2016-05-15

読んだ本,「忘れられる過去」(荒川洋治著)

 荒川洋治の「忘れられる過去」(みすず書房 2004)を読了。この詩人が導いてくれる読書の世界は,何と歓びに満ちていることだろう。読み進めながら,ああ,この本も,この作家も読んでみたいと何度もページに付箋をはさむ。それは,己が決して長くない未来に光を差し込む行為にも似て。
  読んだことがあるはずだったり,まったく未知の作家だったり。まずは室生犀星,伊藤整,結城信一などから始めてみようか。そして,それらの作家への興味とともに,荒川洋治の言葉そのものも深く心に残る。

 書名の「忘れられる過去」。最初に見た瞬間,the past that can be forgottenの意味だと直感し,衝撃を受ける。しかし,近松秋江の「黒髪」という小説について語られた表題作を読むと,the past that will be forgottenの意味にもとれることに気付く。

 あ,そうかと思いつつ,文章の中身からどんどん離れて,私自身の中に言葉だけが入っていく。「過去」は「忘れ去られる」だけでなく「忘れられる」のだ。人には「忘れることができる」過去があるのだ。

 ピーター・ハントケの「幸せではないが,もういい」という小説を語る「見えない母」では,荒川洋治が引用したハントケのこんな一節に深く心を打たれる。「『私は夢で,それをみると耐えがたいほど悲しくなるようなものばかり見た。そこへ突然,誰かがやってきて,それらの中から,その悲しいものを,もう期限の切れたポスターを剥がすようにあっさり取り去ってくれた。そして,この比喩も夢に出てきた』」(p.194より引用)

 読み終えて,あとがきに著者自らが「忘れられる過去」という言葉には「不完全な印象がある」と語っているのに出会う。「『忘れることができる過去』と『忘れ去られてしまう過去』の二つの意味になる。でも人には,どちらの側にも,思い出があるものである。」(あとがきp.293より)

 読書を語る本を読んで,読書の至高の愉しみを味わう。そして本を閉じて,カバーにこんな一節が引用されているのに気付いた。本文を読んでいるときには看過してしまったようだ。あわてて頁を繰ってみたが,見つけるのは容易ではない。私は何を読んでいたのだろう,と自嘲めいた苦笑が浮かぶ。これは繰り返し読みなさい,と本が私に課したのだろう。

 「五〇歳を過ぎた。するべきことはした。あとはできることをしたい。それも,またぼくはこうするな,とあらかじめわかるものがいい。こんなふうな習慣がひとつあって,光っていれば,急に変なものがやってこない感じがするのだ」(本書カバーより)

0 件のコメント: