2019-02-25

2018年12月-2019年2月,展覧会の忘備録

  昨年末からぐるっとパスもフル活用してあれこれ廻った展覧会をほとんど記録していなかったので,忘備録として。

 まずは東京都写真美術館で「建築×写真 ここのみに在る光」展。タイトル通りに魅力的な写真展。やっぱりアジェがいいなあ。ホールで映画「幻を見るひと 京都の吉増剛造」も。この映画を語る言葉を私は持たない。吉増剛造の詩に2時間,ずっと圧倒されてぐったりして帰った。

 古代オリエント博物館では「シルクロード新世紀展」。オリエントつながりで初めての石洞美術館で「イスラーム陶器展」。とても素敵な美術館だ。ゆったりとらせん状の展示室を上がっていく。シリアやイランの美しい陶器やガラスたちにうっとり。

 東京国立博物館の東洋館で特集展示「斉白石」展。とても楽しい。三井記念美術館では「国宝雪松図と動物アート」展,サントリー美術館では「扇の国、日本」展。有名な舞踊図に感動。松岡美術館では「中国動物俑の世界」展。馬が多いな。
  東京都庭園美術館では「エキゾティック×モダン アールデコと異境への眼差し」展。面白かった!マン・レイの「黒と白」をこういう文脈で見るのはとても新鮮。床に映る新館のガラスの影が大好き。

 出光美術館では「染付」展。どこで見ても何度見ても,毎回新しい発見をする。イランのタイルが面白かったのと,デルフトの白地の透明感にはっとする。ベトナム青花の手焙りはひたすらほしい,という欲望を掻き立てられる。

 チラシを整理していて,他にも記録してないものがいくつかあった。12月に金沢で「いろどりとすがた」展(石川県立美術館)。これは東京国立近代美術館工芸館の名品展だった。移転を目前にして,地元はかなり盛り上がってる様子。

 他には金村修のカラー写真展を12月に銀座で。一体これは写真なのか,それとも世界の素材なのか。フジフィルムスクェアでは前田真三の写真を。同じ「カラー写真」という言葉でひとくくりになんてできない。やはり写真を見るということは思考の場なのだと再認識。 

2019年2月,世界ラン展,パフィオペディルムの花

 
  毎年東京ドームで開催されている世界ラン展に初めて行ってきました。ランと東京ドームがどうしても結びつかなくて(←私の中で,という意味です),今まで二の足を踏んでいたのですが,今年は入場チケットを頂いたので(←その程度のこだわりだった,ということです),出かけてみました。
 
  思った通り会場が広すぎて,展示を見るだけでへとへと,販売コーナーもお店の数が多すぎて,廻るだけでへとへとに。しかし!手ぶらでは帰りません。パフィオのリーアナムの開花株と,ベトナム原産種(デレナッティ)の株を購入。リーアナムを撮ってみると,こんなに暗く美しい姿に。
 
 会場は夜に行ったのでライトダウンされて,いい感じに怪しい雰囲気でしたが,コンデジしか持ってなかったので写真はダメだな。気になった花たち。

2019-02-24

読んだ本,「異界を旅する能 ワキという存在」(安田登)

 「異界を旅する能」(安田登著 ちくま文庫2011)を読了。能を見るようになってから,「ワキという存在」にずっと惹かれているので(ワキ方の福王和幸さんのファンというミーハーな理由もあるのですが。。),とにかく奥深い内容に感動しっぱなしでした。
 
 「旅をする僧」という存在・視点から見る能の世界がわかりやすく語られていて,今までたくさん見た番組を思い出して,ああ,そうかと膝を打つことばかり。とりわけ,第3章「己れを『無用のもの』と思いなしたもの」の「出自ゆえに苦しむ」で取り上げられている「善知鳥」のシテの苦しみ,ワキである僧への救済への祈りを語る筆致は冷静であり,情熱的でもあり,頁を繰りながら,脳内には能舞台が展開していくようでした。
 
 読み終えて久しぶりに能楽堂へ行きたくなりました。ちょうど橋岡会の「舞謡会」のお誘いをいただいて,国立能楽堂へ。時間の都合で「熊野」だけ拝見。これはワキは平宗盛で,シテの愛妾・熊野が老母に会いに行きたいと言うのに,花見に付き合え,というワガママ(?)な役回り。「異界を旅する」話ではありませんでしたが,母を想う熊野の心情が美しく,ともに桜で覆われた京の都を旅してきた気分。
 
 国立能楽堂資料展示室では「囃子方と楽器」展も。たくさんの美しい鼓胴の展示。 

読んだ本,「ピラネージの黒い脳髄」(マルグリット・ユルスナール)


 「廃墟の美学」と「廃墟の美術史」展をきっかけに,前から読んでみたかったマルグリット・ユリスナールの「ピラネージの黒い脳髄」を読了。ジャケ買いならぬタイトル買いみたいなものである。
  美術でも読書でも,およそ個人的な記憶と結び付けてしまいがちなのだけれど,私にとってのピラネージはロンドンでドキドキしながら訪れたジョン・ソーンズ・ミュージアムの記憶であり,ヨーヨー・マの無伴奏バッハの映画の舞台であったりする。

