2018-11-25

2018年11月,東京竹橋,「インゲヤード・ローマン展」/「アジアにめざめたら」

 
  うっとりするほどシンプルで美しい器たちが配されたポスターに惹かれて,竹橋の国立近代美術館工芸館へ。工芸館はほとんど足を運んだことがありません。レンガ造りの端正な建物です。金沢市への移転が決定しているとのこと。
 
 スウェーデンのデザイナーであり,陶芸家でもあるインゲヤード・ローマンの作品はいずれも日常つかいの食器や花器が中心。シンプルで美しいそれらの器たちが,これ以上の配置はなかろう,というくらい完璧(と私には思えました)な展示構成で並んでいて,展示室で至福のひとときを過ごしたのでした。
 
 チラシによると,彼女は自分のことを"form-giver"と呼ぶのだそう。「形を与える者」とは,素材に対して,ということだろうか。「この世界の美しきもの」に対してかもしれない。会場に流れるビデオを見てさらに驚いたのは,彼女には識字障がいがあるのだということ。言葉を超えるものが彼女の核となるものを培ってきたということだろうか。「シンプルで美しい」生き方をする人の姿勢がたまらなくまぶしい。 
 
  国立近代美術館では「アジアにめざめたら」展が開催中です。興味を惹かれるものと惹かれないものがはっきりしてしまうのですが,リ・ウーファンの鉄と綿のオブジェには,それこそ言葉にならない衝撃を受けました。綿を使った作品を見たのは初めて。こんなシリーズがあったのか。

 そしてもう一つびっくりしたのがPROVOKEの「復刻版」の展示。ページを解体しているので,全体を見渡して見ることができて感激でした。常設展示では森山大道のにっぽん劇場と並んで中平卓馬のパリビエンナーレ出品作がタブロイド印刷版で展示されていて,こちらも感激。

2018-11-23

2018年11月,東京日吉,「日曜日の散歩者 忘れられた台湾詩人たち」

 昨年の公開時に見に行けなかった台湾映画「日曜日の散歩者」の上映会&シンポジウムが慶應の日吉校舎で開催されたので,出かけてきた。1933年,日本統治下の台南が舞台で,日本語で新しい台湾文学を作ろうとしたモダニスム詩人たちの姿が描かれる。
 
 「風車詩社」の存在を知らなかった私にとっては,すべてが驚きの連続である。すべてが,というのは,彼らの存在・活動・作品のことであり,全編を通して登場人物の「顔」を映さない映像のことであり,まるでパッチワークのようにスクリーンに映し出される写真・アート作品の数々のことである。
 
 林永修氏の人生が中心に据えられる。ただ,詩作は字が小さくてあっという間に次の場面に転換するのでほとんど読めていない。印象に残るものは後日,参考文献に当たってみよう,という気になる。劇的な人生にばかり吸い込まれていく。
 
 個人的には,桑原甲子男や中山岩太のモノクロームの写真や古賀春江の作品が映し出されるたびに心が躍る。映画全編を通して,どこか美術館のホールでシュルレアリスムの映画を一編見たような感覚だ。 
 
 時間の都合が合わず,シンポジウムは聴講しなかった。日吉キャンパス内の来往舎では関連の写真や文献の展示があり,興味深く拝見。世界には知らないことがいっぱいあるな,という想いを抱えて初冬のキャンパスを後にした。

2018-11-18

2018年11月,東京上野,フェルメール展

  「東京ノート」から時を経て,上野の森美術館で開催中のフェルメール展にでかけました。入場が予約制になっていて,長蛇の列は回避できます。指定の時間帯の開始時間には少し行列ができていましたが,すんなり入場できて会場内もそれほど混雑していませんでした。

 熱狂的なファンというわけではないのですが,8点が勢ぞろいしているフェルメールルームの迫力たるや圧倒的です。一瞬を切り取るというより,「時間」が描かれているこれら絵画を前にして,でてくるのは溜息ばかり。

 個人的な思い入れが強いのはアムステルダムで見た「牛乳を注ぐ女」との再会かな。色も質感も大きさも,画集で見るのとは違ってとても強い。たくさん美術館をまわった,あの初冬のオランダでの高揚感をまざまざと思い出しながら,絵を見るという行為の個人的経験としての楽しさを再認識した一日となりました。

2018-11-11

2018年11月,東京駒場「ソウル市民」/読んだ本,「東京ノート」(平田オリザ)

  劇作家平田オリザの名前と著作は,同時代に生きていて知識としてはよく接してきた気がするが,実際に舞台を見たのは今回が初めてだ。駒場アゴラ劇場に「ソウル市民」を見に行った。
 
