2014-03-30

2014年3月,東京上野,東京都交響楽団「ベートーヴェン第1番/ブルックナー第1番」

  少し前,まだ上野から桜のたよりが届かないころあい,東京文化会館にでかけて都響第767回定期演奏会を聴いてきました。プログラムはベートーヴェン交響曲第1番とブルックナー交響曲第1番。指揮は小泉和裕です。

 相変わらず,クラシック音楽を語る語彙は「すごい迫力」くらいしか持ち合わせていないのだけど,それに尽きる,といった一夜。何しろ,席が1階センターの2列目!オーケストラの響きを聴くには前過ぎるのだろうけど,指揮者の背中が目の前で,コンマスの矢部達哉氏の汗が飛んでくるんじゃないか,ぐらいの席でオーケストラを聴くのは大迫力です。

   ベートーヴェンもブルックナーも交響曲第1番ということで,公演チラシには「2大巨星の瑞々しきNo.1」という文字が躍ります。特にブルックナーの1番については,プログラムによるとオリジナルの「リンツ稿」と改訂版の「ウィーン稿」が存在するそうで,この日の演奏は「1866年リンツ稿」とのこと。「原石のような素朴な味わい」を持っていると書いてあります。
 
  そう言われると,ウィーン稿も聴いてみたくなってきました。違いがわかるかどうかは極めてあやしいけれど。久しぶりにクラシックのコンサートを堪能した春の夕べ。上野文化会館は東京・春・音楽祭のかわいい装い。

読んだ本,「盆栽/木々の私生活」(アレハンドロ・サンブラ)

 「盆栽/木々の私生活」(アレハンドロ・サンブラ著,松本健二訳,白水社 2013)を読了。現代ラテンアメリカ文学はこの訳者についていけばよい,とどこかの書評で読んだことがある。とは言え,アレハンドロ・サンブラについてはまったく知識もなく,この本は初の邦訳だという。
  特にドラマチックなストーリー展開があるわけではなく,淡々と綴られた物語は,2編とも「不在」が読み手に差し出される。何の不在?あるときはこれから書かれる小説としての「本」の不在。あるときは,幼い娘を継父のもとに残したまま帰ってこない「母」の不在。あるときは若い二人の男女がフォジャール(スペイン語)をしながらの「愛」の不在。

 いろいろな読みかたがあるだろうけれど,「木々の私生活」で幼い娘ダニエラが成長して継父の書いた小説を読むという虚構の場面が心に残る。

 「パラレルワールドなど存在しない。ダニエラにはそれがよくわかっている。彼女は凡庸を耐え忍んできた。私はあらゆる覚悟ができている,というのが何年か前のお気に入りの台詞だった。そしてそれは真実だった。彼女にはあらゆる覚悟が,どんなことでもする覚悟が,人が自分に与えようとするものは何だって受け取る覚悟が,言うべきことは何だって言う覚悟ができていた。言いたくないことを言っている自分自信の声を聞く覚悟だってできていた。だがもはや違う。今はもうあらゆる覚悟はできていない。今は自由だ。」(p.168より引用)

 書かれざる小説を読むことこそが,生きるということだと静かに語りかけてくる。いみじくも,第2部表題裏にはアメリカの詩人ジョン・アシュベリーのこんな一節が引かれていて,頭の中から離れない。「伏せられた本としての人生」。
 

2014-03-23

2014年3月,東京松濤,「通小町」

 松濤の観世能楽堂にでかけて櫻間右陣の会の能公演「通小町」を見てきました。ほかに仕舞「八島」「玉之段」「杜若」,狂言は「二九十八」という番組。能楽堂の前の桜がそろそろ開き始めたというのに,この日は冷たい風が吹いて季節が逆戻りしたよう。
 
  「通小町」は小野小町の霊がツレ,彼女を慕いながら生前その思いを遂げられずにやつれ果てた怨霊の姿で現れる深草少将がシテのお話。僧の弔いのうちに二人そろって成仏してめでたし,めでたしという展開なのですが,ややもって地味な印象。それでもさすがに右陣さんの端正な佇まいと立廻には思わず引き込まれます。

 面白かったのが善竹十郎さんが演じた「二九十八」。狂言なんだから面白いのは当たり前なのだけれど,現代のジェンダー論的にはNGじゃないのか(?),という女性には加虐的な内容があけっぴろげに展開されるところがまたおかしい。お腹をかかえて笑いました。

2014-03-17

読んだ本,「遅い男」(J・M・クッツェー)

 J・M・クッツェーの「遅い男」(鴻巣友季子訳,早川書房 2011)を読了。クッツェーは一時マイブームがあって,「マイケル・K」「夷狄を待ちながら」「恥辱」を読んだことがある。この「遅い男」Slow Manは「恥辱」と同じ系統の,知的職業の中高年男性の失墜と絶望が描かれた小説と思って読み始めると,小説家の企んだ過激な仕掛けに面食らうことになる。
 
