覧会。もちろん,それが狙いなのだろうけれど,蜷川実花の鮮やかなカラー写真や金村修の東京モノクロ写真を見ていると,なんだか切実ではないのだ。遠くから眺めているような。今,写真美術館は平成を回顧する必要があるのだろうか,という身も蓋もない思いがわいてくる。

2017年10月,横浜根岸,「馬の美術 150選」

 桜木町からバスに乗り,根岸森林公園にある「馬の博物館」に行ってきました。「馬の美術 150選」というなかなかマニアックな展覧会に足を運んだのは,この展覧会が「山口晃 「厩図2016」完成披露」だからなのです。なぜ「2016」かと言えば,昨年の展覧会時に仕上がらなかったそうで。(すずしろ日記No.141に詳しい)
 
 運よく山口晃のトークショーにも当選して(倍率4倍だったらしい),いそいそとでかけました。想像通りのオモシロイ人で,何やら脱線の連続のトークも可笑しかった。肝心の「厩図」はさすがの一作です。会場のしつらえにもこだわったと言い,消火器や空気清浄機がピタッときたとかで,こんな感じ。
 トーク終了後,館の人が「サインなどご自由に」というのだけれど,誰もセッティングをしてくれないので会場の人たちはみな躊躇しているようです。そこで!私が先頭を切ってサインをお願いしてしまった。しかも,持ち込みの「すずしろ日記」に!(他の人たちはもちろん,購入した図録でした。)しかも,持参したサインペンはかすれ気味!なんだかおかしな雰囲気が漂うなか,厚顔無恥のオバサンは逃げるように会場を後にしたのでした。

読み返した本,「浮世の画家」(カズオ・イシグロ)

  カズオ・イシグロのノーベル文学賞の受賞のニュースには驚いたものの,じんわりと喜びに浸されている。最新作(「忘れられた巨人」)は私にはピンとこなかったけれど,寡作の新作を楽しみに読んできた作家の受賞は,身震いをするような感じとでも言えばよいだろうか。

 とは言え,10年以上も前に読んだ初期の作品の記憶は曖昧で,書棚から引っ張り出して再読を始める。まずは「浮世の画家」An Artist Of The Floating World(早川epi文庫)から。最初の邦訳は1988年に中央公論社から出て,1992年の中公文庫のあと,2006年に早川から再販されている。

 どのタイミングで読んだのかまったく覚えていない。「記憶」を描く作家の読者として許してもらえるだろうか。NHKで再放送された白熱教室でも,カズオ・イシグロは「自分の中の日本の記憶をとどめるために」小説を書き始めた,と言っていた。

 記憶の中の日本を舞台にした第1作「遠い山なみの光」A Pale View of Hillsに続き,この作品の舞台も戦後の日本である。ただ,この二作を書いたあと,自分は日本を描く作家だと思われないように「日の名残り」を書いたのだが,「日の名残り」と「浮世の画家」は舞台が違うだけで内容は同じなのだ,と語っていたのが印象に残る。

 年老いた画家が回想するのは過去のゆるぎない信念であり,語っている今,直面しているのは時代の新しい価値観である。自己の存在はそのとき,揺らぐのか否か。そしてそのとき,画家が立っている「場所」とはどこなのか。

 イシグロは「作品の舞台を設定するのにものすごく時間をかける」と語っていた。その「場所」は日本でありイギリスであり上海であり,しかしどこでもない。読者である私はイシグロを読みながら,追い続けるのだ。作家を。主人公の生きる場所を。そして自分の「場所」を。 

2017-10-07

2017年10月,龍岩素心の開花

  久しぶりの更新です。今年はなぜか開花が初秋になりました。夏の多湿が原因みたいです。9月に入って水やりを控えたら花芽が2本出てきました。緑がかった白というのは,なんて美しい色だろう。

2017-09-17

2017年9月,東京初台,「写狂老人A 荒木経惟」展

  9月3日まで開催されていたアラーキーの展覧会にぎりぎり駆け込んだ。何といえばよいのか,タイトルを字義通り解釈すれば,この人は「写真に狂った老人」なのかもしれないけれど,「写真家であり,狂人であり,老人」でもあるのかもしれない。これだけの写真を目の当たりにして,「この人は狂っている」という感想を抱くのは不謹慎だろうか。今日は老人を敬う日だというのに!
  入口の「大光画」はあまりの生々しさに目をそむけたくなる女性の裸体が並ぶ。生理的に無理,という作品も多くて足早に抜けると「空百景」と「花百景」の展示。