 きっかけは飯田橋文学会の文学インタビューの平田オリザの回に参加したこと。著作3冊が事前に提示されるのだが,そのうちの一つが「ソウル市民」「ソウル市民1919」の舞台だった。それはそうだろう,劇作家に「あなたの代表作は」と問うたのだ。
 
 「ソウル市民」は1989年初演された「現代口語演劇の出発点」となった平田オリザ代表作の再演ということ。幸運にも席を取れた。見終えて感じたことはまず,「間に合ってよかった」ということ。平田演劇を知らずに過ごしてしまうところだった。そしてまた,「再演」ということの意味も考えている。
 
 今では何の不自然も感じない「現代口語演劇」の舞台に違和感なく没入できる。しかし,そこで繰り広げられているのは「人が人を支配する社会」だ。劇団のフライヤーには「押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で,運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる」とある。
 
 いくつもの印象に残る逸話の中で,文通相手の恋人の来訪を待ちわびる次女の無垢で残酷な自意識が痛々しい。
 

 著作として「東京ノート」の脚本も読んでみた(ハヤカワ演劇文庫 2004)。登場人物たちの会話を活字で読む行為は,オーケストラの五線譜を読む行為にも似ている。この舞台は1994年初演ということ。美術館の片隅のロビーが舞台なので,個人的に親近感を覚えて読み始めたが,穏やかな時間の裏でヨーロッパでは戦火が広がり,多数の美術品が疎開してきている。こんな会話の先に,答えなどない。
 
 木下「フェルメールの絵ってさ,みんな人が,窓の方向いてんだって。」野坂「うん。」木下「知ってた?」野坂「うん。」木下「あ,そう。」野坂「だって,見れば判るじゃない。」木下「あぁ,そうか。」(略)木下「あれは,画家と一緒に人を見てる気がするでしょ。」野坂「だまされましたね,うまく。」木下「えぇ?」野坂「あのね,絵を見て綺麗だなと思うのは何故でしょう?」木下「え?」野坂「本当の景色とかね,本物の人間よりも,絵を見て綺麗だなって思うのはどうしてでしょう?」木下「さぁ、」野坂「…」木下「どうして?」野坂「さぁ」木下「なんだよ。」(略)(pp.191-192より)

2018-11-04

2018年10月,東京渋谷ほか,「大名家の能装束と能面」「東西数寄者の審美眼」「松浦武四郎」展


  10月の週末,まだ紅葉には少し早い秋の一日に,日本美術を堪能してきました。展覧会を4つハシゴしてしまった。忘備録として。

 まずは泉屋博古館に「加納芳崖と四天王」展の後期展示(10月28日まで)を見に。前期と後期でこんなに入れ替えるんだ,とびっくり。狩野芳崖の「悲母観音」がやはり圧倒的な迫力です。

 渋谷へ向かい,松涛美術館で「大名家の能装束と能面」展(11月25日まで)を。意外なほど(失礼ですね)会場に人が多くてびっくり。能舞台で生身の人間が身につける装束や面が展示室のガラスの向こうに並んでいるわけですが,それらの「もの」そのものが持つ「魂」のようなものと,能役者と彼らが演ずる能曲の登場人物の「生命感」のようなものが絡まりあって,静かなうねりのように迫ってきます。井関河内の手による般若の面は,面そのものがこの世のものとは思えない。1時間ほど滞在して,腰が砕けるような感覚で美術館を後にしました。

 次は五島美術館で「東西数寄者の審美眼」展(12月9日まで)を。逸翁美術館と五島美術館の銘品が並ぶ展覧会。眼福としか言いようのない,美しい茶道具や書画の銘品を前にしてひたすら楽しい。長沢芦雪の「降雪狗児図」にほっこりして,堆黒屈輪文盆はいいなあ~となって,ガレのガラス壺を茶器に見立てる軽やかな精神にうっとりです。

 最後は静嘉堂文庫美術館の「幕末の北方探検家 松浦武四郎展」(12月9日まで)で締めくくり。北海道の名付け親の生誕200年を記念した展覧会です。各地で開催されているそうで,静嘉堂文庫美術館では同館所蔵の武四郎の旧蔵品の展示がメイン。で,玉や金環を集めた「大首飾り」が圧巻。北蝦夷余誌などの古書展示が面白かったけど,全体的にちょっと地味な印象の展覧会でした。4館まわってさすがに疲れたな。

2018-11-03

読んだ本,「路上の人」(堀田善衛)

  富山の高志の国文学館で「堀田善衞―世界の水平線を見つめて」展が12月まで開催されている。行きたいとは思うものの,初冬の北陸の天候を考えると二の足を踏んでしまっている。事情があって金沢へでかける頻度も減っているので,このまま会期の終了を迎えてしまうかも。
 
