2020-03-07

2020年2月,インド(番外編),三島由紀夫のヴァラナシ

  帰国してから,「暁の寺(豊穣の海 三)」(新潮社 1970)を読み返した。バンコクばかりが印象に残っていて,本多がヴァラナシ(ベナレス)を訪れていたことをすっかり忘れてしまっていた。この「三島のヴァラナシ」を出発前に読まなくてよかった,と思うくらいに強烈だ。二つある火葬ガートの1つ,マニカルニカ・ガートの描写。

  「川風は死に,あたりの空気には息の詰まりそうな暑気が澱んでいた。そしてベナレスではどこでもそうであるように,静寂の代りに喧騒が,人々のたえまない動き,叫び声,子供たちの笑い声,読誦の声などが,そのガートからも渾然ときこえてきた。人ばかりではない。子らのあとを痩せた犬が追い,又,火に遠い片隅の階段が暗く没した水の中からは,突然,牛追いのけたたましい叫びに追い上げられて,沐浴の水牛どものつややかな逞しい黒い背が,次々と踊り上がってきたりした。階段をよろめき昇るに従って,それらの水牛の黒く濡れた肌には,葬りの火が鏡面のように映った。/焔は時には概ね白煙に包まれ,煙の間から日の舌をひらめかせた。寺の露台へ吹き上げられる白煙が,暗い堂内に生物のように逆巻いていた。/マニカルニカ・ガートこそは,浄化の極点,印度風にすべて公然とあからさまな,露天の焼場なのであった。しかもベナレスで神聖で清浄とされるものに共有な,嘔吐を催すような忌わしさに充ちていた。そこがこの世の果てであることに疑いはなかった。」(原文は旧仮名・旧漢字。pp68-69)

  蛇足ながら,物語の終盤,本多がジン・ジャンを想う場面。帰国してからこの方,毎日ふわふわした気分で過ごしてしまっていたが,がつんとやられた。

 「本多は嘗て知らなかった少年期の初々しい恋心に似たものが,五十八歳のわが身に浸透してくるのに愕然とした。/本多が恋をするとは,つらつらわが身をかえりみても,異例なばかりでなく,滑稽なことだった。恋とはどういう人間がするべきものかということを,松枝清顕のかたわらにいて,本多はよく知ったのだ。/それは外面の官能的な魅力と,内面の未整理と無知,認識能力の不足が相まって,他人の上に幻をえがきだすことのできる人間の特権だった。まことに無礼な特権。...」(同上 p.268)

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