2018-11-03

読んだ本,「路上の人」(堀田善衛)

  富山の高志の国文学館で「堀田善衞―世界の水平線を見つめて」展が12月まで開催されている。行きたいとは思うものの,初冬の北陸の天候を考えると二の足を踏んでしまっている。事情があって金沢へでかける頻度も減っているので,このまま会期の終了を迎えてしまうかも。
 
 そして,実はもう一つ二の足を踏む理由がある。展覧会のチラシやポスター,HPの解説文,そのいたるところに「スタジオジブリ」と「宮崎駿」氏の文字や原画が踊っているのだ。宮崎氏は,自身の作品に大きな影響を与えたのが堀田善衛だと広言している。アニメをほとんど見ない昔からの読者の私は,こんなにスタジオジブリをフィーチャーしなくても,というちょっと複雑な想いを抱いている。アマノジャクなんだろうか。
 そんな気分で「路上の人」(新潮社 1985)を読み返してみた。初読はかなり前なのでほとんど忘却の彼方だった。路上のヨナが語り手となり,信仰とは何か,宗教とは何かを問う。物語の後半,ヨナは教皇の使者であり、異端審問の査察官であるアントン・マリア伯爵と行動を共にし,異端カタリ派最後の拠点モンセギュール城攻防が語られる。
 
 腐敗したバチカン教会が,「異端」であるという理由で,純粋な信仰を持つ人々を追い詰めていく過程とその結果が時に冷静に,時に壮絶に語られる。アントン・マリアの,ルクレツィアという女性への恋慕の情が切なくやるせない。
 
 「旦那,そんなにも何もかもに反対なのでしたら,旦那は何に賛成なさいますんで?」「おれか,おれは人が生きることに賛成なのだ」「へえ…。それでは神様は旦那の挙げなさったもののうちで,何にご賛成ですかい?」「それがわからぬ。神がかくも多くの解決不可能事を擁して,しかもなお平然としておいでであろうとも思われぬ」「それはあれですかい,この世はやっぱり教会の穴倉の扉にありますような,蟇やら蜥蜴やら蜘蛛やら蠍やらだらけのところで,天国へ行かないことには楽にはなりませんのですかい?(後略)」(pp.279-280より) 

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