2023-04-17

2023年4月,東京池袋,「眩暈 VERTIGO」


  昨年の暮れの頃,吉増剛造がジョナス・メカスを悼むドキュメンタリー映画「眩暈 VERTIGO」が上映されるとみすず書房のサイトで知った。これは行かなくては,と思いつつもタイミングを逃し続けてしまったのだった。

 何か大切なことを忘れている気持ちのまま,池袋の文芸座で1日だけの上映イベントがあると知って感激。出かけてきた。先週末のこと。ジョナス・メカスの1996年のフィルム「富士山への道すがら,わたしの見たものは…」の併映と,「眩暈」の終映後に吉増剛造といとうせいこうの対談あり,という豪華なプログラム。

 「眩暈」は,これはドキュメンタリー映画なのだろうか。死んでしまった映像作家を悼む詩人の魂の姿に,日本語の字幕と英語の字幕とが何重にも重なり,これは吉増剛造の詩そのものを映像で見ているかのようだ。

 そしてジョナス・メカス。その震える画面の映像作家の魂もまた詩そのもの。吉増剛造の「詩とは何か」(講談社現代新書)に彼について語る一節があり,こんなくだりが印象に残る。「メカスさんって言う人は,隅っこにいて,つねに世界を人の視線のそばで,かすかにたわんだようなところから見ているんですね。その目,これが大事なのです。狂気までは行かないけれど,どこかでやはり狂気にも近いような,ぎりぎりの控え目さと病と衰弱と,そして少し「はすっかい(斜交い)」から世界を見ているこの目というものが。/詩作とか芸術行為というのは,「わたし」が主役ではないのです。自分で気がつかないことを,ふっと,…そんな仕草の中にこそ,おそらく「詩」というものは少しだけ感じられるものでしょう。あるいは日々の動作の中から,ふっ…と,そうしたしぐさをつかまえる。そのような「弱い」しぐさ,見振りの中に,おそらくは「詩」というものが立ち現れてくる瞬間はあるのです。」(p.113)

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