 ここで魂を吸い込まれるような感覚を味わう。明らかにメープルソープへのオマージュのような花もある。あ,やっぱりアラーキーは好きだ,と思うとまた「遊園の女」の展示のコーナーでは無理。とまるでジェットコースターみたい。そうか,ここは大人の遊園地なのか。

 「切実」の展示は面白かった。一度切り裂いた写真をコラージュした作品だから「切実」というわけ。Ripping the Truthというタイトルの英訳も,なんだか切羽詰まった感じが伝わってくる。

読んだ本,「芝生の復習」(リチャード・ブローティガン 藤本和子訳)

 アメリカの新しい翻訳物は一時期夢中になって読んだけれど,アップダイクやレイモンド・カーヴァーとかP・オースターといったあたりがメインで,ビートニクの作家はほとんど手を出していない。ケルアックやギンズバーグも文学史的な知識が少々,というだけだ。
  読まず嫌いというわけではないけれど,なんとなく気が進まない,というジャンルではある。なぜかは自分でもよくわからない。きっと自分にはピンとこないだろうというカンみたいなものだ。今年の夏,アンティークフェルメールで店主の塩井さんからブローティガンを勧められたものの,ついつい後回しになっていたのはそんな理由から。

 まずは短編集をと思い,「芝生の復習」(新潮文庫)を手にとってみた。そして冒頭の表題作を読んで,ピンとどころかガツンとやられた感じ。「Revenge of the lawn」,その不思議な言葉の組み合わせの通りの出来事が淡々と語られる。丸裸の鵞鳥,何ガロンもの灯油をかけられて火を放たれた梨の木。乾いた詩に心がヒリヒリとする。

 コルタサルの短編のように不条理な出来事が綴られるわけではないのに,どこか不穏な空気をまとった日常の世界にぐいぐいと引き込まれていく。時折,「わたし」は誰なのか,「君」は誰なのか,自分が主人公の映像を夢の中で見ている感覚になる。そう,ブローティガンを読むのは,不思議な夢をいくつも見続ける夜のようだ。

 「径には見なれない奇妙な花が咲きみだれている。わたしは一歩一歩,峡谷のいくつもの曲がり角で姿を消して行くのだが,そこを過ぎると,ついには太平洋と,そのドラマチックな浜に到着する。もしイエスが生きていた時代にカメラがあったら,かくばかりの写真がとれただろうと思われるような海岸で,そこに着いたきみはいまやその写真の光景の一部になる。だから,実際にそこにいるのかどうかを確かめるためにわれとわが身を抓ってみなければならないこともある。」(「砂の城」p.231より引用) 

2017-09-03

2017年8月,富山南砺市,「デルゲ印経院 チベット木版仏画展」

  8月の忘備録として。富山県南砺市にある福光美術館にでかけて「チベット木版仏画展」を見てきました。南砺市の「瞑想の郷」所蔵のデルゲ・パルカン(徳格印経院)木版仏画の全点初公開とのこと。

  チベット仏教美術を見るのは,2009年に上野で開催された「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」以来です。興味はあるのだけれど知識が追い付かず,今回も会場で解説パネルとにらめっこをしながらゆっくり見て回りました。
  会場入り口のドゥンコル立体像はなかなか見る機会のないものだそう。上野で見たたくさんの仏像とどう違うのだろう。。そして本尊を中心に右1,2…,左1,2…と順番で見ていくのは分かったけれど,どうにも会場の順路と反対周りじゃないのか。。文字通り右往左往してしまう。
 
  それでもだんだんペースをつかめてきて,釈尊生涯八相などは見ていて面白い,と感じてくるから不思議。ところで,技術面でいえばこれらの仏画は極めて技量の高いものということ。さらに,16世紀以降の仏画はどれを見てもほとんど同じということなので,これらを一通り見て覚えておけばチベット文化圏の仏画はほとんどどれが何かということは理解できるものらしい。(→こちらのブログを参考にさせていただきました。https://stod-phyogs.blogspot.jp/2017/07/2b-3.html

 ふむふむ。古書市で買った図録と今展のリーフレットでしっかり復習しておこう!いつかチベットへも行ってみたいものです。福光美術館はとても気持ちのよい建物でした。金沢市内から車で40分くらい。