 そして,実はもう一つ二の足を踏む理由がある。展覧会のチラシやポスター,HPの解説文,そのいたるところに「スタジオジブリ」と「宮崎駿」氏の文字や原画が踊っているのだ。宮崎氏は,自身の作品に大きな影響を与えたのが堀田善衛だと広言している。アニメをほとんど見ない昔からの読者の私は,こんなにスタジオジブリをフィーチャーしなくても,というちょっと複雑な想いを抱いている。アマノジャクなんだろうか。
 そんな気分で「路上の人」(新潮社 1985)を読み返してみた。初読はかなり前なのでほとんど忘却の彼方だった。路上のヨナが語り手となり,信仰とは何か,宗教とは何かを問う。物語の後半,ヨナは教皇の使者であり、異端審問の査察官であるアントン・マリア伯爵と行動を共にし,異端カタリ派最後の拠点モンセギュール城攻防が語られる。
 
 腐敗したバチカン教会が,「異端」であるという理由で,純粋な信仰を持つ人々を追い詰めていく過程とその結果が時に冷静に,時に壮絶に語られる。アントン・マリアの,ルクレツィアという女性への恋慕の情が切なくやるせない。
 
 「旦那,そんなにも何もかもに反対なのでしたら,旦那は何に賛成なさいますんで?」「おれか,おれは人が生きることに賛成なのだ」「へえ…。それでは神様は旦那の挙げなさったもののうちで,何にご賛成ですかい?」「それがわからぬ。神がかくも多くの解決不可能事を擁して,しかもなお平然としておいでであろうとも思われぬ」「それはあれですかい,この世はやっぱり教会の穴倉の扉にありますような,蟇やら蜥蜴やら蜘蛛やら蠍やらだらけのところで,天国へ行かないことには楽にはなりませんのですかい?(後略)」(pp.279-280より) 

読んだ本,「空港時光」(温又柔)

 作家は台北生まれで3歳で来日,日本語がほぼ母語なのだろうか。温又柔(オン・ユウジュウ)の「空港時光」(河出書房新社 2018)を読んでみた。台湾と日本の政治的・歴史的な背景がある程度は頭に入っていないと,あまり楽しめないかもしれない。逆説的に言えば,ボーダーレスな文学を楽しもうとするためには歴史や政治の知識が必要なのだ,ということ。今更ながら,はっとする。
ただ,幾つかのアイデンティティーを抱える作家が,まさに境界である「空港」を舞台にした小説ということで抱いた期待はあまり充たされなかったのが正直なところ。読み始めてすぐにこれが連作短編ではないことに軽く衝撃を受けた。

 1つ1つの短編が浅い。これらはどこかで絡み合ってくるのだろうと思って読み進めてもまったくその気配ななく,いろいろなパターンの台湾人と日本人が次々に登場する10篇の短編が並んでいるのだ。タイトルの「時光」が日本語のようで日本語でないように,どこかもどかしい読書体験だった。

 しかし,巻末のエッセイ「音の彼方へ」はとても魅力的な内容・文体。このジョン・トービーやスーザン・ソンタグの著書からの引用なども含まれる40数頁のおかげで私は温又柔をまた読んでみたい,と思う。台東のギャラリーでスペイン語で書かれた短冊を見つけた場面。
 
 「これを書いたひとは,どこからやってきたのだろう? スペイン? メキシコ? あるいは,もっと他の… いずれにしろ,ここに来た記念をスペイン語で綴るひとがここにいた。短冊の文字はその痕跡だ。そのひとは想像しただろうか。自分の書きつけた文字を読み,スペイン語だ,と日本語で喜ぶ人がいることを。ふしぎな興奮が募る。文字は,言葉の跡だ。書く,という響きが,掻く,と通ずることを思い知る」(p.174より)

2018-11-02

2018年11月,フラグミペティウムの開花

  南米由来の蘭。「フラグミペティウム」という名前をなかなか覚えることができず,思い出そうとするとなぜか「ピルグリムファーザーズ」がいつも頭に浮かんでしまいます(??)。花はパフィオそのものなんだけど,葉の感じはまるで春蘭。とても不思議。

 開花したのはそれはそのはず,蕾のついた株を購入したのです。NHKの「植物男子 ベランダー」にすっかりはまっていて,「なじみの花屋」のPROTOLEAFを時々のぞくようになりました。珍しい植物が多くてとても楽しい。先月はリュウビンタイの小株も買ってみました。原作のいとうせいこう「ボタニカルライフ」も読んでみなくちゃ。