 それをユルスナールという孤高の(これも私のイメージ)作家の眼と文章を通して反芻し確認した,というのがこの読書体験だったかと思う。

 ピラネージの《牢獄》と《風景》。その廃墟への詩情がどこか冷めた視線で語られていく。読者はピラネージの誇大妄想に「意味」を与えられて,書物の後半に収められた図版を自らの脳で感じていく。

 「建築する情熱,これは終生銅板という二次元の作品に限定されていたこの男にとって,抑圧された情熱だったが,この情念こそが,かつて大建築に着工した古代人の精神の躍動を,廃墟のなかに再発見するのにすぐれて適した人間に彼を仕立てあげたように思われる。おそらくこうもいえるだろう。《古代遺跡》においては建築資材がそれ自身のために表現されている,と。」(p.24より)


読んだ本,「穴あきエフの初恋祭り」(多和田葉子)

 多和田葉子の短編集「穴あきエフの初恋祭り」(文芸春秋 2018)を読了。「胡蝶、カリフォルニアに舞う」,「文通」,「鼻の虫」,「ミス転換の不思議な赤」,「穴あきエフの初恋祭り」,「てんてんはんそく」,「おと・どけ・もの」の7つの短編が収められている。表題作の「穴あきエフ」はアナーキーなキエフ,だろうか。
 
「文通」は「文学界」に掲載時に既読だが,それ以外は初読である。初出は2009年~2018年と幅がある。最近の2作(「胡蝶~」,「文通」)はそれぞれ単独で読むと,多和田葉子の世界そのものですとん,と腑に落ちる感覚なのだけれど,2010年の「てんてんはんそく」や2009年の「おと・どけ・もの」と同時に読むと不思議な違和感がある。

 何だろう,これは。そして2作を読み返してわかったことがある。「胡蝶~」はその不思議な展開の最後に,「これは夢の中のお話」,そして「文通」には「これは文中小説の筋」というオチがついているのだ。

 そのままでいいのに,と思ってしまう。読者は多和田葉子に導かれて運ばれていく,そしてそこに放り出される。それを愉しむのが彼女の小説の醍醐味のはず。昔の方がよかったのになあ,などと言いたくはないけれど(オチをつけてほしいという声が多いのかとも邪推する),短編に関する限りは最新作を追いかけることはもうしないかな,とも思う。

 「おと・どけ・もの」のラストで荷物の配達人が階段を昇ってくるところ。「耳を澄ますと,すすすと絹の衣が檜の床を撫でるような音,実際はコンクリート,それから間があいて,ポンと鼓を打つような音,それからまた,すすす。恐ろしくゆっくりで,なんだかこの感じ,お能のように優雅な苦痛に満ちて,死者たちが戻って来るのか,不思議な脳波が起こりつつある,眠たくなるような,気持ちのよい,それでいて,気持ちの悪い,くらくら酔う,酔う(後略)」(p.149) 

2019-02-10

2019年2月,山中湖,「東京大学富士山癒しの森」

  山中湖に行って,森に癒されてきました。これは湖に咲いた「フロストフラワー」。 
 これは地衣類。サルオガセの一種?薪棚の片隅で。
足元は雪深く,動物たちの足跡が。そして空を見上げるとこんな青。
 生きててよかったあ,とそんな一日。

2019年2月,東京上野,「顔真卿」展/谷中の古書店「木菟」

  東京国立博物館で開催中の「顔真卿」展を見てきました。入場には待ち時間はないものの,会場内で日本初公開の「祭姪文稿」を見る行列は70分待ち。疲労がたまっていて(涙),諦めてしまいました。実は台北故宮に行ったとき,顔真卿が展示されていたかどうかをまったく覚えていないという。。もしかしたら見たんじゃないか,と都合よく記憶を操作(?)して,他の展示をゆっくり拝見。
 
  唐代の書ももちろん素晴らしいのですが,宋代に米芾(べいふつ)というとても好きな書家がいて,顔真卿の書に寄せた跋文や,真筆の「行書三帖巻」などを堪能。何というか,書の姿や勢いがとてもカッコイイのです。So cool!と叫びたく(?)なるんだなあ。

 目玉をすっ飛ばしてしまったものの,それなりに展覧会を楽しんで博物館を後にしました。そのまま谷中方面に向かって,スカイザバスハウスの向かいの古書店を目指しました。古書店めぐりをしている人のブログで絶賛されていたので期待度満点。「木菟」は「みみずく」。ショップカードにもみみずくのイラストがあしらわれています。

 店構えもさりげなく凝っていて,中に入ると左右の壁の書棚と中央の平台が整然と美しく,期待以上の品揃えと雰囲気に興奮。入口近くの平台には段ボール1箱分の辻邦生が。ま,全部持ってるけどね,と鼻息も荒く,すかさず価格チェックなど。

