2017-11-11

2017年11月,東京六本木,「典雅と奇想 明末清初の中国名画展」

 六本木の泉屋博古館分館で「典雅と奇想 明末清初の中国名画」展が12月10日まで開催されています。(展覧会詳細はこちら)。先週のこと,夕暮れ時に地下鉄駅から屋外エスカレーターで泉屋博古館分館へ向かいました。少しずつ,日常が下界へと遠ざかっていく感覚を楽しみながら。

  中国の書画は理屈を超えて惹かれます。東京国立博物館に行くと必ず東洋館の中国書画展示に足を運ぶし,数年前に台北に行ったときには2日間,国立故宮博物院に通って至福の時間を過ごしたりしました。
 
  ただ,「中国書画を見る」と一言で言っても,あまりにも広大な海に小舟で漕ぎ出すがごとし。「ああ,いいなあ」とか「これ好き」と感じるのがせいいっぱいで,例えば北宋・南宋から明清の絵画への流れとか,文人画とは,とか基本的な知識はいくら本を読んで頭に詰め込んでも,「見る」という身体的な感覚としては無力感を味わうことが多いのが常なのでした。
 
 でも,この展覧会は鑑賞者に対して素晴らしい導きを用意してくれていて,私にとっては中国絵画を心から楽しむひと時を過ごしました。その導きとは「倣古」「新奇」「我法」の3つのキーワード。充実した図録の「明末清初の名画 鑑賞のためのキーワード」(板倉聖哲東洋文化研究所教授著)に詳しいですが,目から鱗が落ちるとはこのこと。
 
 この日は板倉氏の解説を聞きながら会場を回ることができて,感激でした。ここに挙げたい作品がありすぎで途方にくれますが,私の一番は会場冒頭の徐渭の「花卉雑画巻」(1575・1591)。東博と泉屋博古館の所蔵の2巻が同時に展覧されるのは板倉氏の夢だったとか。
美術館より特別に写真撮影の許可をいただいています。
  激しい筆致に圧倒されていると,徐渭は狂気の人で妻を殺したという逸話が語られ,思わず足がすくみます。知らなければ,花の美しさに目を奪われて終わりだったかもしれない。富貴の象徴である牡丹は自身の「卑賎の身」と対比して描かれている!(図録p.12)
美術館より特別に写真撮影の許可をいただいています。
  石濤 「黄山図巻」, 米万鍾 「柱石図」などいつまでも記憶に残る作品群と,個人的に思い入れがある八大山人の「安晩帖」などなど,時間がいくらあっても足りない展覧会でした。画帖の画面展示替えも多いので,何度も足を運びたくなります。充実の図録は東京美術から一般書として出版されています。
 
 そしてこの展覧会は静嘉堂文庫の「あこがれの明清絵画 日本が愛した中国絵画の名品たち」という展覧会と連携しているとのこと。異なった視点から明清絵画の魅力を楽しめるとのことで,こちらも楽しみです。この秋は楽しみがつきない!

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