2017-08-25

2017年8月,京都(2),上賀茂神社・高麗美術館

 大好きな高麗美術館からすぐの距離なのに,今まで一度も訪れたことがなかった上賀茂神社。加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)という響きが素敵だ。夏の特別公開で本殿と権殿に参拝できるというので足を延ばしてみました。
 夏の暑い時期は神馬は避暑中でした。葵祭や賀茂競馬などを楽しむなら5月ですね。神山を象った立砂が神秘的な美しさをたたえていて,思わず息を呑みます。陰と陽の一対ということ。直会殿でお祓いを受けてから本殿に参拝し,ここぞとばかり(!)ありとあらゆる願い事をしてきました。
 
 その足で高麗美術館へ向かい,今年の夏は「복(福)を運ぶ 朝鮮王朝のとりたち」展を楽しみました。ソウルの景福宮で見た美しい鳥はカササギ。ハングルで「까치」ですね。 実はこの5~6月に韓国語入門講座を受講したのです!秋には初級を受講できるとよいのだけれど。老いた脳みそに,新しい言語の学習はかなりキビシイです。。

2017-08-20

2017年8月,京都(1),細見美術館「古裂に宿る技と美」展・下鴨神社古書市

  結構長い夏休みを取って,京都に1泊して金沢へ向かうことにしました。夏の京都は毎年暑くて,もうやめとこ。と思いながらも毎年吸い寄せられてしまいます。
 まずは初めての細見美術館で「布の道標 古裂に宿る技と美」展を。開館時はきっと斬新でおしゃれな美術館だったのだろうけれど,やや古色蒼然とした雰囲気が残念な建物。使用していない什器に赤い布をかけて放置していたり,開館時間中の展示室をモップを振り回して床掃除するのはどうなんだろう。
 
 テンションが下がったものの,ぎおん齋藤のコレクションで構成された展示はとても面白くて夢中で見てしまう。江戸桃山の古裂はもちろんのこと,インド更紗やすばらしい中国大陸の遺物には興奮です。すっかりテンションも回復(単純)。特に西域の文様には惹かれます。8世紀ソグド族の綿錦,遺跡出土の2~3世紀の錦裂などなど。
 
 界隈の古美術店などもひやかしながら,次の目的は毎夏恒例の下鴨神社古書市へ。蒸し暑さにへとへとになりながらも,テントを巡る巡る。しかし。積ん読で溢れかえる書棚を思い浮かべて,今年は持ち帰れるだけにしようと固く心に決めて,厳選することに。しかし。悩む悩む。結局,2014年の龍谷ミュージアム「チベットの仏教世界」展の図録と,クンデラの「無知」(集英社),「韓国の石仏」(金両基著 淡交社)の3冊を購入。チベット展図録は,このあと富山の福光美術館でチベット仏画展を見たいと思い,その予習用に。
 糺の森のバス停から下鴨神社に向かう小路にしゃれた骨董店があり,中国四川省の麻布を購入。日本で座布団に仕立てられていたものだそう。すてきな店主の女性と,昨年の古書市で買ったINDIGO PRINTS OF CHINAの話などして楽しい時間を過ごしました。これだから夏の京都はやめられないんだな。

2017-08-19

2017年8月,金沢,「イメージの力」展

 石川県立歴史博物館で「イメージの力 The Power of Images」が開催されています。ポスターを見てあれ?と思ったら,これは2014年に国立新美術館で開催された民博のコレクション展がその後全国を巡回しているものだということ。3年もかけて巡回するんだ。という驚き。

 2014年の開催時に行けなかったので足を運んでみました。民博の膨大なコレクションのエッセンスを楽しめるので,濃密な,という形容詞がぴったりの時間を過ごせます。民博では地域展示ですが,この展覧会は「イメージの力」というキーワードで全体を4章に章立てした通文化の展示になっていて,民族資料を美術として提示しています。
  そういう展覧会を歴史博物館で開催するというのは何だか元の木阿弥じゃん,という気がしないでもないんだけど,能登の来訪神の仮面の展示などもあって,常設展示との関連も楽しめます。カメラを忘れたので携帯で撮ってみました。スマホは持ってないし,携帯も普段ほとんど使わない生活なのでこんな解像度のしか撮り方がわからなかった。。恥ずかしいけど,記録として。

 常設展示室の「祭礼体感シアター」が大好きで,ここ半年くらいで一体何回見ただろう。仮面をまとった,あるいは裸身の青年たちが火の中で風の中で,舞い踊る!

 お隣の石川県立美術館では「これぞ暁斎!」展を。これもBunkamuraの展覧会の巡回展です。若干の時差はあれ,メジャーな展覧会は東京にいなくても楽しめるんだなと実感。不思議な魅力を持つ鴉たち。