 日本文学も海外文学も,店主さんの「選ぶ眼」が伝わってきて感動的。津島祐子や多和田葉子の近刊などの充実ぶり。落ち着け,と自分に言い聞かせてこの日は2冊を購入しました。コルタサルの「秘密の武器」(世界幻想文学大系 国書刊行会)はマーブル装丁が素敵。もう一冊はレーモン・オリヴェ著・ジャン・コクトー画の「コクトーの食卓」(講談社)。これは訳者が辻邦生だったので。なかなか訳書まで手がまわらないので,これはうれしい。すっかり夕暮れ時になり,ご機嫌で地下鉄駅へと向かいました。

2019年1月,東京松涛,「廃墟の美術史」展/読んだ本,「廃墟の美学」(谷川渥)

   「廃墟の美学」(谷川渥著 集英社新書,2003)を読了。この本は随分前に京都の恵文社一乗寺店で買って書棚に眠っていたもの。この書店が話題になったころ,一度行ってみたくて出かけたものの,「私を呼ぶ本に出会う」という感覚を味わえないまま,何か買わなくちゃという焦燥感だけでこの本を選んだのだった。そういう感覚は妙に覚えていて,書棚には他にも積ん読が溢れているのに,この本は折にふれて気になっていた1冊だった。
  
  で,なぜ今なのかというと,松涛美術館で1月31日まで開催されていた「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」を見たのがきっかけ。図録は購入しなかったが,谷川氏が論考を寄せていた。展覧会は2階の展示はこの本の内容を具現化したような構成で,ユベール・ロベール,ピラネージ,コンスタブルなどなど。地下1階に,それ以後を引き継ぐシュールレアリスムや日本人の画家たちの作品が並ぶ。
  
  難波田龍起の「廃墟(最後の審判より)」の前で足がすくむ。そして展示の最後は野又護だった。地下の展示は3.11を経験した日本人にとってはあまりに重い。「廃墟」について何かを語ることはとても辛く,哀しみを呼び起こす行為だ。展覧会場はたくさんの観客で混んでいた。それぞれがそれぞれの仕方で「終わりのむこう」を探していたのだと思う。
 
 谷川氏がアンリ・ベルクソンの「創造的進化」(1907)を引用してこう書いている。「ベルクソンは,要するに「無」は「存在」よりも内容が乏しいどころか内容が多いと主張しているわけだが,重要なのは,ここで彼が記憶の能力なしには無あるいは空虚という観念ないし表象は成立しえないと指摘していることである。言葉を換えれば,想い出と期待の能力をもつ存在者にとってしか不在は成立しないのだ。私たちが「無」や「空虚」を表象するのも,あるものとあったもの,あるものとありえたであろうものとの対照をなしうるかぎりにおいてだからである。」(pp.148-149)

2019-02-03

読んだ本,「ペルーの異端審問」(フェルナンド・イワサキ)

 フェルナンド・イワサキの「ペルーの異端審問」(新評論)を読了。バルガス・リョサが序文を寄せ,八重樫克彦・八重樫由貴子が訳している。両氏が「ラテンアメリカ文学の次なる名手をお探しの読書家に、自信をもってお薦めする」と書いているので,期待度満点で読み始めた。
 
 とにかく驚いたのは,ここにある17の短編は,実際にあった異端審問沙汰の事件を小説に仕立てたものであるということ。しかもその事件とはどれも性にまつわる珍事件なのである。
 
 最初の数章は,その過激な内容にやや辟易とした感を抱いたのだが,読み進めるうちに,残虐な事件を,ユーモアあふれる(というより抱腹絶倒の)一編の物語に巧みに変換する作家の力業に脱帽というほかない。訳者の力量もいかばかりか。
 
 本文は引用しにくい文章ばかり(!)なので,バルガス・リョサの序文から。「意外性や大胆さ,こっけいさに加え,特筆すべきことが本書にはある。それは多くの人々が考えるように,歴史と文学は相容れないものだという先入観を払拭している点だ」(pp.16-17)

読んだ本,「TIMELESS」(朝吹真理子)

 朝吹真理子の「TIMELESS」(新潮社)を読了。前作の「きことわ」から7年ぶりの新作だという。
  愛のない結婚を選択する,うみとアミという夫婦。そしてその子のアオ。うみの母の芽衣子さん。一見,家族の物語のようでありながら,物語の主人公は「時間」そのものかもしれない。その「時間」とは,彼ら登場人物のものでも,読者のものでもなく,朝吹真理子という作家の「時間」なのだろう。彼女の今,彼女の過去,彼女のこれから。

 古典文学や日本史の知識(知識と言ってしまおう),お気に入りらしいブラジルの音楽(私にはカルロス・ジョビン以外はついていけない),おしゃれな暮らしに欠かせないアロマや服飾のブランド品などなど。紡がれる物語と同じくらいに,作家の素敵な「今」がこれでもかと羅列されていて,溜息が出てくる。

 印象に残ったのは,ストーリーとは何の関係もないこの一文。「リオデジャネイロは一月の川という意味だとこよみの友人だったイレーネが言っていた。River of January.」(P.150)こよみはアオの姉,うみの養女で,イレーネは死んでしまった。そしてもう一つ印象に残ったのは,本の最後のページに羅列された参考文献(?)の中の1冊。「アミとわたし」(稲川方人)。稲川方人にこんなタイトルの詩集があったとは。