2014-09-24

読んだ本,「対岸」(フリオ・コルタサル)

 「対岸」(フリオ・コルタサル著,寺尾隆吉訳;水声社)を読む。今年はコルタサル生誕100年,没後30年なのだという。この短編集「対岸」は,1995年にスペインで普及版が出版されるまでほとんど入手不可能な幻の短編集だったらしい。日本語訳が今年2014年に出版されたのは,記念すべき年だからということなのだろう。
  収められている13編の短編はどれを読んでもはっと息を呑み,「血の凍るような」という陳腐な表現がぴったりの感覚を味わう。中でも惹かれたのが「転居」と「遠い鏡」の2編。どこか既読感を覚えるこの2作は,のちのコルタサル文学の通奏低音のようにも思えるモチーフをベースにしている。

 「ルシア」寝室から母の声(確かに嗄れている)が聞こえる。「どうしたの,お母さん」驚いた様子もなくマリアの声が聞こえる。(「転居」より)―わずかこの2行に潜む不条理。そして読者が投げ込まれる恐怖。

 この本には付録として「短編小説の諸相」というコルタサルの1963年の有名な講演が収められている。これまで一度も邦訳されていなかったのは訳者にとっても驚きだったという(訳者あとがきp178)。読者にとっては望外の喜びでしかない。

 短編と長編の違いを写真と映画に喩えるくだりにはカルティエ=ブレッソンやブラッサイの名前が挙がり,コルタサルの小説を読みながら,彼らの写真がフラッシュバックのように眼に浮かぶという稀有な体験をした。ちなみに、コルタサルは短編小説の条件を「暗示力」「凝縮性」「緊張感」と言っている。これはそのまま写真に適用できるのではないか。

 ところでこの本を読んで,物語の本質的なところからは離れて深く心に響いたフレーズがある。

 「オフィスでの疲労に打ちのめされると,ヤマアラシのように身を固めて,勤務時間後に訪れる休息以外のあらゆるものを撥ねつけるようになる」(「転居」p.93より)。家路を急ぐ満員電車の中で私はヤマアラシとなって,わかるわあと独り言ちる。

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