 なによりも,エリザベス・コステロという女性の突然の登場に驚く。彼女は「エリザベス・コステロ」(邦訳は2005年出版)の主人公にして,作者自身のオルター・エゴ(分身)に他ならない。
 
 彼女は登場していきなり,主人公のポールの前で本書の冒頭を読み上げたり,創作講義まで始める。訳者あとがきによれば,「それまでそこそこふつうのリアリズム小説と見えていたものはあっさりと様相を一変(表層的にはそうとは見えないが,とんでもない「侵入」が起きる)」するのだ(あとがきp.329より)。ポストモダン文学における「作品への作者の侵入」というわけだが,コステロは作中,何度もポールに向かって「あなたのほうから来たのよ」と嘯く。
 
 読者は,クッツェーの「剛腕」ぶりにねじふせられるかといえばそうではなく,とにかく最初から最後まで面白い,の一言。さまざまな要素がいちいち刺激的で(中でも,ポールが自身のコレクションした写真について「オリジナルとは何か」を滔々と語るくだりは独立した写真論といえそう),「老いや死生観」というわかりやすいテーマだけでなく,身体への暴力と他者の苦痛へのまなざし,移民問題,贈与と交換などなどが盛り込まれたページをただただ夢中で繰っていく体験をした。
 
 同じ早川書房から出ている「エリザベス・コステロ」も急いで入手。クッツェーの創作論でもある。第6章「門前にて」はカフカの「掟の門前」を下敷きにしている。クッツェーの分身である作家コステロは審判の男に向かってこういうのだ。「わたしは作家なんです。(略)わたしの専門は,信じることではなく,ただ書くことにあります。信じることをわが務めとはしません。わたしは模倣するのです。アリストテレス流に言えば」(同著p.169より)。

2014-03-13

古いもの,orange treeのデミタスカップ

 数年前,初めてロンドンのポートベローを訪れたときに買ったCrown Ducal製のデミタスカップ。お店で一目ぼれというわけでなく,旅行の前に何かの雑誌のロンドン・アンティーク特集に写真が掲載されていて,その個性的な雰囲気が気になっていたのです。
   カップ類がたくさん並んでいるショップのウィンドウにこのカップを見つけたときは,おお,雑誌に載ってたやつだ!というわけで,自発的(?)な選択眼ではないのですが,こんな出会いもあっていいかも,と購入。コーヒーはあまり飲まないので,もっぱら小さめの急須でいれる台湾茶を飲むときに出番がまわってきます。

 その後再びポートベローを訪れたとき,お茶うけを入れる器用にお揃いのシュガーポットを購入しようと思い立ち,店の人にオレンジツリーのシリーズはあるか,と聞いたら「ないね!」と一言。稀少ということなのか,人気がないということなのか,珍しいものであることには違いないみたい。

2014-03-12

2014年3月,東京日本橋,創画会春季展など

  陽射しは春を思わせるのに,風が冷たく真冬の寒さを感じさせる日の午後,日本橋にでかけて創画会の春季展を見てきました。百貨店内の会場は催事場に隣接していて,やはり都美術館なり,新国立美術館で見たいなあ,というのが実感。それでも大御所の作品から入選の野心作なども含めて,創画会の精神みたいなものが底流にあるので安心して楽しめます。知人の入選作は英字新聞をコラージュ材料に用いたスノッブな雰囲気が漂う魅力的な作品。
  百貨店の向かいの丸善日本橋店に向かう。交差点を渡ってふと見上げるとまぶしい空が広がります。冴えわたる青の色に,春まだ遠しとちょっとため息をつきたくなってしまう。
  丸善日本橋店の3階「ワールドアンティークブックプラザ」で世界の古書を眺めてから,エスカレータの前の催事コーナーで海外写真集をじっくりと。神保町やネット上よりもお値段高めの印象。ウンベルト・エーコが寄稿しているCandida Hoferの写真集Librariesの表紙はアムステルダム国立ミュージアムの図書室。 

2014-03-09

2014年3月,東京恵比寿,下岡蓮杖展

  東京都写真美術館で開催中の「没後百年 日本写真の開拓者 下岡蓮杖」展を見てきました。写真美術館の静かな部屋で古写真を見るのは大好き。古写真の展覧会はたいてい複数の写真家の作品で構成されているので,下岡蓮杖一人だけの回顧展という形の展覧会は珍しいのでは。
  会場はとにかく盛りだくさんの情報があふれていて,じっくり見始めるとかなり時間がかかります。なんでも「写真事歴」(山口才一郎筆記,明治27年,写真新報社)という本人の口述筆記による伝記の信憑性が最近まで疑われていたとかで,近年その真実が確認されたことで,今まで謎が多かった蓮杖の生涯が明らかになったのだそう。

