2018-09-16

読んだ本,「雪の練習生」「球形時間」(多和田葉子)

 ようやく夏を乗り越えて,多和田葉子の旧作を2冊。「雪の練習生」(新潮社 2011)はホッキョクグマの三代記。「祖母の退化論」「死の接吻」「北極を想う日」の三章はそれぞれ,ベルリン動物園のクヌートの祖母,母トスカ,そしてクヌートが主人公となる。
 
 「毎日少しずつ涼しくなっていくということは,遠くから冬がやってくるということだ。もし近かったらベルリンの夏の暑さで暖まってしまったはずなのに,とても冷たい風が吹いてくるということは,冷たさを保ったまま,町の熱をこうむらない「遠く」があるということだ。遠くへ行きたい。」(p.251)
 
 小説を読みながら,この小説はクマが書いているのかヒトが書いているのか,だんだんその境界が曖昧になってくる。そしてふと気づく。読んでいる私は誰だ? いや,私はクヌートの母なのか,祖母なのか,いや,ヒトなのか,雪なのか。ぬいぐるみなのか,クヌートの死んだ兄なのか。
 
 「それにしてもマティアスはいつになったら姿を現すんだろう。そう考え始めると我慢できなくなってきて,これが「時間」というものなのだ,と突然クヌートは悟った。窓がだんだん明るくなっていく,その遅さ,それが時間だ。時間というものは一度現れるといつ終わるか分からない。」(p.185)
 
  「確かにマティアスは自分のことを「マティアス」とは呼んでいない。「マティアス」というのは他の人がマティアスを呼ぶ時に使う言葉で,本人は使っていない。これまで気がつかなかったが,なんと不思議な現象だろう。それでは自分のことをどう言っているかよく聞いていると,「わたし(イッヒ)」と言っている。しかも驚いたことにクリスティアンも自分自身を「わたし」と呼んでいる。みんなが自分自身のことを「わたし」と呼んでいて,それでよく混乱しないものだ。」(p.210) 
 「球形時間」(新潮社 2002)は,歪んだ時空を生きる悩める高校生男女のストーリー。太陽を崇拝する大学生が登場するあたりから読めなくなってしまった。いくら好きな作家でも,相性が悪いということはままあるものだ,と独りごちながら,それでも一応は通読した。やっと読み終えた。

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