 というわけで,会場の壁にはその「写真事歴」からの文章の抜粋とその英訳が所狭しとプリントされていて,ちょっと気忙しいけれど面白い。絵師として身をたてようとして写真に出会い,技術を獲得して写真師として隆盛を極めた人物の,一筋縄ではいかない人間像が浮かんできます。 

 サイズが小さい古写真を1枚1枚のぞきこむようにして見ていると,写真館にでかけて写真という新しいメディアによって自己を対象化しようとした当時の老若男女が今もそこにいるようです。「閨で囲碁を打つ二人」なんていう写真にはちょっとびっくり。しどけないポーズの女性が「何見てるのよ」とばかりにこちらをにらんでいます。時空を超えて思わず「ひえっ!ごめんなさい!」という気分になります。

2014-03-04

読んだ本,「人面の大岩」(ナサニエル・ホーソーン)

  国書刊行会のバベルの図書館シリーズ(2013年に新編が出版された)の1冊,「人面の大岩」(ナサニエル・ホーソーン著,酒本雅之・竹村和子訳 1988)を読了。「ウェイクフィールド」「人面の大岩」「地球の大燔祭」「ヒギンボタム氏の災難」「牧師の黒いベール」の5編が収められている。
  どの短編も現実の裏側や真実の内側を容赦なく描き出す。登場人物はみな,変人のようでもあり,どこにでもいる普通の人のようでもある。「ウェイクフィールドWakefield」は「世の夫たちのなかでもいちばん忠実な」夫だが,ある日ちょっとでかけてくると言い残して家を出たまま20年帰らない。そしてすぐ隣の通りのアパートに住んで,妻の様子を観察し続けるという「蛮行」を行う人間なのだ。
 
 若いころはホーソーンの英語が難解で,文の意味を追うだけで精一杯だった記憶しかないが,年を重ねて日本語訳でゆっくり読んでみると,こんなに魅力的な作家だったのかと改めて瞠目する。

 学生時代に買った酒本先生の「ホーソーン 陰画世界への旅」(酒本雅之著 冬樹社 1977)を探し出して合わせて読み返してみた。小説世界を深く読み解くことは人の生そのものだと思わずにいられない。同著の冒頭の部分を引用させていただく。

 「ナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne(1804-64)が人間を見る目は,このうえなく冷厳でありながら,同時にこのうえなく暖かくもある。考えてみると,これはなんとも奇妙なことだ。彼の目で見られると,原形を無傷のままで維持できるものは何一つない。肉眼ではどんなに清らかに,あるいはどんなに美しく見えるものでも,いったんホーソーンの稀有な透視力にさらされると,内面にひそむ汚れた真実をとたんに露呈してしまう。」(同著P.5「闇の透視」より)
 

2014-03-01

2014年2月,東京丸の内,インターメディアテク

 丸の内のJPタワーに「インターメディアテク」を訪ねてみました。東京大学学術標本が展示されています。このミュージアムは一体,何ぞ?というと,「日本郵便+東京大学総合研究博物館 JPタワー学術文化総合ミュージアム」であって,いわゆる産学協同プロジェクト。本郷キャンパスの片隅にひっそり佇む総合博物館がこんなおしゃれなビルにやってきて,どんなことになっているのか興味津々。前から行きたかったのですが,やっと行ってきました。
  思っていたよりもずっと規模が大きく,展示されている学術標本の種類にも数にも呆気にとられるばかり。本郷や小石川分館ではスペースが限られていますが,ここでは広い空間を使ってずらっと並んでいる様子が圧巻です。一つ一つの古いものが持つ力がダイナミックに統合されていて,今も,そして未来にも向けて生命力をたぎらせているよう。
 
 そのダイナミズムを演出しているのが,展示に用いられているケースやキャビネットでしょう。実際に大学が研究教育の現場で使用していたもので,帝大時代の遺産も多いらしい。一瞬,タイムスリップしたような感覚も覚えますが,むしろ最先端のビルの中でそれらの放つ存在感や魅力は,古いもの好きにはたまりません。
 
 興奮状態で廻りながら,ガラスケースの中に見覚えのある木箱を発見。祖父の使っていた守谷定吉造の天秤はかりの引出に入っていた分銅ケースです。天秤はかりの展示もありました。おお,おじいちゃん!こんなところに同じものが!と興奮はマックス状態。洒落た関連商品が並ぶショップで写真が掲載された図録(西野嘉章編,東京大学総合博物館発行;平凡社発売  2013)も購入しました。